独ソ戦

ページ名:独ソ戦

独ソ戦

戦争

第二次世界大戦

年月日

1941年6月22日~1947年5月28日

結果

連合国の勝利

交戦勢力

勢力1

連合国

勢力2

枢軸国
  • ナチスドイツ
  • ルーマニア王国 (~1946)
  • イタリア王国 (~1945)
  • ハンガリー王国
  • フィンランド共和国
  • スロバキア共和国
  • クロアチア独立国

義勇軍

  • 青師団
  • ロシア解放軍
  • フランス義勇軍

指導者・指揮官

指導者・指揮官1

指導者・指揮官2

独ソ戦または西部戦線は、第二次世界大戦中の1941年から1947年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソ連であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。

目次

経過

不可侵条約と戦争準備

第一次世界大戦後、独ソはラパッロ条約により国交を回復させるも、ソ連側は共産主義国家として孤立、ドイツも1933年にヒトラー政権が成立し、ナチズムと反共主義が蔓延、ソ連もドイツを「ファシスト」と批判していた。第二次世界大戦の兆候が高まると、英国は対独への宥和政策を開始。これにソ連は英独対ソ包囲網を構築しようとしてるのではないかと懸念した。ドイツ側も英仏ソによる二正面作戦を恐れ、1939年8月に独ソ両国は独ソ不可侵条約を締結した。

第二次世界大戦開戦後、ドイツはフランスを降伏させるもバトル・オブ・ブリテンの敗北により戦線が滞りを見せていた。これにヒトラーは「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とソ連侵攻及び東方生存圏の形成を考える。1940年7月にはドイツは対ソ戦における大まかな侵攻作戦が計画されていたとされている。1940年12月、ヒトラーは対ソ攻勢作戦であるバルバロッサ作戦準備を正式に指令。この情報が英国に渡ると、この事態をソ連に通達。しかしこれにソ連側は欺瞞情報とし信じることはなく、ソ連側は独ソ国境の防衛準備をあまり行わなかった。

開戦から停滞

1941年6月22日、バルバロッサ作戦の発動により独ソ国境で一斉にドイツ軍による侵攻が開始された。この奇襲作戦にソ連は大敗し、ドイツ側は年中にはレニングラードを包囲、1カ月後にはスモレンスクを占領するなど怒涛の快進撃を遂げた。南部でも攻勢を行い、キエフ、ハリコフも陥落。モスクワ攻略作戦であるタイフーン作戦に乗り出す。ドイツ軍はクレムリンまで数十キロに迫るが、例年よりも早い冬の到来によりドイツ軍の侵攻は停滞した。戦争の短期決戦を想定し、電撃戦を展開していたドイツ軍において持久戦は考慮されておらず、補給が延びきり、前線の補給不足が深刻化、攻勢を停止せざるを得なくなった。

このころになるとソ連側は焦土作戦によりドイツ軍の現地調達を妨害、ドイツが占領した地域ではパルチザンを組織させ、ドイツ軍の補給をさらに劣悪なものにさせた。一方ドイツ側もヒトラーによる死守命令によって戦線を維持し、反撃するソ連軍を各個撃破、辛うじて戦線崩壊を免れた。このように、1941年ごろから独ソ戦は地獄の戦争と化す。1942年に入るとスターリンは「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」とし、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。

イギリスはドイツ戦での早期終結を図るため、ヴァ―モンド作戦を実行。連合軍30万人近くを動員し、ブルターニュ半島や低地地方、フランス北部へ上陸を行った。しかしドイツはその情報をすでに傍受しており、予めドイツ軍が沿岸を要塞化、待機し、連合軍を圧倒した。結果的にこの作戦で連合軍は大敗し、特にイギリスは大きな損害を被ることとなった。

ソ連の誤算

この1942年初頭から行われた全面攻勢は、少なからずドイツ軍を衰退させ、ドイツ側は後退を余儀なくされた。これによりソ連側はこれまで失いかけていた対独戦の希望をつかみ取り、士気の向上につながる。しかし、スターリンは「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と考え、モスクワの防衛を強化した。しかしこれは大きな間違いであった。モスクワ攻勢を事前に打破するべく第二次ハリコフ攻防戦を開始、モスクワ前線はドイツ軍が後退するも、ドイツ軍が次に行った攻勢はソ連南部を中心に行われ、スターリンの予想は外れた。

