群書類従(和歌部) - いにしえwiki
きょうせんしゅ 貞応2 藤原為家 161 詠千首和歌 えいせんしゅわか 藤原師兼 162 詠千首和歌 えいせんしゅわか 宗良親王 163 詠千首和歌 えいせんしゅわか 藤原為尹 164 千首和歌太神宮法楽 せんしゅわかだいじんぐうほうらく 天文
きょうせんしゅ 貞応2 藤原為家 161 詠千首和歌 えいせんしゅわか 藤原師兼 162 詠千首和歌 えいせんしゅわか 宗良親王 163 詠千首和歌 えいせんしゅわか 藤原為尹 164 千首和歌太神宮法楽 せんしゅわかだいじんぐうほうらく 天文
人にうまれば 人ならで 人にてもなき 人ぞかなしき (今川伊豫守貞世)076.君が為 世のため何か をしからん 捨てかひある 命なりせば (宗良親王)077.おもひきや 幾瀬の淀を しのぎ来て この浪合に 沈むべきとは (源政義)078.面影は 写すもやさし とにかくに 命は筆に
為家卿千首(藤原為家)群書類従160為相卿千首(藤原為相)続群書類従376師兼千首(藤原師兼)群書類従161宗良親王千首(宗良親王)群書類従162耕雲千首(藤原長親)群書類従378為伊千首(冷泉為伊)群書類従163為伊卿千首和歌題抄()雅縁卿千首(飛鳥井雅縁)続群書類従377栄雅
春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水 (式子内親王)015.君のため 世のため何か 惜しからむ すててかひある 命なりせば (宗良親王)016.ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ (柿本人麻呂)017.白金も 黄金も玉も 何せむに
理屈であるが、前振りもなくいきなり南朝なんて単語が飛び出しポカーンとした視聴者も多いだろう。しかし実は往時の井伊は後醍醐天皇の第四皇子である宗良親王が逗留しており、伝承ではこの地で子供(尹良親王)まで作ったと言われるほどのガッチガチの南朝方だったりする。また、龍潭寺の隣には宗良親
かとり來つる あつさ弓 もとの都に かへさゝらめや (藤原隆俊)038.君のため 世のためなにか をしからん すてゝかひある 命なりせは (宗良親王)039.西の海 寄せ來る波も 心せよ 神の守れる やまと島根そ (中臣祐春)040.あつめては 國のひかりと なりや
れたる世を 手にかけて 苦しきものは わが身なりけり (北畠親房)071.思ひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我が身 なれむものとは (宗良親王)072.峰の松 さわぐと見れば 夕あらし 麓の竹の こゑになりゆく (僧正徹)073.我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を
いろにも音にも さきだちて 時しるものは 霞なりけり (尊良親王)081.おもひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我身 なれん物とは (宗良親王)082.いかになほ 泪をそへて わけわびん 親にさきだつ みち芝の露 (興良親王)083.日にそへて 遁れんとのみ 思ふ身に いと
を秋風の ふくからに 露もともらぬ 吾か心かな (護良親王)008.君かため 世のため何か 惜しからむ 捨てゝかひある 命なりせば (中務卿宗良親王)009.ありて身の 甲斐やなからん 國の爲 民の爲そと 思ひなさすは (中務卿宗尊親王)010.みやこおもふ 夢路やいまの ねさめ
家もついに断絶した。その一方、末子の義宗は義貞の嫡子だったため、1352年の閏2月に武蔵国~相模国で、後醍醐天皇の第3皇子である征夷大将軍の宗良親王を奉じ、前述の北条時行と連携して、足利基氏と畠山国清と戦うも敗れた。その結果、時行は捕虜にされて斬首された(『武蔵野の戦い』)。義宗
城の 井出のわたりに 時雨して 水無川に 波や立つらむ (以仁親王)016.君が為 世のため何か をしからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば (宗良親王)017.和歌の浦に いく年波や 重ぬらむ 立ちゐなれたる 鶴の羽衣 (熾仁親王)018.万代を 呼ばふ藐姑射の 山松に 常なき風を
