「南朝」を含むwiki一覧 - 4ページ

源氏_(日本) - 日本通信百科事典

北白川家からは竹田家が分家した。山階家から分かれた筑波家・鹿島家・葛城家も存在する。後亀山源氏:後亀山天皇の皇子恒敦親王を祖とする小倉家が後南朝の中心勢力として確認できる。正親町源氏 : 正親町天皇の皇子の誠仁親王が桂家および八条家(藤原北家の八条氏とは別系統)と称したことからは

瓜生氏 - 日本通信百科事典

上皇に呼応して北条得宗家と戦って大敗した。鎌倉時代末期に種の孫で、貞の子の衛(衡)[3]の代に、杣山城を築城した。南北朝時代に衛の子の保は、南朝方として後醍醐天皇に呼応して、弟の義鑑房/道鑑房(僧侶)・林/源琳(僧侶)・重・照とともに、遠縁筋の新田義貞に従い、おなじく遠縁筋の足利

白河氏 - 日本通信百科事典

。小峰氏 : 結城白河家、または奥州白河氏とも呼ばれる。古代の白河国造(石城国造)を祖とする。陸奥国白河郡[1]を拠点とした。南北朝時代に、南朝を裏切った立花貞載を斬り捨てた結城親光(小峰親光)と読売ジャイアンツの元選手の中畑清はその末裔である[2]。同族に奥州田村氏[3]があっ

春日顕時 - 日本通信百科事典

源氏流久我家の流れを汲む中院家一門の北畠家(伊勢源氏)の庶家の春日家一門の武将。約2名ほど存在する。春日顕国 : 別称は顕時。北畠顕行の子。南朝方の武将として、一族の北畠親房・顕家父子のもとで転戦した。春日顕時 (冷泉顕統の子) : 冷泉持房[1]の孫、顕統(顕雄)[2]の子、雅

越後源氏 - 日本通信百科事典

野氏)など、同族に越前国の越前瓜生氏などがある。南北朝時代に等の五男の告(源太郎)の代に、かつて同族の瓜生保・義鑑房(道鑑房)兄弟とともに、南朝方に従ったために、1360年に北朝方で、遠縁筋の上記の足利氏の外戚である関東管領・越後国守護の上杉憲顕[19]の武将の越後斎藤氏(藤原北

蒲池氏 - 日本通信百科事典

蒲池氏 (瀧口氏) : 肥前国の肥前瀧口氏一門。蒲池久直[2]を祖とする。同族に肥前松浦氏(相神浦氏)があった。南北朝時代の武久[3]の代に南朝方の菊池武敏に従い、北朝方の足利尊氏(高氏)の軍勢と激戦して、壮絶な戦死を遂げた(『多々良浜の戦い』)。武久は嗣子がなく断絶したが、後に

蜂須賀氏 - 日本通信百科事典

蜂須賀氏(はちすかし)とは、日本の氏族。約2系統が存在する。蜂須賀氏 (尾張国) : 楠氏一門の楠正景・正能(次郎兵衛尉正家)父子が南朝方として活躍し、北朝方の足利氏(下野源氏)に敗れたため、下野して尾張国海東郡蜂須賀郷(現在の愛知県あま市蜂須賀大字)を拠点として、正家の孫の正俊

蒲原氏 - 日本通信百科事典

: 藤姓蒲原氏と呼ばれる。藤原南家工藤氏流入江氏一門。入江清実(清定の子)の子・蒲原清貫(清武の弟)を祖とする[2][3]。南北朝時代には南朝方として活躍するが、北朝方の今川範国に滅ぼされた。蒲原今川家 : 源姓蒲原氏と呼ばれる。足利氏(下野源氏)流三河吉良氏(三河源氏)の系統

石川義忠 - 日本通信百科事典

高朝(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門の下野小山氏の当主)を頼って、その娘を娶った。石川氏房 : 別称は義忠、通称は孫三郎。上記の義忠の曾孫で、南朝方として活躍した石川時道(義時/時道)の孫、石川宗忠(朝成/義助)[2]の子、泰信の父、政康(朝成)の祖父で、数正はその末裔という。浄土

簡雍 - 日本通信百科事典

簡緒ともいう。↑中華民国の盧弼著『三国志集解』。↑ 耿緒の代の説がある。↑ 現在の河北省保定市涿州県↑ 名が仁、字は君義。はるか後世に梁(南朝)の傅士哲が存在し、彼は傅士仁の末裔とみられる(『梁書』羊侃伝)。↑趙雲を含む説もある。↑ 劉備の族兄弟にあたる。↑ 劉備の弟という。↑

