フィンセント・ファン・ゴッホ

ページ名:フィンセント・ファン・ゴッホ

情熱的かつ繊細に燃え尽きたゴッホの自画肖像

フィンセント・ファン・ゴッホ/ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(蘭語:Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダの後期印象派の奇才画家。

現地のオランダ語では「フィンチェント・ファン・フォッフォ」と表記され、フラマン語(ベルギー北部にあるオランダ語の祖語である低地フランケン語(低地ドイツ語)の系統一言語)では「フィンセント・ファン・ホッホ」は表記される。

一般的には、ドイツ語・日本語表記の「フィンセント・ファン・ゴッホ」および「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」で通すことにする。

目次

概要[]

ゴッホ家の系譜は彼の義妹(弟・テオの未亡人)・ヨハンナ(ヨー)(Johanna(Jo) Bonger)の『ファン・ゴッホ書簡全集』によれば、16世紀にライン川中流付近から、オランダ南部のアイントホーフェン州(Ijndhoven、※ドイツ語ではEindhoven)のブラバント(Brabant)にあるヌーネン村(Nuenen Dorp、※ ドイツ語ではニューネン村(Nünen Dorf)と表記され、日本語ではなぜか「ヌエーネン村」と表記されている)に住みつき、小貴族として地位を確立したと、記されてある。

ゴッホ一族の中でワインや莫大な書籍を商いとして、オランダ王家のナッサウ=オラニエ家[1]に仕え、市民警察の副長官まで昇進し、小貴族らしく家紋まで持っていた。17世紀には大蔵大臣になった一族もいた。

しかし、18世紀に『フランス革命』の影響によって、英傑・ナポレオン[2]が台頭し、オランダがフランスの属国になると、ナッサウ=オラニエ家の勢力が凋落し、同時にゴッホ家も没落し生活のために彫金職人や牧師として身を落とすようになった。

その中で、ゴッホの祖父で同名のフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年~1874年)が登場し、カルヴィン派のプロテスタント(オランダ改革派教会)の厳格な聖職者だった。ただ、ゴッホの出身のヌーネンはカトリックが多く、ゴッホ家は白眼視されて警戒された。ただ、この祖父は確執関係だった両親と違い、同名の孫のゴッホを溺愛したという。

さらに、ゴッホの父・テオドルス(Theodorus)はハンサムな新教の牧師だったが、父(ゴッホから見れば祖父)と違い無能だった。彼には兄がいた。それが甥と同名のフィンセントで画商として『グーピル商会』を営んだが、甥のゴッホのことを「ゴッホ家の無能な異端児」と腫れもの扱いし、彼の絵画を「奇っ怪」扱いしこれを睥睨していた。ゴッホも同名の伯父・フィンセントを嫌っていた。

ただ、父の弟であるヨハネス・ファン・ゴッホ(Johannes van Gogh)は誇り高い海軍中将で、甥のゴッホのことを可愛がっていた。ゴッホも祖父および弟のテオとともにこの叔父を尊敬していた。しかし、ゴッホは祖父と叔父と弟を除いてゴッホ一族と確執関係にあり、母のアンナ・コーネリア・カーベントゥス(Anna Cornelia Carbentus)さえ、自分の容貌に似た偏屈な息子を嫌っていた。

しかし、弟の妻のヨハンナは、北オランダの貴族のボンファー家(ボンハー家)の令嬢で才色兼美で好奇心が強く、義兄のゴッホおよび夫のテオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh、1857年5月1日 - 1891年1月25日、通称「テオ」)が35歳で兄を追うように亡くなると、ゴッホの足跡を追うように研究し、ついに『ファン・ゴッホ書簡全集』を発表し、ゴッホの名を全世界に影響を与えたのである。

生涯[]

1853年にベルギーと境目にある南オランダのヌーネン村付近にあるフロート・ズンダート(Vlotho Zundert)に、牧師のテオドルス・ファン・ゴッホとアンナ・コーネリア・カーベントゥス(父より3歳年長)との間の次男として生まれた[3]。家族はテオ(三男)をはじめ、妹で長女のアンナ(Anna)・次女のエリサベト(Elisabeth)・三女のヴィルヘルミーナ(Wilhelmina)、末弟(四男)のコーネリウス(Cornelius)などがいた。

彼は生まれつき頑丈で聡明だったが、母・アンナと同様に容貌が冴えず癇癪持ちだったので、両親と数人の妹およびゴッホ一族との衝突が絶えなかった。唯一の理解者は同名の祖父・フィンセントだけだった。

彼は敬虔なプロテスタントだった。地元の小学校に入学するも、父の意思で北ブラバント(Noord Brabant)のゼーフェンベアフェン(Zevenbergen)にある寄宿学校の転校し、ドイツ語・フランス語・英語などを学んだ。寄宿学校を卒業し、ゼーフェンベアフェンのティルブーフ中学校に進むも経済的な事情で中退した。