このドイツ軍による南部攻勢(ブラウ作戦)はコーカサス地方の油田を目標としたものであり、ドイツ軍の燃料確保とソ連軍の燃料補給の停止が目的とされた。しかしこの作戦は攻勢こそ成功を収めるも、ソ連軍の撤退を許し、ソ連側への大きな損害を出すことはなく、肝心なコーカサス地方の油田に関しても、事前に火を放たれ、燃料補給地は完全に破壊されていた。スターリンは依然として全面攻勢を命令したが、再び独ソ前線は停滞した。

スターリングラード攻防戦

ドイツ軍はこうした中、1942年6月にスターリングラードに攻勢を開始。市の大部分を占領するもソ連軍の猛烈な抵抗により冬が到来しても戦闘は続いた。この状況を打破するべくソ連側は秘密裏に反攻作戦を計画。1942年11月には作戦を開始し、スターリングラードにいたドイツ軍は補給を断たれ、事実上の包囲に成功した。これにドイツ軍はいくらか救出作戦が行われるも、目立った戦果にはつながらず、1943年1月、スターリングラードに包囲されたドイツ軍10万人は投降した。コーカサス進軍においては、幾分かソ連軍の反攻作戦が行われるも、依然として戦線は膠着していた。このスターリングラード攻防戦におけるソ連軍の勝利は、今後の戦闘において多大な影響を与え、ソ連軍の更なる士気の回復、向上につながる。

夏季攻勢とクルスクの戦い

1943年夏に入ると、ドイツ軍は夏季攻勢を開始。ドイツ軍は戦線の突出したクルスクを南北で挟撃する作戦に出た。これには独ソ両軍大量の戦車が投入され「史上最大の戦車戦」が展開される。この戦いを制したのはドイツ軍であり、ソ連側は大きな損害を出した。こうして、スターリングラード攻防戦やクルスクの戦いのように独ソ両軍は奪い奪われの泥沼の戦いが今後2年間続くこととなる。

バグラチオン攻勢

1943年冬に行われたソ連の冬季攻勢であるバグラチオン攻勢においては、ソ連側にとっては「最後の反攻作戦」とし、この攻勢でのドイツの粉砕を目指した。1943年11月22日、ソ連軍は全面攻勢を開始。これに大きく戦果を出したのはコーカサス地方であり、ドイツ軍のコーカサス戦線における退路が断たれる危険性が浮上する。しかしこれにもヒトラーは死守を厳命。結果的にクリミア付近でソ連軍が南に進軍しコーカサスで20万人近くのドイツ軍の包囲に成功。「コーカサス大包囲」を成功させ、ドイツ軍は史上最悪の大損害を出すことになる。この敗北はドイツ軍の士気の低下を招き、ドイツ軍は全線においてドニエプル川まで撤退することとなる。

1944年3月、ドニエプル川を境に戦線が停滞し始め、ドイツ軍は「ドニエプル防衛ライン」の構築を開始する。この川を利用した防衛は勢い任せのソ連軍の攻勢を停滞させ、ソ連軍に多大な損害を出すことになる。その損害はドニエプル川を赤く染めた。これは文字通りの意味であり、ドニエプル川はソ連軍の死骸から出た血で広い範囲が赤く染まった。この異様な光景によりドイツ軍は「レッド・ライン(rote Lini)」と表現した。これは共産主義のシンボルカラーである赤とドイツ軍により出されたソ連軍の敗北の深紅の血をかけ、皮肉として表現したものである。

しかし、依然としてドイツ軍は攻勢をかけるどころか、防衛戦に転じていた。そのうえこれはドニエプル川に依存した作戦であり、川の存在しない北部戦線では通用せず、ソ連軍はここに目を付けた。これを想定していたドイツ軍は事前に比較的多くの軍を配備するも、ソ連軍は1944年10月28日にバルト地域の奪還のためネフスキー作戦を開始する。

ネフスキー作戦

ソ連軍は北部で冬季攻勢を開始し、これはバルト地域の奪還が目的とされた。スターリンは「これが成功すればドイツを破壊できる。」とし、絶対的な成功が求められた。しかしこれにドイツ軍はドニエプル川を利用した防衛ラインの構築成功に慢心しており、北部に比較的多くの軍を配備しながらも、積極的な防衛作戦の考案はされず、現地軍が多少の混乱状態に陥り、ソ連側の優勢でこの攻勢は進み、1945年の春にはカリーニングラード(ケーニヒスベルク)に到達した。これはドイツ軍がいままで絶対的に防衛されてきた「ドニエプル防衛ライン」の崩壊を意味し、現地では混乱状態となった。ヒトラーはドイツ軍を前線から軍を北部に引き抜き、ケーニヒスベルク戦線の防衛を図った。しかしこれはドイツの敗北につながることとなる。

