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曖昧さ回避 | この項目では、春秋時代の姑姓の呉について記述しています。その他の用法については「呉」をご覧ください。 |
呉の都・姑蘇
呉(ご、紀元前7世紀頃 - 紀元前472年)は、中国の春秋時代の国名。姓は姑(姑姓)。姑蘇・呉中[1]~荊邑[2]におよんだ。旧名は「句呉」[3]。
基盤としては南方の蛮族[4]の国である。古代に周[5]王室に仕えた中原の子爵でもあったかつて虞君[6]だった荊邑を中心とした宜侯の丁公奕(父丁)・夨父子、あるいは同じく芮君の孫という盂が姑蘇・呉中の中心である呉侯となり、その末裔と自称した。
紀元前7世紀前後に句呉の酋長の句卑(呉太白[7])・句余(句餘/呉中[7])兄弟が勢力を伸ばし、句卑の子の寿夢が南方の蛮族の呼称である「句呉」から中原風の「呉」と改称して、「呉王」と称し、おなじ蛮族の楚と勢力を争った。ちなみに呉の姓である「姑」は都の付近にある姑蘇山からちなんだものである。
当時の呉は兄弟相続であり、寿夢が逝去すると長男の諸樊[8]が後を継いだ。しかし紀元前548年に諸樊は楚の属国である巣に攻め込んだが、巣の牛臣に射殺され、弟の余祭が後を継いだ。しかし、紀元前544年夏5月に、余祭は舟に乗り移動しながら各地を視察する巡回に出向いたときに、脚を切断され門衛にされた越の捕虜によって惨殺され、弟の余昧が後を継いだ。紀元前527年に余昧が病死すると、弟の州于[9]が後を継いだ。
しかし、余昧の子・公子光は弟の夫槩[10]とともに叔父の呉王僚(州于)から呉王の地位の簒奪を目論んだ。そこで楚から亡命した伍子胥[11]と斉から亡命した孫子こと孫武と共謀して、刺客の鱄設諸[12]に命じて、紀元前515年夏4月に酒宴で呉王僚の暗殺に成功して、こうして公子光が呉王となり、闔閭[13]と改称した。呉王僚の弟である延陵[14]の季子こと季札[15]は呉の外交官として活躍していたが、兄の横死のためにその後を継ぐことができなかった。季札の末裔は呉氏と称して、楚漢時代の長沙文王・呉芮[16]および、呉芮の16代目の末裔の魏の長史・呉綱は季札の末裔という。また、『三国志』に登場する後漢末の呉郡呉県出身の呉景[17]も季札の末裔と称した[18]。
楚を討伐した呉王僚の子・公子掩餘[19]と公子燭庸[20]兄弟は父の横死を聞いて、驚愕した。掩餘は舒[21]に、燭庸は鍾吾に逃げた。紀元前512年冬ごろに兄弟は従兄弟の闔閭の襲撃を受けたために楚に降った。楚は両公子に養を与えて、両公子は養氏の祖となったという。
叔父から呉王の地位を簒奪した闔閭は、伍子胥・孫武の補佐を得て、周王室の親藩である唐・蔡・随と盟約を結んで、たびたび楚と対峙した。紀元前506年についに闔閭は楚の都である郢を陥落させた[22]。しかし翌紀元前505年に同じく蛮族の越の王である允常[23]が呉の留守を狙って、その都である姑蘇を攻撃した。これを聞いた闔閭は驚愕し、太子終纍[24]に命じて軍勢の半数を引き揚げさせて都を防御させた。しかし、秋9月に弟の夫槩が闔閭の末子である公子山[25]を襲撃して反乱を起こし、自ら「呉王」と称したため、この報に驚愕した闔閭は姑蘇に引き揚げて、夫槩の軍勢を撃退した。夫槩は楚に亡命して、堂谿を与えられた。以降から夫槩の末裔は堂谿氏と称した。後漢末になると『三国志』に登場する人物として、北方の穎川郡に籍を持った学者の堂谿典[26]は夫槩の末裔といわれる。
紀元前504年夏4月に呉の太子波[27]は父・闔閭に代わって楚の水軍を撃破して、楚の部将の潘子臣・小惟子ら大夫7人を捕虜とした。このため太子波は斉の景公の娘を娶ったが[28]、妻に先立たれ、嗣子がないまま数年後に早世したため、太子の座は空位となった[29]。
