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小用港(戦艦榛名終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

ある音戸大橋と早瀬大橋を経由すれば本州と陸続きになりますが、広島市や呉市街地から見るとかなり遠回りになるため旅客船を利用する人が多くいます。呉港とは旅客船で10分の近距離で桟橋からも呉市街地を見ることができます。小用港(戦艦榛名・巡洋艦出雲終焉の地)戦艦榛名は横須賀鎮守府所属の高

呉線の目隠し板の支柱 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉線の目隠し板の支柱呉線の吉浦駅と川原石駅の間にあります。呉線の車内から呉港が一望できる線路沿いに建てられた目隠し板のコンクリート製支柱で、太平洋戦争中まで車窓の高さに目隠し板が立てられ車内から呉湾が見れないようになっていました。「景色が良いのになぜ隠す必要があるのか?」という疑

大麗女島 - 呉市周辺の遺構まとめ

われる ・島が見たいだけなら呉湾が見えるところなら大体の場所から見える(アレイからすこじま公園からも見える) ・一番近くで見えるのは呉港と江田島小用港の間を運行する旅客船の中からがよく見える ・蛟龍の生産工場として他にも大浦崎公園(P基地跡)がある

亀山神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

り、亀山神社は明治23年に現在の場所に移転しました。移転後も呉市の総氏神として、市民は元より海軍の将兵にも愛され歴代呉鎮守府長官着任の際や、呉港を出入りする海軍艦艇の将兵たちもその都度参詣していました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で稲荷神社と手洗舎以外はすべて焼失しましたが、

飛渡瀬(巡洋艦大淀終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

めの水上機の格納庫や大型カタパルトを装備しためずらしい艦艇でもありました。巡洋艦大淀は太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦に生き残り呉港に帰投しました。しかし、他の艦艇同様に燃料不足で航行できない状態のまま3月の第一次呉軍港空襲で攻撃を受け、自力で航行不能なまでに大破しま

大和波止場 - 呉市周辺の遺構まとめ

サイト - 分類 観光地 アクセス ・呉駅から徒歩12分 ・呉中央桟橋ターミナル(呉港)から徒歩すぐ ・広島電鉄バス「大和ミュージアム・ゆめタウン前」バス停から徒歩すぐ GoogleMapで地図を開く

海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)下士官兵集会所は呉港に艦隊が寄港した際に艦隊勤務の下士官が福利厚生を受けるため施設下士官とは兵卒と準士官の間にある軍曹・伍長といった階級のことです。下士官より上の準士官には海友社、その上の士官には水交社と呼ばれる別の福利厚生施設がありま

秋月(空母龍鳳終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

いないのどかな島の海ですが、この景色にもすごい歴史があると感心させられます。 備考 ・秋月港の少し南の海 ・秋月港は呉港から旅客船があるが便数が非常に少ない ・バス停が近くにあるが便数が非常に少ない ・西の飛追山に秋月防空砲台跡があるが秋月の集落か

金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ

ていませんが、公園内に正岡子規の句碑がありそれが砲台の台座ではないかといわれています。また、正岡子規は日清戦争の時に友人の出征を見送るために呉港に来て句を読んだことで有名です。大歳神社金毘羅公園から少し登ったところにある神社大歳神社という名前の神社は全国にありますが、この大歳神社

呉湾 - 呉市周辺の遺構まとめ

こじまにある潜水艦桟橋は甲・乙・丙・丁の4つがあり最大4艦が接岸して物資や武装の搬入が行えるようになっています。また、『水路軍機第231號 呉港附近』という別の海図によると、倉橋島の南3か所に敵の潜水艦の侵入を防ぐため水中聴音機が設置されている様子が書かれています。余談ですが、呉

呉線 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

えた呉市を中心に瀬戸内海の沿岸地域を結んでいる。そのため三原〜広の間は瀬戸内さざなみ線の愛称が付けられている。戦前は山陽本線のバイパス路線兼呉港への連絡路線として、現在の乗り入れ(可部線を除く)+岩徳線(当時は山陽本線)に加えてなんと東京直通の急行列車が運転された事すらあった…当

飛渡瀬第一防空砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

林道秋月線沿いにある山標高205mと連峰になっている飛追山より高い山で、山頂に石仏像があるため仏ノ塔といわれています。ここには太平洋戦争中に呉港防衛のため呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。飛渡瀬第一防空砲台は太平洋戦争末期の昭和19年11月に着工され、秋月型駆逐艦の主砲と同じ

阪神甲子園球場 - 虎ウィキ

区画整理され無くなった。現在は鋳潰されなかった銘板がいくつか残されており、そのうち第2回・慶應義塾普通部のものが野球体育博物館に、第20回・呉港中のものが甲子園歴史館に展示されている。2代[]正式名称は「選抜高校野球塔」。1958年、春のセンバツ30回大会を記念して、毎日新聞社が

海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府) - 呉市周辺の遺構まとめ

ります。呉湾より訪問された明治天皇はここを通って呉鎮守府を訪問される予定でしたが、実際は南にある坂道を通られたため使われませんでした。昔から呉港に入る船がよく見えるスポットとして有名です。また、対岸に見えるのは戦艦榛名終焉の地である江田島小用港です。電話総合交換所昭和20年竣工と

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