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ドイツ連邦の各地域図
ドイツ語(標準ドイツ語/高地ドイツ語:Deutsche Sprache、アレマン語:Deitsche Sproch、バイエルン語:Dåitsche Sproch、上部フランケン語:Daitsche Sproch、中部フランケン語:Dütsche Sprooch、低地ドイツ語:Düütschie Spraak、オランダ語:Duits Spreek、フリースラント語:Duuts Spreak)とは、中央ヨーロッパにあるドイツの言語である。
または「標準ドイツ語」、「高地ドイツ語」とも表記される。日本語は独語、中国語は徳語と表記される。
もともとは、スカンジナヴィア半島からユトラント半島[1]にいたゲルマン系の一派の西ゲルマン語群[2]で、元来は「大衆の」[3]を意味する、Teutone(トイトーネ)→Teutsche(トイチェ)→Deutsche(ドイチェ)と変遷した[4]。
4世紀ごろ、トルコ系またはモンゴル系のフン族[5]の王であるアッツィラ[6]率いる遊牧民族が中央アジア西部から、東ヨーロッパに現れて、中央ヨーロッパにまで侵入して蹂躙したため、その影響で古代ゲルマン人は民族移動を開始した。
ライン川中・下流の北西部にはザクセン族・東フランク族、ライン川支流であるネッカー川流域の中南部にはフランケン族[7]、かつてエルベ川流域にいた北東部にはアレマン族[8]とザクセン族の一派、ドナウ川上・中流の南東部にはバイエルン族などの諸族に分かれていた。
そのため、地域ごとに言語の差があり、ラテン語の影響を受けながら、5世紀末~6世紀初の第二次子音推移を経た高地ドイツ語から中部ドイツ語(中央ドイツ語)と上部ドイツ語(南部ドイツ語)に分かれた。特に中部ドイツ語が標準ドイツ語のバイブルとなり、中世にマルツィン・ルター[9]によって確立され、その仕上げをヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ[10]やグリム兄弟らによる編纂で、現在に至る標準ドイツ語が出来上がったのである[11]。同時に中部ドイツ語は子音推移の破裂音の有声化が著しく強く、上部ドイツ語は子音推移の破裂音の無声化の傾向があり、南部ドイツ語特有の発音が滑らかな特徴を持っている。
一方、第二次子音推移を経てない、低地ドイツ語(北部ドイツ語)は系統言語であるオランダ語とともにフリースラント語にもっとも近く、かつては英語(アングロサクソン語[12])やスコットランド英語[13]とは近縁の言語だった。
同時にバルト系と混血した西スラヴ系のソルブ族とカシューブ族とプロイセン族もドイツ人と同化し、彼らが使用する言語も「ドイツ・スラヴ語」または「スラヴ・ドイツ語」とも呼ばれている。
ちなみに、ザクセン族と東フランク族(フランケン族)はソルブ族とカシューブ族とプロイセン族との混血が著しく、言語的に低地ドイツ語と中部ドイツ語が複雑に融合している民族であり、一方フランケン族とバイエルン族[14]とアレマン族は、ライン川上流にいた古ケルト系民族とラテン系ローマ人[15]などが相互に混血して形成され、上部ドイツ語に属する民族である。
「ドイツ語」という言語は786年に、テオディスクス(theodiscus) というラテン語型で初めて文献に登場するが、これは「民衆の」という意味を表す古代ドイツ語の形容詞(diutisc)を語源としている。このテオディスクスはチュートン人またはトイトーネ人(Teutone)[16]のラテン語形ともされる。
時代順に高地ドイツ語は、
とおよそ、四期の段階に分類されている。
これに対し、低地ドイツ語は
とおよそ、三期の段階に分類されている。
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