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大和越智氏の家紋「遠雁に笹竜胆」[1]
越智氏(おちし)は、陽成源氏流大和源氏一門の宇野氏の庶家である。「大和越智氏」とも呼ばれる。
庶家に樽原氏があり、同族に摂津豊島氏[2]・岑田氏(峯田氏)などがあった。
宇野氏の祖である頼房の孫である宇野頼風の子の頼安が大和国高市郡越智庄[3]を拠点としたことからはじまる。
大和源氏は平安時代~鎌倉時代にかけて、大和国内の北部の勢力があった興福寺と対決しており、力が非常に強い興福寺の寺僧である衆徒と春日大社の神人である信徒が中心として分かれていた。南北朝時代には両方で南朝と北朝に分裂して、越智氏は「散在党」と呼ばれる棟梁として連合をまとめあげて勢力を拡大していった[4]。
越智氏は古くから南朝方に属して活躍し、『観応の擾乱』では、遠縁筋の足利氏(下野源氏)一門の足利直義(高国)が兄の足利尊氏(高氏)に敗れて、越智家澄(源太郎)を頼っていた。直義はこの後に南朝方に帰順している。しかし、情勢は次第に南朝方が不利となり、家澄はかえって北朝方に帰順した。
家澄の子の頼澄は南北朝統一後は大和国の勢力者となり、国内一の勢力であった興福寺を凌ぐほどの勢力を誇り、高市郡全体をほぼ手中に治めて鎌倉時代から続いていた大神姓筒井氏との抗争を繰り返した。応永21年(1414年)には興福寺の訴えがきっかけで室町幕府が仲裁に介入するも、争いの火種は収まらずにいた。
正長2年(1429年)に大和で『大和永享の乱』が発生し、一乗院衆徒井戸某方が筒井氏と十市氏らと結んだために、頼澄の孫の頼高(家高の子)は箸尾氏らとともに大乗院衆徒豊田中坊を救援した。戦いは一進一退を極めて、永享4年(1432年)の秋9月に頼高は筒井氏を撃破するも、足利将軍家の足利義教の介入によって、派遣された赤松満祐の軍勢によって大敗を喫した。しかし、頼高はすぐに勢力を盛り返し、永享6年(1434年)に再び筒井氏は大敗し、当主の筒井順覚が戦死して長子の順弘が家督を継いだ。しかし、翌年に再び義教が討伐軍を派遣して、4年間も戦闘を繰り返して、永享11年(1439年)の春3月には、頼高が戦死を遂げて、10年間の抗争に幕を閉じた。これにより大和国内にいったん安穏を迎えた。
頼高の戦死により家督は子の家維(維光/維通)ではなく、庶家の楢原氏が惣領家の越智氏を家督を継いだが、嘉吉3年(1441年)の『嘉吉の乱』で義教が赤松満祐に暗殺された混乱の隙を衝いて、家維は足利氏一門の畠山氏(武蔵源氏)一族の畠山持国の後援により、庶家の楢橋氏を破って惣領家の座を奪回して、家維が家督を継いだ。亡父の頼高を戦死させた筒井氏で内紛が起きると、筒井氏は順弘を筒井城に復帰させて順弘の弟の成身院光宣・筒井順永兄弟と抗争した。嘉吉3年(1443年)に、順弘が家臣によって暗殺されると大乗院門跡経覚・古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘らと組んで光宣を筒井城に幽閉した。古市胤仙の急死を契機に翌年に和解するも、その翌年に畠山持国が病没して、その子の義就と甥の政久・政長兄弟のお家騒動が発生すると、大和国内は大混乱となった。さらに『応仁の乱』が発生すると義就派として政長派の筒井順尊(順永の長男)と十市遠清・遠相父子をはじめ、箸尾為国らを追放し、越智氏は最盛期を迎えた。
明応6年(1497年)に筒井順賢(順尊の長男)・十市遠治(遠相の子)らが大和国に侵攻して、家維は敗れて子の頼教・家直をはじめ、古市澄胤とともに没落したが、翌年に勢力を盛り返した。永正2年(1505年)に筒井順賢ら和睦して、家維は娘を順賢に、もうひとりの娘は順興(順賢の弟で家維の死後に嫁いだか)に嫁いだ。しかし、翌年に赤沢朝経が攻め込んできたため、筒井順賢や古市澄胤などの国内の豪族とともに国人一揆を結成して抵抗したが、その翌年に家維は戦死した。
家維の後を継いだ孫の家教(頼教の子)は再び大和国内の混乱に巻き込まれて、四度も筒井氏と対立した。その後、家教の子の家栄(林令入道)が家督を継いだ。その後にその子の家広の時代に筒井氏らと和睦すると、その後を家栄の孫の家隆が継いだ。しかし、実権は父である樽原家益が握っていた。しかし、家隆は従兄である家長の謀反で、父と妻子ともどもに殺害されて、越智氏の家督を簒奪された。この頃は戦国時代であり、彼の織田信長の勢力拡大によって、大和国まで影響が及ぶと、家長は当初は信長に抵抗するが、家臣の松永久秀に勧めもあって、後に信長に降った。しかし、家長は信長が『本能寺の変』で遠縁筋の明智光秀の謀反で斃れると、信長に代わって権力を掌握した羽柴秀吉と結んで、越智氏の存続を図ったが、筒井順慶(藤勝/藤政)と内通した家臣の謀反によって、子の家盛・長盛とともに暗殺されて、ついに名門越智氏は滅亡した。
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