池山隆寛

ページ名:池山隆寛

登録日:2010/01/11 Mon 21:27:35
更新日:2023/10/30 Mon 12:36:11NEW!
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ビデオの中の自分が、本当に懐かしく、また別人のように見えたとき、自然に涙が出てきました。


その時にもうダメかなって






池山隆寛(いけやまたかひろ)とは兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手。現役時代はヤクルトスワローズに所属(1984〜2002年)。
指導者としての経歴は東北楽天ゴールデンイーグルスで一軍打撃コーチ(2006年〜2009年、2016年~2017年)、二軍監督(2018年~)、ヤクルトで二軍打撃コーチ(2011年〜2012年、2014年)、一軍打撃コーチ(2013年)、二軍野手総合コーチ(2015年)などを経験している。


愛称はその豪快な打撃から『ブンブン丸』。
同じく豪快な打撃を持ち味にしていた広澤克実(寅さんに顔が似ていた)と共に『イケトラコンビ』
池山と広澤に加え、これまた2人と同じ様に豪快な打撃が持ち味のラリー・パリッシュを加えて『100三振トリオ』『HIP砲』
バックスクリーンへのホームランが多かった事から『ミスターバックスクリーン』
また若松勉より引き継いだ背番号1から『ミスタースワローズ』などと呼ばれていた。
ポジションは主に遊撃、後に三塁を守ることとなる。



◇経歴
兵庫県の市立尼崎高校出身、三年時には甲子園出場を果たす。
その年のドラフト会議にて巨人、近鉄、ヤクルトが2位で競合、結果ヤクルトが交渉権を得る。


ちなみに当時の池山は巨人ファンで、近鉄はともかくヤクルトについて興味が無かったという。だが父の勧めで入団を決意。
当時の池山を江夏豊は「中米の選手並みのバネを持つ選手」と評した。
入団当初こそ俊足巧打を評価されていたが、二年目のキャンプ当時の監督であった関根潤三が「いいと言うまで素振りをしろ」と指示を出した監督本人がそれを忘れてコーヒーを飲みに行っている間もそれを律儀に守り、ブンブン丸と呼ばれる礎を作り上げていく。


レギュラーに定着すると三振か本塁打か、というバッティングで人気を博し、1988年から5年連続30本塁打を記録。
当時の巨人のエース・桑田真澄からは「(自分の投球術が通用しないから)もう少し考えて打って欲しい」と苦笑混じりながらに高い評価を得ていた。


1990年になり、野村克也が監督になると本塁打を減らしてしまう。
原因としては監督から受けた指示が「三振を減らせ」だったからである。
が、その分打率は3割に乗り、当時としては初の遊撃手として初の3割30本を記録(同じ記録を持つのは野村謙二郎と松井稼頭央のみ)。
更に遊撃手としては最多打点の97打点(2010年に鳥谷敬に更新される)、更に8月23日にはサイクルヒットを達成。


翌年は3位でAクラス入り、1992年と93年にはリーグ優勝を果たし、池山はその原動力として活躍。
その1993年の5月19日に1イニング2本塁打を達成するが、その試合は大いにもつれ、試合終了後お立ち台に立った池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と発言した。
なお、その頃には既に20日になっており、本当に昨日の事になっていた。


しかし、長らく主軸打者として働き、負担の多い遊撃手を務めた為に、その反動がアキレス腱に来ていた。
1997年には台頭した宮本慎也に遊撃の座を譲り三塁へ、
1999年後半からは同じく台頭してきた岩村明憲に三塁を譲り、専ら代打で起用されることになる。


翌年にはミスタースワローズの証である背番号1も岩村に譲り、入団当初の36番に戻した。
スターから一気に控えへと転落するが、ふてくされることは無く、ベンチの一番前で赤いメガホンを持ちチームを鼓舞、精神的支柱と呼ぶに相応しい存在となる。


2001年のリーグ優勝、日本一にも代打の切り札として貢献。
だが、翌年にはアキレス腱の痛みが悪化した事に加え、「調子のいい時の自分の打席のビデオを手本に頑張ってきたが、その姿がかつての自分ではなく、全く違う誰かに見えるようになった」と引退を決意した。




◇引退試合
2002年の10月17日の対広島戦に3番遊撃というかつての定位置でスタメン入りする。
そのスタメンには若松監督の粋な計らいで同じく黄金期より長くヤクルトを支えたが、控えに甘んじていた飯田哲也と土橋勝征が1番中堅と8番二塁で名を連ねていた。


もちろんスタンドは最終戦とは思えぬほど、ヤクルトファンで満員になっていた。


もはや右足の状態は全力疾走すら出来ない状態で、ベンチに帰る度に何度もトレーナーに診てもらっていたが、当日ベンチ入りしていなかった宮本がクラブハウスで幾度となく励ましていたという。


そんな脚の状態を感じさせないよう為か、4回に遊撃で、8回には一塁でファインプレイを見せ、さらにその裏、自身最後の安打となる二塁打を放つ。


1対1で向かえた十回表、広島が勝ち越すと、
「もう一度池山に打席を回そう」とヤクルトナインは発奮。
1アウトから飯田がセーフティーバントを決め出塁すると、稲葉も同様にセーフティーバントを試み(結果は犠打)、
2死2塁、ホームランが出れば逆転サヨナラの場面で池山に打席が回る。
相手投手の長谷川昌幸も150km超のストレートで3球勝負、バットが3回空を切り、ゲームセット。


池山は感謝を込め、長谷川らと握手。


引退セレモニーでは「今日まで19年、多くの応援を頂いた。こんなに幸せな男はいません。これから第二の人生の打席に入りますが、必ず皆様の前に戻ってきます」と語り、
ヤクルトの応援団長であった故人となっていた岡田のオヤジこと岡田正泰氏にも感謝の意を語った。



◇プレイスタイル
前述の通り、三振か本塁打か、という持ち味通りの本塁打は多いが三振も多いという単純かつこれ以上魅力的なものもそうないバッティングを持ち味としていた。


あまり知られてはいないが、満塁ホームランを結構打っており、現時点で歴代トップ10にランクインしている。


また、バッティングの陰に隠れがちだが、守備力も相当なものであり、俊足を生かした広い守備範囲、堅実な捕球に鉄砲肩と理想的な遊撃手だった。
だが、ゴールデングラブは一度しか受賞していない。これは巨人のレギュラーに川相昌弘がいたためで、その代わり川相はベストナインに一度しか輝いておらず、両者共に当時のセ・を代表する選手だった結果であろう。(川相のゴールデングラブは六回、池山のベストナインは五回)


走攻守を豪打、俊足、好守、強肩をハイレベルで兼ね備えた遊撃手であった。



◇人物
また、人間としても大変出来た人物で、自身も自らの著書で『皆を引っ張るキャプテンタイプ』と自らを分析している。(因みに古田は『リーダータイプ』らしい)
そのため後輩から慕われており、先輩とも仲が良かったようである。


岩村にレギュラーを譲る際には若松監督と互いに涙を流しながら話し合った。(若松監督からは「お前が後ろに控えているから、オレも安心して岩村を使えるんだ」と信頼に溢れた言葉を寄せられている)
控えになって以降、当時はエラーが多かった岩村に対し、「クヨクヨするな、失敗しても前を向いて守れ!」と励まし、ベンチに帰って来た選手を真っ先に出迎えるなど、ミスタースワローズの名に相応しい「男気」を見せた。


2001年、スワローズが日本一に輝いた際には若松監督をして「陰の殊勲者は池山だ」「池山がいたからこそ優勝できた」と言わしめるほどであった。



追記、修正宜しくお願いします。


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