左メニュー
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
『三国志集解』の著者・盧弼の写像
盧弼(ろひつ、1876年 - 1967年)は、清末から中華民国にかけての中国の歴史学者・考証家・古籍の研究家、収集家で官僚でもあった。字は慎之[1]。称号は慎園。「廬弼」とも呼ばれる。兄は清の是直逮提学使・盧靖(廬靖)[2]である。
湖北省仙桃市沔陽県の人である。1903年に官費で日本に留学して、弘文学院速成師範科で学んだ。1905年に、東京専門学校[3]に進学して、政治経済学を専攻していた。
1908年に帰国して、1912年に北京政府銓叙局に就職して、様々な職務を歴任した。
彼は陳寿が著して、それを引用した裴松之の『三国志』を考証し、中華書局から出版された『三国志集解』[4]と『三国志集解補』[5]を著したことで有名である。
盧弼の著書は『三国志』の研究者にとっては、貴重な資料のバイブル的な存在である。
ただし、劉備の項目で193年に兄弟子の公孫瓉の部将である青州刺史・田楷の副将として曹操に包囲された徐州刺史・陶謙を救助した際に原文の「劉備は田楷を補佐して陶謙を救援した…」の部分を盧弼は「劉備は田楷とともに陶謙を救援した」と乱暴にも自己満足的に改竄したため現在の中国の中華書局版および、日本での『三国志』関連を著した学者もそのまま引用しているから極めて異常な事態だ、と『三国志_きらめく群像』で高島俊男が盧弼を批判しているので、留意が必要である[6]。また、歴史作家の陳舜臣も盧弼を痛烈に批判している。
さらに盧弼は、自著『三国志集解』で『魏書』明帝紀が引用する『魏末伝』にある魏の烈宗明帝(曹叡)が太子時代に、父の太宗文帝(曹丕)と狩りを行った際に、曹丕は母鹿を射抜いた。曹丕は息子の曹叡に小鹿を射るように命じると、曹叡は「陛下は、すでに母鹿を射殺しました。わたしは小鹿を射殺すのは忍びありません…」と涙を流して嘆願した。これを聞いた曹丕は小鹿を射殺すのやめて、太子を評価したという。盧弼はこれに対して「曹叡は曹丕の子ではなく、袁熙(袁紹の次子)の遺腹の子であることを示し、曹丕はそれを知って新たに寵愛した郭皇后とともに曹叡の生母である甄皇后を誅殺したことを物語っているのだ」と述べ、さらに盧弼は「曹叡は袁熙の遺腹の子であることを露見されると都合が悪いので、子は生かしてその母親の口を塞いで誅殺したのだ」と自分自身が思いついたようなことを述べている。
しかし、上記の裴松之の引用を参照にした前述の高島俊男は『三国志_きらめく群像』で「盧弼が述べているのはまったく馬鹿げている。曹叡が曹丕の子ではなく、袁熙の遺腹の子ならば、当時のことを知っている人々はいるだろうし、曹丕もそれを知っていれば曹叡が幼児のうちに殺害するのが筋であろう。わたしは曹叡は曹丕の実子であると思う。盧弼が引用する『魏末伝』の逸話自体が与太話である」とあらためて盧弼を痛烈に批判している。
他には、『三国志引書目』・『三国志職官録』・『三国志地理今釋』・『慎園文选』・『慎園筆記』を著している。さらに兄の盧靖と共作である『四邨庫湖北先正遺書提要』・『湖北先正遺書』・『沔陽叢刻』・『慎始基斎叢書』などがある。
1967年に92歳の高齢で天寿を全うしている。
盧弼自身は、劉備の養子とされる劉封の出自を詳しく調べなかったようで、後世の我々にとっては至極残念である[7]。同時に諸葛亮を崇拝していたようである。
なお、盧弼の子と孫の有無は不詳である。
シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...
2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...
黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...
“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...
黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...
曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...
麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...
鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...
曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...
曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...
曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...
鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...
鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...
魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...
甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...
魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...
魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...
高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...