紀元前496年に越王の允常の喪中を衝いて、越に攻め込んだ闔閭は父の後を継いだ太子句践[30]と謀臣の范蠡によって反撃を受けた。その際に闔閭は越の部将である霊姑孚が放った矢によって、右足の親指を射抜かれて足指を破壊させて破傷風を起こして重態となった(『槜李の戦い』)。前述の長男の太子終纍こと太子波は父よりも先立って早世し、残りは次男の公子糾[31]と末子の公子山だけであった。闔閭は次男・公子糾の薄情で狭量な性格を憂慮して、末子の公子山を自分の後継者として望んだ。しかし、参謀の伍子胥は次男の公子糾を後継者に定めて、その補佐で補うと進言したので、ついに公子糾を太子として逝去した。
公子糾は「夫差」と改称して、呉王となった。しかし夫差は自分を推挙した伍子胥を名誉職にして、これを遠ざけて、側近の伯嚭を宰相[32]に任命した。また、このときに孫武も官職を辞して呉から立ち去り、斉に帰国した。数年後に夫差は越に攻め込んで越王の句践を降して、ついに父祖の恥辱をそそいだのである。句践は奴隷となり夫差に臣従したが、重臣の文種の賄賂による奔走で数年後に許されて、越に帰国した。
以降から夫差は「覇者」として中原に進出し、斉と晋と対峙して呉の存在を誇示した。しかし、越の存在を危惧する老臣の伍子胥と衝突が絶えなかった。紀元前484年、宰相の伯嚭は政敵の伍子胥を葬るために「伍子胥は斉と密通して、子の伍豊を斉の宰相の鮑牧に託して呉を滅ぼさんと目論んでおります」とこれを讒言した。はたして激怒した夫差は伍子胥に自決用の剣である『属鏤の剣』を差し出して死を賜った。自決する前に伍子胥は「わしが死んだら、その墓の上に檟を植えよ!棺の材料になるからだ。無道な呉はきっと滅ぶ!3年もすれば弱体化するだろう。これは天命だ」と叫んだという。
紀元前485年、夫差は軍を率いて、会盟を開いて呉が諸侯の盟主[33]であると認めさせようとした。だが、晋の定公午がこれに猛反対し、紀元前482年、晋と呉での主導権争いが起こった。そのとき、呉の都である姑蘇が越に攻められ、留守を委ねた嫡子の太子友・公子地と孫の公孫弥庸[34]と将軍の寿於姚らが越の捕虜となり、ともにまとめて処刑された報告を受け、自身の傍らにいた唯一生き残った公子忌を太子として、おなじく生き残った末子の公子鴻に兄を補佐させた。
この報に夫差は驚き狼狽し、このことが諸侯に洩れれば恥を曝すことになり主導権が把握できなくなると判断し、口止めをした。だが、ある者がこのことを漏らしたために、激怒した夫差はその容疑者を調査し、7人の容疑者が摘発されこれを処刑した。晋との盟主の座を争ったが、晋の大夫の趙鞅が武力に物をいわせて恫喝したので、止むなく夫差は諦めた。その帰途で宰相の伯嚭の進言で意図的にゆっくりと帰国し、その途中で宋を攻撃したりした。越も呉を一気に攻め滅ぼす兵力はなく、いったん和睦した。
以降も、越は范蠡・文種・逢同らの政略で呉を攻撃し続けて、徐々に呉は弱体化した。紀元前475年に末弟の公子慶忌[35]こと公子山が兄の夫差を諌めたが聞き容れられずに、領地の艾に戻った。その後、楚に亡命した。数ヵ月後の冬に呉に帰国した公子慶忌は越と同盟を結ぶべきであると進言した。しかし、夫差は弟が越と密通していると疑い、大夫たちとはかって慶忌を処刑した。
紀元前473年に、ついに越は呉の都である姑蘇を陥落した。夫差は太子地・公子鴻とともに付近の姑蘇山に逃れて、越に抵抗した。翌紀元前472年、疲労がたまり憔悴した夫差は族兄弟の大夫・公孫雄[36]を越の陣営に派遣して、和睦を乞うた。句践は夫差を哀れに思い、これを許したが、参謀の范蠡・文種・逢同らが猛反対したため、決裂した。しかし、それでも句践は夫差を許そうとした。そこで夫差を舟山諸島の甬東に流罪すれば、再起は不可能と判断して、范蠡・文種・逢同らに問うた。彼らはこのことに異議はなかった。
句践は使者を派遣して、夫差にその旨を伝えた。しかし夫差は「わたしは年老いたために、君主に奉仕することはできない」といって、首を縊って亡くなった。句践はこれを憐れんで、丁重に葬った。こうして呉は滅亡したのである。紀元前472年冬11月のことだった[37]。
太子忌・公子鴻兄弟は父が縊死した後に舟山諸島の甬東に住居した。宰相の伯嚭は越に賄賂を贈ったので処刑に処されずに助命され、太宰として越に再出仕したのである[38]。
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