ソ連軍の全面攻勢

1945年夏、通常、ドイツ軍が優勢となり反攻作戦を行う時期にソ連は大胆にもドニエプル川の突破及び「ドニエプル防衛ライン」の崩壊を目標とした全面攻勢を行った。1945年6月22日、バルバロッサ作戦が開始されて丁度4年が経ったこの日に攻勢は開始され、成功した。ドイツ軍はケーニヒスベルク戦線の防衛に注力し始め、ドニエプル防衛ラインの軍が減少していた。そこに横槍を入れた結果、ソ連軍はこれまで突破できなかったドニエプル川の渡河に成功し、ドイツ軍はさらなる撤退を余儀なくされる。これにより1年近く続いたドニエプル防衛ラインは崩壊した。

ソ連は依然として攻勢を強め、ドイツ軍は大撤退を開始した。これまでのドイツ軍の勢いは見る影もなく、今まで占領されてきたキエフやハリコフを次々とソ連軍に解放され、1945年冬にはポーランド国境まで到達した。

焦土作戦とヤッシー=キシニョフ攻勢

ヒトラーは少しでもソ連軍を妨害するべく、1946年1月に大規模な焦土作戦を行った。これは史上最大規模の焦土作戦であり、ポーランド、ルーマニアやバルカン半島は焦土化、数多くの古都が消滅した。これは少なからずソ連軍に影響を与えたとされており、これによりドイツの敗北を数ヵ月から半年ほど遅らせたと推測する者もいる。

しかしいずれもソ連軍の勢いは凄まじく、1946年4月12日に行われたルーマニアにおけるソ連軍の攻勢であるヤッシー=キシニョフ攻勢ではソ連軍はバルカン半島に到達した。しかしこの地域では中でもドイツ側のパルチザンやレジスタンス、反ソ反乱分子の活動が活発であり、ソ連軍の攻勢を遅らせた。これらが後の1947年から行われる反共主義抵抗運動につながることとなる。

イギリスの優勢とオランダでの反乱

焦土作戦やバルカン半島のパルチザンによりソ連軍は多少の侵攻の遅れが生じるも、1946年冬になるとさらに攻勢は積極化、ワルシャワやブダペスト、プラハ等次々と欧州の都市が陥落し、このころになるとソ連軍はドイツ領内に侵入した。イギリス軍もヴァ―モンド作戦の失敗により陸軍こそ壊滅的な打撃をうけるが、バトル・オブ・ドーバーにおいてイギリス軍は北欧海域の制海権を確保し、少なからずドイツへ損害を与えた。そして英独の前線はドイツ上空へと移る。イギリスは大量の爆撃機をドイツ上空に飛ばし、ハノーファー、ハンブルク、ブレーメン、ミュンスターといったドイツ北西部の都市を中心に無差別爆撃を行った。

この爆撃はドイツの細々と残っていたドイツ西部の工業力を尽く破壊し、この爆撃によってドイツの生産能力は完全に消滅した。また、ドイツから低地地方にかけての補給路も断絶され、オランダやフランスに取り残されたドイツ軍は補給不足に陥った。このことにより、アムステルダムを中心にオランダ国民が大規模な民主主義運動をお越した。現地に捨てられた火器や石、皿、包丁、木材など、硬い物なら全て武器にし、オランダの反乱軍はドイツ軍に死物狂いで対抗した。これが功を奏し、オランダ反乱軍はドイツ軍を一掃、東へ撤退させ、イギリス軍もここに上陸した。オランダ反乱軍とイギリス軍の連合軍は東へ進軍し、ドイツ軍にさらなる圧力をかけた。

ヒトラー暗殺未遂事件とドイツ降伏への道

一方ドイツ政府の中枢、ベルリンでは窮地に立たされていた。ソ連軍はベルリンを目と鼻の先としており、ヒトラーはベルリンを離れることを余儀なくされようとしていた。しかし、ヒトラーはドイツ政府幹部にいくら呼びかけられてもベルリンから離れることを断固として拒否していたという。ここで、撤退に撤退を重ねるドイツ軍を批判するだけ批判し、幹部の言う事を聞かないヒトラーに不満を持っていたドイツ兵が、ついにヒトラーの暗殺を試みた。ヒトラーは意識不明の重体となり、ゲッペルスが臨時総統となった(戦後のゲッペルスの軍事裁判での証言から推測)。これは混乱するドイツ政府へのさらなる追い討ちとなった。ゲッペルスはこれ以上の混乱を避けるため、犯人であるドイツ国防軍の指揮官をベルリンに「防衛」を名目に残し、ベルリンを焦土化させ、彼らを粛清した。そして、ゲッペルスらドイツ政府幹部はエルフルトに首都を移転した。

