本多俊政

ページ名:本多俊政
曖昧さ回避この項目では、尾張本多氏(水野本多家)の当主について記述しています。同族の本多正信の父については「本多俊正」をご覧ください。

本多俊政像(壷阪寺蔵)

本多 俊政(ほんだ としまさ、1551年(天文20年) - 慶長5年閏2月8日(1610年4月10日))は、戦国時代末期から江戸時代初期の武将。別称は利正/利朝、通称は半左衛門。

葛城姓賀茂氏流三河本多氏一門の水野本多家(尾張本多氏)の祖の本多利綱[1]の曾孫、利元(太郎左衛門)の孫、利久(利忠)[2]の子、光吉(新太郎・外記)の兄、利昭(長古斎)・政武(正武/利家)の父。また、本多忠勝(平八郎)・本多正信(弥八郎)・本多重次(作左衛門)らの遠縁筋である。

目次

概要[]

父・利久は羽柴秀吉の武将を経て、その弟・秀長の武将として活躍した。

俊政も同じく秀長に仕えて、滝川一益が籠城する伊勢国の長島城攻略や『賤ヶ岳の戦い』などに従軍し、翌天正12年(1584年)に、因幡守に叙任された。

天正年間の末頃に、父から1万石を分知され、秀長の死後はその婿養子の秀保(秀俊)に仕えた。

文禄元年(1592年)に、『文禄の役』では壱岐国の勝本城に500人を率いて在番し、朝鮮渡海の軍役のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維持の責任者として、当たった。

文禄4年(1595年)に、秀保が死去すると、秀吉の直臣となった。同年に、紀伊国の代官を務めて、5,000石または1万石を加増され、併せて2万5,000石の知行となった。

慶長5年(1600年)9月の『関ヶ原の戦い』では、惣領家の三河本多氏の主君である徳川家康に従って、陸奥国の会津征伐に従軍し、石田三成の挙兵後も、そのまま東軍に与した。このため、居城の高取城が西軍に攻められたが、城主不在にもかかわらず家臣だけで守りきって、落城しなかった。東軍であるため、戦後も所領を安堵された。

慶長8年(1603年)に、父の死去により、家督を継いだ。慶長15年(1610年)閏2月8日に、60歳で死去した。末子の政武(利家)が、その後を継いだ。

脚注[]

  1. 足利将軍家一門の源姓今出川氏の当主の今出川義純の女婿。元亀元年(1570年)没。
  2. 杉利氏(与左衛門とも、利之(正広)の父)の兄。

関連項目[]

関連リンク[]

  • 『D-5>源朝臣 足利 本多系 水野 ≪考証≫ 2/2』
先代:本多利久水野本多家(尾張本多氏)第4代当主1603年 - 1610年次代:本多政武


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