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細野晴臣は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に細野の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をカバーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。その後、シンガーのマナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーする。
そんな中、1978年2月19日、細野のソロアルバム『はらいそ』収録の「ファム・ファタール」録音時に坂本龍一、高橋幸宏と初めて3人で顔を合わせることとなった。坂本と細野は1975年、大滝詠一の「福生ストラット Part I」の録音時に顔合わせしており、1976年に細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用する関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティバル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった[1]。細野は2人を自宅に招き、「焼きおにぎりを食べながら(おかかおにぎりやみかんという説もあり)」グループのコンセプトを彼らに伝えると二人は賛同、ここにYMOが結成される。細野は二人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」というメモを見せている。
上記のメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOの4人目のメンバーに加える構想があった。しかし実際、細野は横尾に対し記者会見にくるよう伝えていたが、横尾はその日なぜか「行きたくなかった」とキャンセル。最初期YMOのトレードマークであるタキシードも4着用意されていたが、後にサポートとして4人目のメンバーの称号を得たのは結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹であった。YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏は、彼が一手に引き受けることとなる。
1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売する。アルファレコードは同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まったことで、全米でデビューが決定する(後に発売された同ライブ収録CDのライナーノーツで、「トミーがライブを目にして全米発売を決定」というエピソードは実は後付けであったことが明かされている。実際は既に決定されていたとの事)。
1979年5月30日、デビュー・アルバムをリミックスしたアルバム『Yellow Magic Orchestra』(米国盤)をA&Mレコード傘下のホライゾン・レーベルから発売。この米国盤は7月25日に日本でも発売され、最高位はオリコン・チャート20位。
1979年8月2日~8月4日にはロサンゼルスのグリークシアターでチューブスの前座を行い、8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴを行う。この頃から徐々にその存在は注目されていく。
9月に発売された2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』はオリコン・チャートの最高9位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を老若男女に広く浸透させることとなった(アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。
10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタートする。テレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。その後YMOが帰国する頃には日本ではYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。
この第1回ワールド・ツアーの模様は3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー』で発表されるが、サポート・ギタリストの渡辺香津美のギター・チャンネルは、渡辺が所属していた日本コロムビアの意向でカットされることとなり、代わりに坂本のシンセサイザーが録音された(後にこれは『フェイカー・ホリック』などいくつかのライヴ盤で復活する)。しかし、ギターがカットされたことで、フュージョン臭さが抜けたため、よりテクノっぽくなったという皮肉な結果となった。
1980年にはYMOの人気は圧倒的なものとなり、3月からは初の国内ツアー「TECHNOPOLIS 2000-20」が行われる。6月に発表された4枚目のアルバム『増殖』は、10万枚の限定盤予定だったが20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。1980年10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」がイギリス、オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは7か国15会場で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのチャップリン・メモリアル・スタジオ公演は日本への衛星中継が行われた。ツアーは12月の日本武道館での4連続公演で締めくくられた。
1981年3月、アルバム『BGM』が発売され、それまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向のエレクトリックミュージックを展開し、YMOのイメージを大きく転換させた。アルバムタイトルは『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』までのYMOについて揶揄の意味で「BGMのようだ」と評された事を逆手にとって付けたと言われている。『BGM』収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であり、同じく「U.T」は後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。またこの時期のメンバーはソロ活動や他アーティストとの活動を盛んに行うようになる。続く11月にはアルバム『テクノデリック』が発表され、世界初と言われるサンプリングの技術が大々的に導入された。
これらのアルバムの発表に続いて、国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日の宮城県民会館公演から始まる。このツアーでは楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとして初めてテープが使用された。数々の実験的な試みとともに重く暗いサウンドを展開したこの時期は、YMOが「影」の側面を見せた時代であった。
また、この頃からイエロー・マジック・オーケストラは「YMO」(ワイ・エム・オー)という略称で呼ばれるようになった。
雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[2]と坂本が語ったように、坂本と細野の間で路線対立じみた緊張感が発生するなどしていたメンバー間では、1981年末でYMOとしての活動にピリオドを打つという考えがあったようであるが、ビジネス面での要求から解散は先延ばしされた。
翌1982年、メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野晴臣は「はっぴいえんど」での盟友松本隆と共に松田聖子への曲提供を行い、坂本は郷ひろみ]]や前川清などのプロデュースを行い、また、忌野清志郎と共に「い・け・な・いルージュマジック」をリリース。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。細野は高橋と共に「¥EN」レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。YMOとしては「オレたちひょうきん族」に出演し、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」名で出演して漫才を披露するなど、グループとしての音楽活動はほとんど無い状態であった。
1983年になると、自らに歌謡曲というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開する。オジサンアイドルを気取って日本語の歌謡曲を歌う三人の姿は非常にシュールであり、また末期を思わせた。シングル「君に、胸キュン。」でオリコン・チャート1位を狙うと宣言するも、皮肉にも細野の作曲/編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、2位に終わる。
1983年5月に発表されたアルバム『浮気なぼくら』は、またしてもそのイメージを大きく変化させた歌謡曲アルバムであるが、アルバム自体は優れた楽曲が納められた緻密なサウンドの作品であった。先行シングルの「君に、胸キュン。」はカネボウ化粧品のテレビCMに起用され、また「以心電信」は世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。
ラストアルバムである『サーヴィス』を含む後期の作品は、細野の言葉で言うと「オマケ」であり、彼は『浮気なぼくら』が実質的なラストアルバムであるとする。『サーヴィス』は当時高橋幸宏が担当する「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアターがレギュラーとして出演していたことから、彼らとのコラボレーション・アルバムとして製作された。
1983年11月23日、最後のツアーである「1983 YMOジャパンツアー」が札幌公演から始まる。『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売され、ツアーは12月22日の日本武道館公演で終了、YMOは『散開』(解散)した。「散開」ツアーでは、歌うことに専念したいと考えた高橋は、基本的に簡単なパーカッションと単音のシンセ音を担当するのみでヴォーカルに徹し、ドラムは「テクノポリス~ライディーン」で叩いたのみ。そのためドラムスにはデヴィッド・パーマーがサポートメンバーとして参加した。この散開コンサートを素材とした映画『プロパガンダ』が製作され、翌1984年に公開された。
彼らの活動期間はわずか5年間であったが、その音楽性やテクノロジーが国内・国外の音楽界に及ぼした影響は絶大であった。
散開後も幾度となく再結成がささやかれたが、細野がすべて断っていた。しかし、1993年に「再結成」ではなく「再生」という形で実現した。このとき、「YMO」という名称が商標登録され使用できなかったため、実際には「YMO」に×マークをつけた「ノットYMO」という名称だった。記者会見は、口上を当時のお笑い番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」のキャラクターであるオジンガーZが行い、巨大なベッドに三人が寝ころんで行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった(それと同時に当時放映されていた「進め!電波少年」の松村邦洋が会場に芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた)。再生YMOはアルバム『テクノドン』を発表するが、以前の作品群とは大きく様相が異なり、アンビエント色の強い作品であった。先行シングル「ポケットが虹でいっぱい」はエルヴィス・プレスリーのカバー曲であった。6月10、11日に東京ドームで2日間限りの再生公演が行われる。
当初の計画ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作するなどの予定があったが、結局「YMO」としてそれらの活動が行われることはなかった。しかし、細野・高橋・坂本の三人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。
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