ポーランド方面では、ソ連軍の猛攻撃が行われていた。ついにドイツ領内に侵入したソ連軍は、ベルリンを目指し、ベルリン焦土作戦の10日後には完全に制圧した。しかし、既に焦土化され、ほぼ無人となったベルリン市街ではほとんど戦闘が行われることはなかった。ソ連政府はこの時点でドイツに降伏するよう求めるも、ドイツ政府はこれを拒み、ソ連軍はさらにドイツ領内へ浸透すべく、南下を開始した。これに危機感を感じたドイツ政府幹部は、再び南下し、ニュルンベルクへ首都を移転した。しかし、ソ連軍は疲弊しきっていると判断したドイツ政府であったが、想定以上に進軍速度が早く、僅か3日でナチス党の総本山であるミュンヘンの党本部へ首都を移転した。このとき、ニュルンベルクに残り僅かなドイツ軍を配置し、最終防衛ラインとした。

しかし、ニュルンベルクに取り残されたドイツ軍に士気はなく、ゲッペルスによる国防軍の粛清もあり、徐々にソ連側に協力し、ドイツ政府を打倒する流れが生まれた。ここで1947年5月17日にニュルンベルクで一斉に蜂起し、ミュンヘンを目指した。蜂起したドイツ軍は全面的にソ連軍に協力する方針であったが、ゲルマン民族を絶滅せんとするソ連軍は蜂起軍を一掃した。ドイツ軍の一斉蜂起はソ連軍によって一瞬にして鎮圧された。そしてついにミュンヘンに到達したソ連軍とドイツ党本部に立て籠もる最後のドイツ軍都の戦闘が開始された。しかし、ドイツはもはや戦闘を継続する余力はなく、ミュンヘンは2日で攻略され、亡命を試みたドイツ政府幹部は殺害、ドイツ党本部に残っていた者はその場で逮捕された。

無論この中にはゲッペルスも含まれており、ゲッペルスの判断によって1947年5月28日にドイツの無条件降伏が決定した。こうして、独ソ戦はソ連含む連合国側の勝利で事実上終結した。

