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得川頼有像
得川 頼有・世良田 頼有(とくがわ よりあり/せらだ よりあり、生没年不詳)は、鎌倉時代初期~中期の武将・鎌倉幕府の御家人。通称は下野(江田)太郎四郎[1]。得川氏の家祖である。官職は下野守で、「下野前司」と呼ばれた。
陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一門義季流世良田氏(世良田氏)の家祖・世良田義季(得川義秀)の庶長子、頼氏・頼成[2]の異母兄。頼泰[3](得川下野太郎四郎)・世良田頼義[4]、岩松経兼[5]室の父。
父から上野国新田荘得川郷と下野国東部を与えられて、父とともに開拓し、勢力を伸ばした。また、御家人として幕府から信頼されていたという。外孫(娘の子)で、足利氏(下野源氏)一門である岩松氏の当主・岩松政経[6]を養子とした。
『得川頼有譲状』によれば、1268年7月3日(文永5年5月30日)に、頼有は外孫で養子の政経宛の譲状に「ゆつりわたす所りやうの事…かめわう丸所、一 かうつけの国新田庄とくかわのこう、よこせのこう、下えたのむら」「新田庄内の所りやうらハ重代さうてんのしりやう也…文永五年五月三十日散位源頼有(花押)」と記述されている。
さらに、前述の外孫で養子の岩松政経に上野国新田荘得川郷を含む横瀬郷・下江田村、相模国と但馬国の領地の一部の所領を譲り、これにより得川郷の得川氏の当主は歴史上から消えてしまい、以降から足利一門の岩松氏が代々、得川郷の当主として「下野守」と称し、新田家惣領内にも実権を握ることになった[7]。
『新田氏根本史料』(千々和実/国書刊行会/1974年)が引用する鑁阿寺所蔵の『新田足利両家系図』[8]によれば、頼有の次男の頼義は、相模国三浦郡の豪族で御家人の三浦泰村の女婿だったので、1247年(宝治元年)の『三浦泰村の乱』(『宝治の戦い』)に岳父の泰村に加担して、時の執権の北条時頼・安達景盛と戦って敗れ、三浦氏は滅亡した。
同じく敗走した頼義は子の小次郎頼忠とともに常陸国新治郡大増郷の筑波山麓の北東部まで逃れて、そこで隠遁して頼義は「朝谷禅門」(または朝谷禅門入道)と称して出家した。子の小次郎頼忠(頼任/頼佐/小次郎)が後を継ぎ朝谷氏(常陸源氏)と称し、その子の太郎四郎義秋・次郎四郎正義兄弟と続いた。1313年(正和2年)に、後に新田惣領家の朝氏(義貞の父)が、常陸国筑波山付近で、悪党の頭領として名を轟かしている朝谷兄弟の噂を聞いた。ついに朝氏は腰を立ち上げて、遠戚の一族である朝谷兄弟を新田荘に招いて、自分の妹を義秋に娶らせ、新田荘内の土地を与えた。義秋と朝氏の妹との間の娘は同族の世良田経広に嫁いで、有親を産んだという。
後に義秋は嗣子がないまま逝去し、弟の正義が後を継ぎ、朝氏の子・義貞に従った。以降は正義の子・義行は子の晴義とともに新田義宗(義貞の3男)に従い、各地を転々とした。晴義の子・昌義は義宗の子である貞方(義邦)・貞邦(貞国)父子に従ったが、昌義は子がなく、ついに朝谷氏は断絶したという。
上記の通り、頼有も息子の行為に連坐されて、官職を失って失脚し、数十年後の1270年(文永7年)以降に老衰で没したという。孫の頼氏(尚氏)に嗣子がなかったので、族曾孫の世良田義政を猶子にして、後継者としたという[9]。
先代:- | 得川氏初代当主- | 次代:得川頼泰/岩松政経 |
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