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曖昧さ回避 | この項目では、摂関家について記述しています。皇族系については「鎌倉家 (宮家)」をご覧ください。 |
鎌倉家(九条藤)の家紋
鎌倉氏(かまくらけ)は、鎌倉幕府の征夷大将軍に就任した摂関家の藤原北家流九条家の一門。鎌倉摂関家とも呼ばれる。
九条道家の子の頼経とその子の頼嗣父子が北条得宗家の要請で征夷大将軍(摂関家将軍)に就任した。
陽成源氏(河内源氏)の直系の鎌倉氏の当主で、征夷大将軍でもある源実朝が甥の公暁(頼家の次子)によって鶴岡八幡宮の参拝の帰途に29歳で暗殺されると、公暁も処刑されたために陽成源氏の直系は断絶した。
実朝亡き後も、父・頼朝の兄弟をはじめ、多くの陽成源氏の一門が数多く健在していた。そのために、陽成源氏に連なる者を新たな「源氏将軍」として立てることが考えられる。しかし、北条得宗家の権勢が強まる中で、御家人から信奉を集めやすい「源氏将軍」は、出自が低い北条得宗家による執権政治の維持の上では不都合であったため、陽成源氏の一門の多くは北条得宗家と縁戚関係を結んだ足利氏(下野源氏)を除いて、疎まれた挙句に謀反の罪を着せられ、追討を受けたり、よくとも領地を没収されることが多かった。
そこで、実朝の外叔父である北条義時は、姉の政子(頼家・実朝の生母)とともに、後鳥羽上皇に上奏して、皇族将軍を提案したが北条得宗家を嫌った上皇によって拒否された。そこで、政子・義時姉弟は藤原北家流九条家一門である頼朝の外曾孫(妹の曾孫)である3歳である九条三寅(頼経)を迎えることにした。その際に、北条得宗家はもともと縁戚関係にあったとはいえ、3代目にわたりって、源氏将軍を主とした鎌倉幕府で、藤原北家出身の将軍は前代未聞のことであり、幕府では三寅の源氏改姓も審議されたが、結局は藤原姓のままとされた[1]。
三寅は九条家出身で、藤原北家の摂関家の家格を有しており、同族の近衛家(後に形成される五摂家の筆頭)に次ぐ家門であるとともに、家祖の九条兼実は頼朝の政治的な盟友であり、源氏将軍とは縁戚でもあったため、元より関係が深かった。さらに、三寅の生母はおなじく同族である西園寺家の出身で、同時に西園寺家は関東申次衆として朝廷と幕府の橋渡し役を果たす親幕府的な家門であることも好都合であった。こうして、未だ物心もつかぬ幼児であった三寅が将軍として推戴され、第2代目将軍の頼家の娘である鞠子を正室とする婚約をした。
やがて十年の歳月が流れて13歳の三寅は元服して、頼経と名乗って征夷大将軍として迎えられた。しかし、頼経は成長すると、北条得宗家の傀儡であることを甘んじるのを嫌い独自の政権運営を指向し、北条一門の名越光時をはじめ、三浦光村ら有力な御家人と共謀して鎌倉幕府を乗っ取る計画をした。これを察した執権・北条時頼の討伐を受けて、寛元4年(1246年)の『宮騒動』で鎌倉から京に追放された。以降からこれに懲りた北条得宗家は、頼嗣の子の頼経を後を継がせたが、方向の転換を図って、皇族将軍を征夷大将軍に迎え(鎌倉宮家)、頼経も生母とともに京に追放された。
この背景には、執権である北条得宗家は中臣姓とも物部姓とも日下部姓などの後裔とされる伊豆国の一介の小豪族に過ぎない出自の低さから、将軍職に就くことはできなかったことが要因であった。
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