時系列

日付出来事解説
1939年8月23日独ソ不可侵条約ドイツとソビエト社会主義共和国連邦は独ソ不可侵条約を締結した。
1941年6月22日バルバロッサ作戦ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄、バルバロッサ作戦の発動からソ連へ侵攻を開始し、独ソは戦争状態となる。
1941年6月25日継続戦争フィンランドはソビエト社会主義共和国連邦に宣戦布告。再び冬戦争が開始される。
1941年6月27日ハンガリー参戦ハンガリーがソビエト社会主義共和国連邦に宣戦布告。
1941年6月30日対ソ参戦要求ドイツが大日本帝国へ対ソ戦への参戦要求を行う。しかしこれに大日本帝国は拒否。
1941年7月2日ミュンヘン作戦ドイツとルーマニアがミュンヘン作戦を始動。
1941年7月6日第一次スモレンスク攻防戦(第一次夏季攻勢)ドイツの一大攻勢。これによりソ連軍4師団を包囲。
1941年7月23日キエフ包囲戦キエフがドイツ軍により包囲され、キエフの戦いが始まる。
1941年8月23日第一次キエフ攻防戦ドイツ軍が包囲したキエフへ攻勢を開始。
1941年9月8日レニングラード包囲戦ドイツ軍はレニングラードを包囲。殲滅すべく戦闘を開始する。
1941年9月30日モスクワ攻防戦ドイツ軍がモスクワにてタイフーン作戦を開始。モスクワへ侵攻を開始する。
1941年10月31日ヴァ―モンド作戦イギリス軍はドイツ軍との戦争の早期終結を図るべく、ブルターニュやフランス北部への上陸を開始した。しかし強固に要塞化されたドーバー海峡沿岸を前に、多くイギリス軍のが命を落とし、上陸は失敗した。この作戦での敗北は、後のイギリスの陸軍能力を大きく低下させた。
1942年1月4日第一次冬季攻勢ソ連軍の最初の反攻作戦。これによりドイツ軍に多少の損害を出す。第二次ハリコフ攻防戦により中部戦線におけるドイツ軍の撤退が行われる。
1942年6月22日スターリングラード攻防戦スターリングラード市街地で独ソによる戦闘が展開されるが、ソ連軍の勝利で終わる。
1942年6月28日ブラウ作戦(第二次夏季攻勢)ドイツ軍によるコーカサス地方への攻勢。スターリンの誤算により勝利を収める。
同日スターリングラード攻防戦ドイツ軍がスターリングラードに攻勢を開始。
1942年7月28日ソ連国防人民委員令第227号発令ソ連側がソ連軍の撤退を許さず、徹底的な死守命令を発令する。
1942年11月14日ヴォルガ作戦ソ連軍によるスターリングラード反攻作戦。これによりドイツ軍をスターリングラードで包囲、殲滅した。
1943年6月3日第三次夏季攻勢ドイツ軍によって行われた三度目の夏季大規模攻勢。これによりソ連軍に大きな損害を与える。
1943年7月4日クルスクの戦い第三次夏季攻勢の際、クルスクで発生した独ソの戦闘。「史上最大の戦車戦」と呼ばれ、これにソ連軍は大敗した。
1943年11月22日バグラチオン攻勢(第二次冬季攻勢)ソ連軍による二度目の大規模反攻作戦。この攻勢によりドイツ軍をコーカサスで大規模包囲。この戦争でソ連軍側の最大戦果をあげる。
1944年3月16日ドニエプル防衛ラインの構築開始ドイツ軍は第二次冬季攻勢によりドニエプル川まで撤退。しかしそこで前線は停滞し、ここにドイツ軍は防衛ラインの構築を開始した。
1944年10月28日ネフスキー作戦(第三次冬季攻勢)ソ連軍による三度目の大規模反攻作戦。バルト地域の奪還が目的とされ、これにドイツ軍は軍を集中させたが、敗北し、ドイツ降伏につながる。
1945年7月17日ベルリン作戦(ソ連夏季攻勢)ネフスキー作戦によりドイツ軍を北方に引き寄せた後、大胆にもソ連軍は中央から軍を進軍させ、ベルリンを目指した。
1946年1月17日焦土作戦開始ドイツ軍はソ連軍の進軍を少しでも妨害するべく、戦闘地域を焦土化。現地補給を妨害した。
1946年4月12日ヤッシー=キシニョフ攻勢ソ連軍はバルカン半島へ進軍を開始、途中ドイツ側のパルチザンやレジスタンスによる抵抗があるも、順調に作戦は進んだ。これにより、枢軸国の敗北を決定させた。
1946年6月2日ハンブルク大規模空襲イギリスはドイツの制空権を奪取し、ドイツへの本格的な対地爆撃を開始した。
1946年6月28日ハノーファー爆撃イギリスはハノーファーへの大規模な爆撃を行い、多大な損害を与えた。
1946年8月18日ブレーメン爆撃イギリスはブレーメンへ爆撃を行い、さらなるドイツの工業生産能力への攻撃を行った。これによりドイツの工業力は壊滅した。
1946年10月10日ミュンスター爆撃イギリスはドイツ軍の補給路がいまだ残っていると推測したミュンスターへの爆撃を行い、ドイツの低地地方からフランスにかけての補給路を完全に断絶した。
1947年2月11日アムステルダム反乱ドイツの敗北を悟ったオランダ国民は、アムステルダムを中心に反乱を起こし、この動きはオランダ中に広がった。イギリスの支援や現地で集めた火器を利用し、制圧を試みるドイツ軍に抵抗した。
1947年4月16日ヒトラー暗殺未遂事件ヒトラーが何者かによって暗殺未遂に遭い、意識不明の重体となる。これは戦後の軍事裁判のゲッペルスによる証言であり、詳細なことは未だにわかっておらず、その後ヒトラーがどうなったかは未だにわかっていない。
1947年4月19日ベルリン焦土作戦ヒトラー暗殺未遂事件の犯人は国防軍であると断定した臨時総統ゲッペルスによって、ベルリン市街の焦土作戦に紛れ国防軍の粛清が行われる。
1947年4月20日エルフルト首都移転ベルリン焦土作戦により、ベルリンから南西に進んだエルフルトに臨時首都が置かれる。
1947年4月29日ベルリン陥落ソ連はポーランドを超えドイツ領内に侵入、既に焦土化していたベルリンを占領した。ここでソ連軍は臨時首都がある南方への進軍を開始する。
1947年5月12日ニュルンベルク首都移転ソ連軍の南下から逃れるため、ドイツ政府幹部は更に南へ移動し、ニュルンベルクに首都を移転した。
1947年5月15日ミュンヘン首都移転ドイツ政府幹部は更にミュンヘンへ首都を移転、ドイツ党本部に立て籠もった。これがドイツ最後の首都移転となる。
1947年5月17日ニュルンベルク蜂起臨時首都ミュンヘンの防衛のため前線に放置されたドイツ軍はドイツ政府に対し一斉蜂起。ソ連軍と交戦しつつ、共に南下を開始した。
1947年5月25日ミュンヘン攻防戦ソ連軍はアルプス山脈を突破、オーストリアからも侵攻を開始し、北方からはドイツ蜂起軍をソ連軍が超え、ミュンヘンへ南北から攻撃を開始した。
1947年5月27日ミュンヘン陥落ドイツ党本部の褐色館に立て籠もっていたドイツ政府幹部はついにソ連軍に捉えられ、ミュンヘンは陥落した。ドイツ政府の主要人物はほぼ全員逮捕または殺害された。
1947年5月28日ドイツ降伏ミュンヘン陥落が決定打になり、ドイツ臨時総統ゲッペルスは無条件降伏を受諾。独ソ戦は事実上終結した。しかし、その後もイタリアとの戦闘は続いた。