なからん 国の為 民の為にと 思ひなさずば (中務卿宗尊親王)079.君のため 世のため何か 惜からん すてゝかひある 命なりせば (中務卿宗良親王)080.君が為 わがとりきつる あづさ弓 もとの都に かへさざらめや (前内大臣隆俊)081.おきゐつゝ 君をいのれば 神垣に 心
皇 撰)新千載和歌集(二条為定 撰)新拾遺和歌集(藤原為明 撰修)新後拾遺和歌集(二条為遠 撰)新続古今和歌集(飛鳥井雅世 撰)新葉和歌集(宗良親王 編纂)タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
ゝふの 道より重き みちあらめやは*20 (源致雄)021.きみのため 世のため何か をしからむ 捨てゝかひある 命なりせば*21 (中務卿宗良親王)022.神代より たえせぬ天つ 日つぎとて げにくもり無き 君はわがきみ*22 (源成直)=足利成直023.かゝるとき さこそ命の
79宗尊親王御百首(宗尊親王)続群書類従388道助法親王五十首(道助法親王)群書類従177慈道法親王集征東大将軍宮編年和歌(菅政友)李花集(宗良親王)群書類従231尊道法親王百首沙玉集(後崇光院)群書類従229後崇光院百首(後崇光院)続群書類従388貞常親王御百首邦高親王御百首貞
夢窓疎石(むそう そせき)宗岳大頼(むねおか の おおより)宗尊親王(むねたかしんのう)宗良親王(むねよししんのう)村上天皇(むらかみてんのう)紫式部(むらさきしきぶ)村田春海(むらた はるみ)タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
ていた杖で地面を突いたところそこから塩水が湧出したとの伝説があり、相当古い時代からこの塩水が利用されてきたことがわかる。南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り、南朝方の拠点とできたのも、塩があったからだといわれている。1875年、旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩
良親王が木寺家と称して、後二条源氏の嫡流となる。花園源氏 : 花園天皇の皇子の直仁親王が萩原家と称したが、1代限りであった。後醍醐源氏 : 宗良親王(むねながしんのう)の後裔は武家貴族として、尾張国の尾張大橋氏の祖となり、戦国時代の重長の代に織田信秀の娘で信長の姉を正室に迎え、お
塩化物 - 炭酸水素塩泉(冷鉱泉)源泉温度13.9℃PH 8.55温泉街[]現在、旅館が2軒ある。歴史[]小渋の湯の歴史は古く、南北朝時代に宗良親王の家臣渋谷三郎が、鹿が湯に浸り傷を癒しているのを見て、自分の傷をこの湯に浸して治したことに始まると伝えられる。以来、湯治場として知ら
、一族の大井田氏を中心とする越後源氏に護衛されながら郷里に潜伏したが、『観応の擾乱』が起こると北条時行[3]らとともに挙兵した。1352年に宗良親王を奉じて、異母弟の義宗と従弟の脇屋義治とともに鎌倉に進撃するが、遠縁の族父にあたる足利尊氏(高氏)によって撃退された(『武蔵野の戦い
の訃報に悲嘆した満義は帰郷した。1384年に満義の子の政義は子の政季と政満とともに、同族の桃井宗綱(足利氏(下野源氏)流桃井氏一門)とともに宗良親王(むねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)の子の尹良王(ゆきながおう)を上野国寺尾中城に迎えて、足利義満と対決した。翌1385年12月に
いう。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった約2千5百人の総大将をつとめた。重範が北条得宗家に捕らわれて処刑されると、重範の子の重政は、南朝の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を支援するも次第に衰退していたおり、一族の中には室町時代に、北朝方で遠縁筋の足利氏(下野源氏)を中心とした室町幕
]の子、義秋(次郎四郎)・義満の兄、政季(修理亮)・政満(蔵人/万徳丸)・新田義宗室の父。同族の桃井宗綱(足利氏(下野源氏)一門)とともに、宗良親王(むねながしんのう、後醍醐天皇の皇子)の子の尹良王(ゆきながおう)を上野国寺尾中城で迎える。1385年に信濃国下伊那郡浪合村[4]で
A. 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B