曹丕 - 日本通信百科事典

繰り返しながら若くして死んだ信忠(信長の次嫡子)と比較される人物であろうと思われる。曹丕の功績[]彼の治世では『九品官人法』を創始し、後世の南朝である六朝貴族制度の基礎となり、中国史でももっとも重要な制度である。また、文人でもあった曹丕の詩[29]の特徴はわかり易い語彙と緻密な描

新田義貞_(左近衛中将) - 日本通信百科事典

助/雄山閣/1925年)は37歳没、『新田義貞』(峰岸純夫/吉川弘文館(人物叢書)/2005年)は39歳没説を採用している。↑ 義貞の死後に南朝より、正二位下・大納言のち正一位下を贈られた。↑ 別称は氏光/朝兼(『尊卑分脈』が引用する『長楽寺文書』「新田朝兼在家畠地買券」5月28

北畠家 - 日本通信百科事典

]を拠点とした。伊勢国を統治したために、公家としてさかえて伊勢源氏とも呼ばれた。北畠家 (雅家流) : 中院雅家を家祖とする。南北朝時代には南朝に仕えた北畠親房・顕家父子はこの系統である。戦国時代の具教の代に織田信長に滅ぼされた。一部は高家旗本として存続した。庶家に春日家・木造氏

土岐秀光 - 日本通信百科事典

暉/富山房/1916年)より。関連項目[]明智光秀三宅秀満(弥平次/秀俊) : 光秀の女婿、南北朝時代の備前国児島郡常山郷の国人で悪党出身で南朝方の児島高徳(小島法師/志純入道)の後裔で、三河国広瀬城主・三宅高貞の孫、徳置(秀朝/長閑斎/出雲守、遠山景行室の弟)の子という。彼の庶

南斉 - 日本通信百科事典

は建康(現在の江蘇省南京市)を脱出して、西方に逃れたところで、子の桓昇とともに益州都護の馮遷によって殺害されて、ここで楚斉は滅んだ。南斉 (南朝) : 前漢の相国の蕭何の20世の後裔と称した蘭陵蕭氏一門の蕭道成(太祖高帝)が、宋漢を滅ぼして、帝位に即いた。しかし、皇族・宗室の間の

和賀氏 - 日本通信百科事典

て奥州の地頭人らは警護を命じられたが、その中に和賀三郎兵衛尉と同五郎右衛尉がみえる[8]。南北朝時代に、暦応3年(1340年)には、和賀氏は南朝・北朝側にそれぞれ一族が分かれて、庶家の中でも有力な鬼柳氏らとともに足利氏(下野源氏)を中心とする北朝方として戦い、南朝方に属した庶家の

南北朝時代_(日本) - 日本通信百科事典

がある。南北朝時代 (古代) : 古墳時代(大和時代)において、聖徳天皇(厩戸皇子/豊聡耳皇子)を擁立した北朝とその叔母の推古天皇を擁立した南朝に分かれた時代である。前者は反蘇我氏の豪族で形成され、後者は蘇我馬子(聖徳天皇の外大叔父、推古天皇の外叔父)を中心に形成された。しかし、

大井田氏経 - 日本通信百科事典

離反してしまい一気に数千騎に減ってしまい、止むを得ず氏経は越後国へと帰っていった。その後、氏経は義貞の子の義宗を擁立し、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。これに対して、室町幕府は信濃国守護の小笠原貞宗(信濃源氏)に軍令を発し、同じころに関東管領上杉憲顕も坂東八ヶ国の麾下に

南北朝時代 - 日本通信百科事典

時代のことを指す。南北朝時代 (中国) : 中国の五胡十六国時代~隋唐時代の間の時代。南北朝時代 (ベトナム) : ベトナムの北朝(莫朝)と南朝(黎朝)が対峙した時代。南北朝時代 (日本) : 日本の古墳時代および鎌倉時代末期~室町時代初期を広義的に指す時代。関連項目[]五胡十六

土岐頼明 - 日本通信百科事典

条河原で処刑されて、晒し首となった。叔父の後を継いだ甥の頼康(頼清の子)を補佐して、北朝方の高階師直に従った。1348年に河内国の四条畷で、南朝方の楠正行と激戦して、戦死を遂げた(『四条畷の戦い』)。明智頼明 : 明智氏の当主の明智頼尚の子、頼典(よりのり、光継/光典(みつのり)

大島義政 - 日本通信百科事典

箱根での『竹ノ下の戦い』に義貞に従っていた。その後は義貞の命で、尊氏に帰順して周防国守護代となり、長門国守護の大内長弘(鷲頭長弘)とともに、南朝方の軍勢と防衛線を繰り返していた。1338年に義貞が、越後国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、義政は義貞の訃報に悲嘆しつつ、そのまま尊氏に

