休石砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ
休石砲台跡休石砲台は明治時代に陸軍が広島湾要塞の1つとして音戸の瀬戸に作った砲台音戸の瀬戸に作られた砲台としては観光地として有名な高鳥砲台がありますが、休石砲台も高鳥砲台と同じく外国艦隊から音戸の瀬戸を防衛するため明治34年に建設されました。その後も同じく大正15年に廃止されまし
休石砲台跡休石砲台は明治時代に陸軍が広島湾要塞の1つとして音戸の瀬戸に作った砲台音戸の瀬戸に作られた砲台としては観光地として有名な高鳥砲台がありますが、休石砲台も高鳥砲台と同じく外国艦隊から音戸の瀬戸を防衛するため明治34年に建設されました。その後も同じく大正15年に廃止されまし
音戸の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『音戸の瀬戸』は警固屋(本州)と倉橋島の間にある小さな海峡のことです。元々は干潮時に陸続きになるような砂州地形でしたが、海運の便を良くするため平安時代に平清盛が掘削して海にしたといわれています。音戸の瀬戸は船舶が航行可能幅が70mしかない非常
バスに乗ること ・最短距離で行きたいなら清盛塚バス停で下車するといい ・同じ海軍さんの料亭として呉市街地に五月荘がある ・近くに音戸の瀬戸と音戸大橋と音戸渡船がある 住所 広島県呉市音戸町坪井1丁目1-29 駐
音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ
だそうです。戦後一時旅館として営業していましたが空き家となり平成28年にゲストハウスに改装されました。因島へ渡る渡船尾道水道を渡る渡し舟呉の音戸の瀬戸と同じように狭い海峡ゆえ渡船があります。東西に長い尾道水道という場所柄、最盛期は9つの航路がありましたが現在では3航路となっていま
高烏台公園(高烏台砲台跡)平清盛が厳島神社を建てるため太陽を呼んだことで有名な景勝地音戸の瀬戸の本州側にある高烏台公園ここには明治時代から太平洋戦争終戦までの砲台跡があります。高烏台公園には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた
ック)があり兵士たち間では海軍らしく英語の愛称で呼ばれていました。ちなみに五月荘は(メイ)でした。残念ながら、現在残っているのはこの五月荘と音戸の瀬戸にある戸田本店だけです。 備考 ・大通りから少し入ったところにあるため場所が少しわかりにくい ・時期によっ
お、呉に鎮守府が置かれた理由は「呉湾の水深が適切で船舶の往来が容易である」「周りを島や高山に囲まれて波風が穏やかである」「3か所の出入り口(音戸の瀬戸・早瀬の瀬戸・大屋の瀬戸)が非常に狭く敵艦隊の侵入を防ぎやすい」の3点でした。写真は大和ミュージアムに展示されている海軍区の地図で
示されている ・姉妹艦の戦艦日向の終焉の地である情島はここから見ることはできない ・近くに渡子の防空壕跡と音戸漁港のコンクリート船と音戸の瀬戸がある 住所 広島県呉市音戸町坪井2丁目7-11 駐車場 なし
女猫の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『女猫の瀬戸』は川尻町(本州)と下蒲刈島の間にある小さな海峡のことです。同じ瀬戸でも音戸の瀬戸と違ってここは海峡の幅が1.1kmあり東西の幅も実に7kmあります。海峡の本州寄りに小島があり、猫がうずくまっているように見えることから航海者の間で
呉海軍工廠長郷地下工場跡長郷は音戸の瀬戸と安芸阿賀の間にある瀬戸内海沿いの小さな集落空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に呉海軍工廠の兵器生産を継続するため朝鮮人労働者を使って作られた地下工場です。呉海軍工廠と名前がついていますが呉海軍工廠とはかなり離れたところにあります。太平洋
警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)巡洋艦青葉は佐世保鎮守府所属の青葉型重巡洋艦の1番艦として昭和2年に就役しました。昭和9年から呉鎮守府所属となった巡洋艦青葉は日中戦争から活躍し、太平洋戦争開戦後も緒戦から活躍した歴戦の勇者でした。太平洋戦争末期の南方での激戦にも生き残りましたが大破し
A. 音戸の瀬戸は、広島県の呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%80%AC%E6%88%B8
二河峡取水口(呉鎮守府水道) 灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡) 本庄水源地(本庄ダム) 鉄管道路 長ノ木隧道 東辰川の防空壕跡倉橋島倉橋島 音戸の瀬戸と音戸大橋 坪井(戦艦伊勢終焉の地) 情島(戦艦日向終焉の地) 三ツ子島(空母葛城・空母天城終焉の地) 重極湾(巡洋艦北上終焉の地
倉橋島の沖は広島(倉橋島)・山口(周防大島)・愛媛(中島)の3県3島が目と鼻の先で接しており漁業権でよく火花を散らす。呉と倉橋島の狭い海峡は音戸の瀬戸と呼ばれる景勝地で平清盛がここに中継地を築いた。なお呉から倉橋島で渡る船は日本で一番短い航路である。音戸大橋がある為、地元民くらい
小用港「江田島の玄関」と呼ばれる江田島中部にある港広島市から海上約7.5km、呉市からは海上約6kmと広島市と呉市の中間に位置する港です。江田島は倉橋島にある音戸大橋と早瀬大橋を経由すれば本州と陸続きになりますが、広島市や呉市街地から見るとかなり遠回りになるため旅客船を利用する人
らの近道があるので展望台だけ行きたい場合は無理に登山道を歩かなくてもいい ・石垣等の遺構を見たい場合は登山道を歩く必要がある ・南(音戸の瀬戸)から行くと高烏台公園(高烏台砲台跡)を経由して行くルートになる ・最寄りのバス停から高烏台公園(高烏台砲台跡)まで徒歩30分
鹿島鹿島は倉橋島の南東にある広島県最南端の有人島呉駅から自動車で約2時間で行くことができる鹿島は全周9.2km、人口約300人という小さな島です。山口県の柱島と同じくらいの大きさですが、柱島と違って「本州とつながっている」という大きな利点があるため、島にしてはそれほど過疎化が進ん
ジャパンマリンユナイテッド呉事業所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場)呉湾を囲む造船工業地帯の西北部旧呉海軍工廠地帯から呉湾を挟んで反対側の新宮町にかつて第11海軍航空廠兵器部新宮工場がありました。第11海軍航空廠は広にある広海軍工廠の一部で太平洋戦争開戦の昭和16年に
広島要塞砲兵連隊跡広島要塞砲兵連隊は比治山と京橋川の間にあった陸軍の要塞司令部要塞砲兵とは都市や砲台で要塞砲や高射砲を用いて防衛にあたる兵科のことです。明治30年代、広島湾に外国艦隊が侵攻してきた際に、広島市と呉市を防衛するために陸軍の要塞砲台が各所に築かれました。その要塞群を管
渡子峠倉橋島北部の音戸と渡子の間にある渡子峠(標高108m)ここには太平洋戦争末期の空襲に備えて呉鎮守府所属の音戸防空砲台が作られました。音戸防空砲台は太平洋戦争末期の昭和20年1月に竣工し『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門配備されました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲
鍋桟橋跡鍋桟橋はかつて警固屋町にあった桟橋この辺りは中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました