バッチャーニ・ラヨシュ_(政治家)

ページ名:バッチャーニ・ラヨシュ_(政治家)
曖昧さ回避この項目では、ハンガリーの初代首相について記述しています。その他の人物については「バッチャーニ・ラヨシュ」をご覧ください。

ハンガリー王国の初代首相のバッチャーニ・ラヨシュ

ネーメトゥーイヴァーリ・グローフ・バッチャーニ・ラヨシュ(ハンガリー語:Németújvári gróf Batthyány Lajos、1807年2月10日 - 1849年10月6日)は、ハンガリーの伯爵・政治家である。同時にハンガリー王国の最初の首相(任期:1848年3月17日 - 1848年10月2日)でもある。なお、ドイツ語では「ルートヴィヒ・バッチャーニ」とも呼ばれる。また、革命指導者のバッチャーニ・グスターヴ(Batthyány Gusztáv)は同族であり、ともにハンガリー独立運動を起こした。

概要[]

バッチャーニ家の起源は、896年起源のアジア系遊牧民族のマジャール人王朝であるアールパード朝成立の時代にまで遡る。その始祖はアールパード朝における7つの有力部族の中で「ウルス」と呼ばれたバチャーニュ氏族である。バチャーニュ氏族はハンガリー西部にあるネーメトゥーイヴァール(Németújvár)[1]地方を与えられ、当地を支配した。

ラヨシュはスロヴァキアの首都であるブラティスラヴァ(Bratislava)[2]で、ハンガリー貴族のエーデシャピャ・グローフ・バッチャーニ・ヨージェフ・シャーンドル(Édesapja gróf Batthyány József Sándor)とシュケールレツ・ボルバーラ(Skerlecz Borbála)との間の子として生まれた。

父母は折り合いが悪く、母はオーストリアのウィーンに移住して、夫と別居した。6歳のときに父が36歳の若さで逝去して、ウィーンにいた母はバッチャーニ家の財産を相続して、ウィーンで豪華で贅沢な生活を送った。ラヨシュおよびその兄弟は放任されて、雇われた家庭教師によって、教育を受けた。7歳になるとハンガリーの寄宿学校に入学して、彼は家庭に恵まれないまま育った。

16歳になると、クロアチアの首都であるザグレブ[3]の法律アカデミーに入学して、そこで帝王学を学んだ。1826年にイタリアの陸軍士官学校に入学した。翌1827年に卒業して、彼は中尉の位を授与された。

その後、各事情により軍隊を去ってハンガリーに帰国して、ヴァシュ県に居住した。1830年に、24歳の若さで政治家となり貴族院のメンバーとなった。

1834年に、28歳でハンガリー貴族であるズィツィ・カーロイ(Zichy Károly)の娘であるズィツィ・アントーニヤ(Zichy Antónia)と結婚して、長女のアマーリャ(Amália)と次女のイローナ(Ilóna)と長男のエレメール(Elemér)などを儲けた。

時はオーストリア=ハンガリー帝国(南ドイツ帝国)による『アウスクライヒ体制』の時代であり、フランス系ドイツ貴族のハプスブルク=ロートリンゲン朝ロートリンゲン家)の皇帝であるフェルディナント1世(ハンガリー王としては、フェルディナーンド5世)が、実質上にハンガリー周辺を支配していた。

ラヨシュはそのような、抑制された時勢に不満を持ち、1839年~1840年に参議院で野党のリーダーとしてブラチスラヴァの国会で、ハンガリーの独立を民衆に訴えた。そのときの仲間が同じ貴族である同族のバッチャーニ・グスターヴとセーチェーニ・イシュトヴァーンとコッシュート・ラヨシュらであった。

1843年にラヨシュはヴァシュ県の県都であるソンバトヘイで、砂糖製造協会を中心とした多くの支持を得て躍動した。1845年にハンガリーの首都であるブダペシュト(ブダペスト)でラヨシュは中央幹部の元首に選出された。

1848年の3月15日に起こった『ハンガリー革命』で、ハンガリーの独立運動に参戦した民衆が、オーストリアの軍勢を撃退した。オーストリアでは、ハンガリー独立運動を鎮圧できなかった責任でフェルディナント1世が退位して、嗣子がないために、19歳になる甥のフランツ・ヨーゼフ1世[4]がその後を継いだ。

さらに、長年の間のオーストリアの実力者であったクレメンス・メッターニヒが、新皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世によって大法官を解任され、彼自身はイギリスはロンドンへ亡命した。

こうして、はじめてのハンガリーの政府が成立して、同年3月17日にラヨシュは初のハンガー王国の首相に就任した。同時にセーチェーニ・イシュトヴァーンとコッシュート・ラヨシュも入閣した。しかし、穏健派のセーチェーニ・イシュトヴァーンと急激な改革派のコッシュート・ラヨシュの対立が表面化したため、ラヨシュは責任を取って同年の10月2日に総辞職した。その後釜として、コッシュート・ラヨシュが第2代首相に就任した。

ハンガリー王国の樹立に対して、新皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世は激怒して、軍勢を動員した。ついに翌1849年1月5日にハンガリーは鎮圧され、ハンガリーの元帥のゲルゲイ・アルトゥールは降伏し、同族のバッチャーニ・グスターヴは政情不安なハンガリー王国からイギリスに亡命してしまい、セーチェーニ・イシュトヴァーンは辞任して、精神病と称して、隠遁した。コッシュート・ラヨシュはオスマン・トルコ帝国に亡命した。

やがて、ブダぺシュトに到着したオーストリアの軍部最高司令官であるアルフレート・ヴィンデーシュグレーツ1世は、1月6日にラヨシュらを拘束して逮捕投獄した。1月8日には陸軍元帥であるフランツ・フィーリプ・フォン・ランベルクもブダペシュトに到着した。オーストリア軍部の首脳陣はまもなく、ラヨシュの裁判を開催した。数日後にオーストリアの皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の意向もあって、ラヨシュらは銃殺刑に処する判決が下された。

同年10月6日にラヨシュは、ブダぺシュトでオーストリアの軍部によって銃殺刑に処された。穏健な改革派であったラヨシュの最期の言葉は「祖国よ、永遠なれ!」で、享年43であった。

なお、現在のブダペシュトにあるバッチャーニ広場駅およびバッチャーニ広場は彼の名をちなんで、つけられたものである。

オーストリアの軍部によって処刑される直前のバッチャーニ・ラヨシュ

脚注[]

  1. 現在のオーストリア東端部にあるブルゲンラント州ギュッシング郡にある。
  2. ドイツ語はプレスブルク(Preßburg)、ハンガリー語はポジョニ(Pozsony)と呼ばれる。
  3. ドイツ語はアークラム(Agram)、ハンガリー語はザーグラーブ(Zágráb)と呼ばれる。
  4. ハンガリー王としては、フェレンツ・ヨージェフ1世。

関連項目[]

  • マジャール人
  • セーチェーニ・イシュトヴァーン
  • コッシュート・ラヨシュ
  • アンドラーシ・ジュラ


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