新田義興_(左近衛将監) - 日本通信百科事典

年の義貞には越前国河合庄の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名:島田義峰)という庶子がいたとする。また、義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・於舟に匿われたという(『児島高徳と新田一族』(浅田晃彦/群馬出版セ

新田義興 - 日本通信百科事典

年の義貞には越前国河合郷の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名:島田義峰)という庶子がいたとする。また、義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・於舟に匿われたという(『児島高徳と新田一族』(浅田晃彦/群馬出版セ

後亀山天皇 - 日本通信百科事典

像(大覚寺蔵)後亀山天皇(ごかめやまてんのう、1350年(正平5年) - 1424年5月10日(応永31年4月12日 ))は、第74代天皇(南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)))。姓は原(は

後梁 - 日本通信百科事典

後梁(ごりょう/こうりょう)とは、中国の王朝。約2つほど存在した。前者は「ごりょう」、後者は「こうりょう」と呼ばれる。後梁 (南朝) : 前梁の皇族の岳陽郡王の蕭詧(昭明太子(高宗明帝)の蕭統の子)は東揚州刺史となったが、『侯景の乱』で祖父の高祖武帝(蕭衍)が87歳で頓死すると、

張飛 - 日本通信百科事典

州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。↑ または鴻氏(芙蓉姫?)と呼ばれ、その実家とされる。↑ 名が仁、字は君義。はるか後世に梁(南朝)の傅士哲が存在し、彼は傅士仁の末裔とみられる(『梁書』羊侃伝)。↑東晋の孫盛著『蜀世譜』では孝懐皇后と呼ばれる。関連事項[]劉備関羽芙

岩松頼宥 - 日本通信百科事典

。そして、尊氏の弟の足利直義(高国)が東進した際には、弟の直国とともに直義に従って『坂本の戦い』などで活躍していった。1338年には伊予国の南朝方討伐に向かい、伊予国守護を一時的につとめた。やがて、後任である同族の細川氏(三河源氏)一門の細川頼有と変わると、頼宥は『観応の擾乱』で

張紹 - 日本通信百科事典

配下に暗殺されると、その後を継いだ。漢の外戚のために侍中に昇進して、魏によって漢が滅ぶと、劉禅に随伴して列侯に封じられた。張紹 (梁) : 南朝の梁に仕えて、零陵郡太守となった[5]。張紹 (南唐) : 五代十国時代の南唐の部将。光州鎮守であったが、トルコ系突厥沙陀部の王朝とされ

甘露寺蜜璃 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

珍しく武勇伝とも言うべき経歴がある。1443年(嘉吉3年)10月16日夜、彼が勤めていた当時の皇居である土御門東洞院御所に金蔵主、源尊秀ら後南朝と呼ばれる吉野南朝の残党200人程度が攻め入った。その際彼は主君に当たる御花園天皇を天皇が生活する清涼殿にまで押し寄せた賊相手に太刀を抜

梟雄 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

を生きた人物。この人物は北朝の北魏に生まれた人物で、当時大規模な反乱によって荒廃した極貧の境遇から成り上がり、北魏から分裂した東魏を裏切って南朝の梁に亡命。そしてその梁をも裏切って解放奴隷を率いて反乱を起こし、首都を陥落させて宇宙大将軍を名乗り、その後皇帝を次々と殺して自ら皇帝を

謝晦とはなんですか? - クイズwiki

A. 謝晦とは、中国南朝宋の政治家であり、太元15年(390年)に生まれ、元嘉3年(426年)に亡くなった人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9D%E6%99%A6

梁書とはなんですか? - クイズwiki

A. 梁書は、中国南朝の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E6%9B%B8

蕭子顕とはなんですか? - クイズwiki

A. 蕭子顕は、南朝梁の歴史家・文学者であり、中国の歴史書『旧唐書』の編纂にも携わりました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E5%AD%90%E9%A1%95

万里小路藤房とはなんですか? - クイズwiki

A. 鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近として仕え、建武の新政の立役者となりました。また、南朝方の公家として、北朝方との内戦である南北朝合一に尽力しました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%8

孫康とはなんですか? - クイズwiki

A. 孫康は、東晋から南朝宋にかけての官吏であり、中国の歴史上の人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%BA%B7

木寺宮康仁親王とはなんですか? - クイズwiki

A. 木寺宮康仁親王は、鎌倉時代末から室町時代初期にかけての皇族で、南朝方の公家として活躍しました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E5%BA%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA

南朝 (日本)とはなんですか? - クイズwiki

A. 南朝とは、日本の南北朝時代に京都以南の大和国の吉野、賀名生、摂津国の住吉を本拠地とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷のことです。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%9D%20%28%E6%97%A5%E6