蟻通勘吾

ページ名:蟻通勘吾

登録日:2011/05/21 (土) 18:50:18
更新日:2023/10/05 Thu 12:32:39NEW!
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人物 幕末 新選組 新撰組 隊士 香川県 蟻通勘吾 平隊士 古参メンバー




蟻通勘吾(1839年~1869年)は、讃岐国高松(現在の香川県高松市)出身の新選組隊士。



入隊以前の経歴は不明。
1863年6月頃、壬生浪士組(新選組の前身)に入隊。八月十八日の政変に出動。
1864年6月5日の池田屋事件の際には井上源三郎隊に属し出動。屋内での戦闘に参加し、愛刀の播磨住昭重の帽子が折れる激闘を見せた。
1866年9月12日の三条制札事件、1867年12月7日の天満屋事件にも出動。
行軍録では一番隊に配属。沖田総司の次に名が記されている。
新選組が幕臣となった際には、平士として見廻組並御雇の格を受ける。



戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参加。
その後寛永寺で謹慎中の徳川慶喜の警護をつとめる。
新選組が甲陽鎮撫隊と名を変え甲府へ進軍すると、蟻通も従った。甲州勝沼の戦いに敗れた後は会津に転戦。
1868年5月1日、白河口黒川の戦いで、会津藩兵とともに3名で一番槍を入れる活躍をするが、被弾。
敵兵が死骸と思い捨て置くほどの重傷を受けながら、にして味方の陣地に辿り着いた。



新選組が蝦夷へ渡航する際には蟻通も従ったが、箱館病院に入院し戦いに参加することは出来なかった。
1869年2月には、ついに重体。
新選組の隊士たちは「自分たちで看病したい」と病院に申し入れ、蟻通を退院させて旅宿に移した。



そして、蟻通は奇跡の回復を遂げる。



1869年5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が行われた。
蟻通は、戦場に身を置いていた。
蟻通の戦いぶりは伝わっていない。
確かなことは、数少ない新選組の生き残りとして、新選組最期の戦いに立ち会ったということのみである。
蟻通は散った。
最期の地は箱館山とも、弁天台場とも伝わる。



壬生浪士組時代から在籍し、箱館まで転戦した新選組隊士は、土方歳三、島田魁、尾関雅次郎、そして蟻通勘吾のみである。
また、古参隊士でありながら平隊士の地位に留まり続けた稀有な人物である。



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