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曖昧さ回避 | この項目では、春秋時代の姫姓の国について記述しています。その他の唐については「唐」をご覧ください。 |
唐の家祖・唐叔虞
唐(とう、紀元前11世紀ごろ - 紀元前505年)は、中国の春秋時代の国名。姓は姫(姫姓)。封地は現在の山西省臨汾市翼城県にあったが、後に河南省南陽市唐河県~湖北省襄陽市棗陽県あたりに移封した。
かつては、殷=商代からあった古代部族の唐君が統治した国であった。周(岐)の武王(仲発)が殷の帝辛[1]が発祥地[2]である東方諸侯の反乱を鎮圧するための遠征中にその留守を衝いて、殷の都である朝歌を襲撃した『牧野の戦い』で、殷の属国であった唐は圧倒的な周の大軍に降伏した。
周が留守を衝いたために殷が滅亡して、周の「皇帝」となった武王が紀元前1021年ころに崩御し、当時は末子相続だったため、11歳[3]あるいは14歳[4]になる幼い末子の太子季誦が即位した(成王)。しかし、摂政となった魯の周公旦[5]の統治に不満を持った唐君は間もなく反乱を起こした。周公旦自ら唐の討伐に向かって、これを滅ぼした[6]。
その一方、成王のすぐ上の同母兄に唐叔虞がおり、字は子于[7]であった。彼らの生母である邑姜[8]は叔虞を身籠ったときに、生前の武王は天帝から「汝はこれから男子を儲けるであろう。その子に「虞」と名付けるように。彼は唐の主となるであろう。彼の末裔[9]は栄えるであろう」という天の告げの夢を見た。武王はそのことを太史の尹佚[10]に話した。まもなく邑姜が男子を産むと「虞」と名付けられた。叔虞は武王の6男であり、徐伯・密仲・邘叔・応叔・韓叔[11]という異母兄[12]がいた[13]。
前述の周公旦が唐を滅ぼすと、その後釜として太史の尹佚はまだ封地がない叔虞をその主にするように進言した。周公旦も賛同したので、成王は兄の叔虞を唐侯に封じ、以降から叔虞は「唐叔虞」と呼ばれた。後に唐叔虞が亡くなると「太公」と謚され、子の丁公燮(爕)が後を継いだ。
しかし、丁公の子・唐侯遂の代になると、外従兄弟である古代トルコ系翟(白狄)の孤氏出身の晋の武侯寧族[14]が反乱を起こしたために、国を追われた唐侯は本宗家の周の昭王瑕[15]の下に逃れた。これを憐れんだ昭王[16]は唐侯に対して唐の封地を南方の溳水[17]あたりに移転させた。同時に昭王[18]は遊牧的で強大な軍事力を誇る武侯寧族の強引な要請に屈して、(武侯の)母方の「姫姓」を賜り[19]、唐に代わって「晋」の建国を認めさせた[20]。
紀元前506年に唐の最後の君主である成公は同族の随と蔡とともに、南方の蛮族と蔑まれた呉(姑姓)と盟約した。そのため、翌紀元前505年秋7月に楚の公子結[21]と秦の子虎・子蒲兄弟[22]の連合軍によって、成公は捕虜となり、ついに唐は滅亡した[23]。
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