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宇野氏の家紋(二つに鼓)
宇野氏(うのし)とは、日本の氏族。大和国宇智郡宇野庄(現在の奈良県五條市宇野町)を本拠点とした。
陽成源氏のうち大和源氏の頼親流[1]の一門で、頼親の次男である頼房(宇野次郎)が宇野氏を称したことからはじまる[2]。源姓宇野氏とも呼ばれる。
同族に久留野氏(惣領家)・摂津福原氏・摂津太田氏、庶家に大和越智氏・摂津豊島氏[3]・岑田氏(峯田氏)などがある。
頼房は父の威光で、永承4年(1049年)の12月に、加賀守に任命されると、早々に興福寺との間で抗争を起こし、多数の死者が出る結果となった。激怒した興福寺の訴えにより、翌年に父の頼親は次子の狼藉行為の責任を問われて、父の頼親は土佐国に頼房自身は隠岐国に流された[4]。
数年後の康平5年(1063年)の12月、朝廷の恩赦で京に戻って、復職した。しかし、承保3年(1076年)に、再び興福寺と悶着を起こして、その訴えにより肥前国へ配流となり、同地において間もなく没したという。
頼房の長子の頼俊は治暦3年(1067年)に、陸奥守に任ぜられて、延久2年(1070年)に、後三条天皇の勅命によって陸奥国征伐に赴き、出羽清原氏の当主の清原貞衡の援助で、蝦夷の安東氏を討伐した。しかし、同年12月26日に記された頼俊の解状によれば、頼俊は朝廷から派遣された陸奥国南部を支配した藤原基通と悶着を起こして、基道らが官物や公事を拒否した上に、国印と国倉の鍵を奪うという事件が発生した。勅命により下野守に任ぜられた族弟の八幡太郎義家の加勢によって、この争いを鎮圧する事件まで起きている。
頼俊の子の頼治は嘉保2年(1095年)に、延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白の藤原師通(藤原北家)の命により賀茂川原の守備に就いて、これを撃退した。しかし、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことで、激怒した延暦寺が頼治と抗争を招くことになった。さらに4年後の承徳3年(1099年)には、師通が39歳の若さで急死したため、これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決定して、彼を佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。こうして、宇野氏は惣領家の久留野氏とともに没落していき、同族の福原氏と庶家の大和越智氏が代わって勃興することになった。
なお、頼治の子である宇野頼弘(親弘)の娘は、同族の新田義重に嫁いで、義兼と世良田義季(得川義秀)を産んでいる。
頼弘の子の頼治は久安元年(1145年)に、興福寺の衆徒が金峰山を攻めた際に、金峰山方について戦った。保元元年(1156年)に勃発した『保元の乱』では、崇徳上皇と藤原頼長方に加担した。頼治は兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛(平清盛の次子)と遭遇したために、頼治は激戦の末に敗れて捕虜となった。頼治は戦いが終わるまでは投獄されたが、戦後に赦免されて大和国に戻ることを許された。この背景には、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇(崇徳上皇の異母弟)による興福寺牽制のための政治的措置だったとされている。治承4年(1180年)の以仁親王(後白河法皇の第2皇子)の挙兵の際は、息子たちを同族の源頼政に派遣させた。
その後は、同族の福原氏と庶家の大和越智氏に気圧されて、鎌倉時代~南北朝時代~戦国時代~江戸時代はひっそりと存在したようである。
江戸時代初期に遠縁筋の徳川家康により、高家(高家旗本)に課せられて、明治時代には男爵となったようである。その後は男系がなく断絶したようである。
肥後国の国人・肥後隈部氏[5]は上記の宇野頼弘の後裔と仮冒した。
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