山田重忠

ページ名:山田重忠
曖昧さ回避この項目では、美濃源氏美濃山田氏の当主について記述しています。惣領家の満政流八島氏一門の武将については「八島重忠」をご覧ください。

薬を取り扱う山田重忠

『承久の乱』で壮絶な状況の重忠

山田 重忠(やまだ しげただ、? - 承久3年6月15日(1221年7月6日))は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。別名は重広、通称は次郎。

美濃源氏八島氏羽島氏)一門の美濃山田氏の当主の山田重満(重光/重澄)の子、重義の弟、重継の父。妻は遠縁筋の源行家新宮十郎義盛)の娘。

『承久の乱』で宮方の武将として活躍して、壮絶な戦没を遂げた。

目次

概要[]

美濃山田氏は美濃国土岐郡山田郷[1]を拠点としたが、父の重満が同族の木曾氏の当主の木曾義仲に呼応して、父と兄の重義をはじめ、叔父の加茂重長と一族の美濃木田氏とともに義仲に従軍した。

以仁親王の令旨から発した『治承・寿永の乱』で戦乱に身を投じることになり、父の重満と兄の重義は『墨俣川の戦い』で、同族で義仲の叔父である源行家新宮十郎義盛)とともに、平重衡(清盛の子)の軍勢と戦って、戦死を遂げた。

以降の重忠は、義仲の入京に同伴して、一族の重家と重隆とともに京の警備の統轄責任者となった。数か月後に義仲が従兄の源頼朝の異母弟である範頼義経兄弟の軍勢と近江国粟津で戦死を遂げると(『粟津の戦い』)、重忠はそのまま降伏して恭順を示した。

建久3年(1192年)に頼朝が鎌倉幕府を開くと、本拠地の美濃国と同名の尾張国山田郡[2]を与えられて、地頭に任じられ御家人に列した。

しかし、当地は尾張平氏である長田氏一門の尾張山田氏が統治していたために、重忠に対する幕府の処置はその反発を招くことになった。それにもかかわらずに尾張平野に進出した重忠は、星崎城を築城したために、激怒した尾張山田氏との抗争を生じることになった。

しかし、美濃山田氏をはじめ惣領家の八島氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉時代以降も京で後鳥羽上皇に近侍して、建保元年(1213年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなど、勤皇派として心掛けていた。

重忠の動向を警戒した幕府の北条得宗家は、尾張山田氏の同族である水野高康(左近将監)らを唆して、承久3年(1221年)5月に、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると、重忠は上皇方としてこれに呼応して同年6月に美濃国と尾張国の境目の尾張川で、幕府方の水野高康・尾張山田氏らの軍勢を迎え撃った。

重忠は墨俣に陣を敷いたが、おなじく京方の大将の河内判官の藤原秀澄(藤原北家秀郷流で、京方の首謀者・藤原秀康の弟)は、数少ない兵力を分散する愚策をとってしまい、それに対して重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を撃破して鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆した秀澄はこれを採り上げなかった。

京方の美濃国の防御線は幕府軍によってたちまち撃破されて、早々に撤退を始めた。重忠はこのまま退却しては武家の名折れと恥じて、300余騎で杭瀬川に陣を築いて待ち構えた。武蔵国の武蔵七党の児玉党が率いる3000余騎が押し寄せて重忠は懸命に戦って、児玉党の100余騎を討ち取った。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ撤退した。

そのために、京方は宇治川を頼りに京で防衛を図り、そこで重忠は比叡山の僧兵(山法師)と勢多に陣を敷いて、橋桁を叩き落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と僧兵は奮戦して熊谷直国(直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康と三浦胤義とともに最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを見捨てて文字どおり門前払いしてしまった。重忠は「臆病に駆られた主上に騙られて、無駄死ぞ!!」と絶叫して門を叩いて悲憤した。

止むなく重忠は藤原秀康・三浦胤義ら京方の残党と東寺に立て籠もり、ここにもに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は15騎の敵兵を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山(現在の京都市右京区)に落ちのび、そのまま自害して果てた。

重忠の自害後に、嫡子の重継も幕府軍に捕らえられて処刑され、孫の兼継は助命されて越後国に流され後に出家して、僧侶となり余生を送った。美濃山田氏は兼継の弟の重親が継承した。尾張国山田郡は乱後に北条得宗家の計らいで、重忠と抗争した尾張平氏の尾張山田氏が統治することになった。

人物[]

『沙石集』では重忠のことを「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に数多くの寺院を建立したことでも知られている。

脚注[]

  1. 現在の岐阜県瑞浪市山田町
  2. 現在の愛知県名古屋市西区/守山区/天白区・瀬戸市・長久手市の一帯

関連項目[]

先代:山田重満美濃山田氏第3代当主 - 次代:山田重継


特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...