その後の欧州

五月革命

ドイツの無条件降伏をうけ、フランス北部では共産主義者が一斉蜂起を行い、フランス国フランス・コミューンは戦闘を繰り広げた。ソ連軍が勝利を収める中、パリ市街を国境に思いのほか停滞し、ソ連とフランス・コミューンの同盟締結後、1950年に行われるモスクワ戦争終結会議においてフランス両軍は休戦した。この地域では現在でも権威主義的な南部のフランス国と共産主義国家である北部のフランス・コミューンで南北に分裂し、互いに対立。いつ内戦が再開してもおかしくない状況である。

イタリアとの講和

ソ連軍はドイツを粉砕し、見事、無条件降伏をのませることに成功するが、対イタリア戦線ではアルプス山脈で戦線が膠着していた。ソ連軍はこの時点で非常に疲弊しており、これは互いに不利益を生み、生産性のない戦争であるとし、ソビエト社会主義共和国連邦とイタリア王国は1950年のモスクワ戦争終結会議において正式に講和し、イタリア王国にいたっては条件付き講和で戦争が終結し、スターリンもこれをのんだ。しかし、ソ連側もイタリア攻略をあきらめておらず、イタリア国内で発生している共産主義運動を裏で後押しし、その後内戦が勃発する。イタリア革命と呼ばれたこの革命は、最終的にはイタリア政府の勝利で終わり、イタリア政府の共産化は失敗した。

ドイツ及び枢軸国のその後

東、中央ヨーロッパは独ソ戦によって完全に焦土化された。ドイツ、ポーランド、バルカン半島、ウクライナ、ベラルーシ、バルト地域は瓦礫の山と化し、ソ連はその後経済的に困窮することとなる。1950年1月4日にモスクワ戦争終結会議が開催され、独ソ戦の最終的な終結とその条約がヨーロッパの国々で締結された。この欧州基本条約において、枢軸国は解体、東、中央ヨーロッパに数多くの社会主義国家をソ連が形成し、後にこれらソ連の衛星国と共にオムスク条約機構を結成する。一方イギリスは、オランダとドイツ北西部に新たな政府をつくり、欧州大陸民主主義の最前線となる。後にこれらはネーデルランド連合共和国、ドイツ共和国と呼称した。



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ここでは、50年代以降から開発が急速に進んでいる宇宙開発の歴史について解説している。宇宙開発力においては、ソビエト社会主義共和国連邦が最も高く、次いで大日本帝国、イギリスと続く。目次1 ソ連の宇宙開発...

太平洋戦争

太平洋戦争 洋上を航行する聯合艦隊戦争第二次世界大戦年月日1941年9月11日 - 1944年結果大日本帝国側の勝利。英米との条件付き講和。交戦勢力勢力1枢軸国大日本帝国満州国蒙古国ビルマ国タイ自由イ...

大洋州総督府

大洋州総督府正式名称大洋州総督府略称豪州/大洋州タグAST公用語豪州諸語/日本語/英語首都キャンベラ特区国家元首西村祥治政府首班西村祥治政府思想-人口996万人成立1945年9月3日所属陣営大東亜共栄...