16歳のときにアムスタダム(アムステルダム)で『グーピル商会』を営んでいる同名の伯父・フィンセントのもとで店員として働きながら、絵画を描いたりした。これが前述のように伯父に酷評されたため、辞職して帰郷した。数少ない理解者の祖父・フィンセントに頼み込んで、ベルギー南部のボリナージュ(Borinage)の炭鉱地に赴いて、献身的に宣教活動をした。

しかし、現実的には宣教活動だけでは人々を救えなく、ボリナージュではブラバント同様にカトリック地域だったので、ゴッホは挫折した。同時に敬愛した祖父の訃報を4歳年下の弟・テオの知らせで、聞いて、祖父の死に大いに慟哭した。

以降のゴッホは、愛する祖父の死を機会に画家を目指し、1880年にベルギーの首都ブリュッセル王立美術学校に入学したが、ここでも理解されずに中退した。オランダに帰国しハーファ(Haag)で制作し、1883年に『野良の農婦』を1885年に『馬鈴薯(ジャガイモ)を食べる人々』を発表し、ここでメランコリーな画家・ゴッホが誕生した(後述)。

翌1886年、フランスのパリに出て、ゴーガンことポール・ギョーギャン(Paul Gauguin)と出会い、画家としての活動を本格化した。1888年、親友のギョーギャンとともに南フランスのアルル(Arles)に移り、ここで共同生活を始めた。このときに『ひまわり』『アルルの跳ね橋』『カフェテラス』(アルルのカフェ)などを発表し、以前の彼の重苦しい暗色彩から日本絵画の影響を受けた画風に変貌した。

しかし、まわりからゴッホの芸術が理解されず、持病の癇癪による精神病の発作が表面化し、ギョーギャンに向かって「君も僕を理解しないのか?!」と叫んでナイフで切りつけた。以降からゴッホはギョーギャンと訣別し、パリ近郊にあるオーヴェル・シュル・ワーズ(Auvers sur Oise)に移り、弟のテオの援助を受けて療養しながら『オーヴェルの教会』『烏の群れ飛ぶ麦畑』(鳥のいる麦畑)を発表した。

だが同年のクリスマス・イヴにゴッホは突然、自分の左耳を切り落とし、交際していたラシェル(Rachélle)というフランス人娼婦に手渡した。翌1889年、片耳の自画像を描きながら、『星月夜』などを発表した。その他は『サイプレイ』『三本の木』などを発表したが1600もあるゴッホの作品で生前に売れたのは1点のみだった。

翌1890年に、突然ゴッホはオーヴェルの麦畑付近で短銃で左脇に撃ち込んで、その夜に駆け付けた弟・テオに看取られて死亡した。享年38だった。彼は炎のような情熱を持った奇才画伯で、生涯独身であった。

弟・テオはもともと病弱だったので半年後に、オランダのユトレフト(ユトレヒト/ウトレヒト)の病院で兄を追うように、妻のヨハンナと子のフィンセント・ウィレムに看取られて死去し、遺言でその遺体は兄が眠るオーヴェル麦畑付近の墓地にともに葬られている。

晩年のゴッホの自画肖像

エピソード[]

  • 伯父が営む『グーピル商会』に7年間ほど務め、イギリスのロンドン支店まで務めたが、英国女性に対する失恋のために辞職した。
  • その後、イギリスの私立学校の非常勤の助教員や、オランダに帰国し書店の店員など転々とした。
  • アムスタダム大学神学部を受験し、将来は大司教を目指したが、鬱病のために挫折した。
  • 1883年~1885年にゴッホはハーファから一時的にズンダートに帰郷し、地元の農牧的な素朴さを愛していた。
  • マーホット・ベーヘマン、またはマーフォット・ベーフェマン(Margot Begeman)という容貌が冴えない12歳年上の婦人と愛し合い世話をしたことがある。
  • その間に父と諍いを起こし、母が大腿骨を骨折したとき看病したが、ついに分かち合えずに郷里を去り二度と戻らなかった。
  • 『グーピル商会』パリ支店の代表である弟・テオと1886年~1888年にパリで同居したことがある。
  • 義妹のヨハンナの実家のボンファー家(ボンハー家)は保険業を営んだアムスタダムの都市貴族だった。
  • ヨハンナの兄・アント(ド)リース・ファン・ボンファー(Andriés van Bonger)はパリに留学し、アムスタダム大学法学部教授となり、犯罪学の重鎮となる。
  • ヨハンナ自身もロンドンの留学し、ユトレフト高等女子学校の教諭となり英語を鞭撻した。
  • ゴッホの名フィンセントはラテン語およびイタリア語のVincere(ヴィンケーレ/ヴィンチェーレ[4])が語源である。
  • ゴッホの遺言は「泣かないでおくれ。みんなのためによかれと思ってこうするしかなかったのさ…」とだったという[5]
  • ゴッホの左耳を切り、さらにゴッホの自殺が実は「他殺」とされ、真相はゴッホに恨みをもったギョーギャンの仕業という巷の奇説が流布している(ギョーギャン自身が「ゴッホの左耳を切ったのはこの僕だ!」と叫んだというが、真偽の程は不明のままである)。

様々な表記[]

  • オランダ語(低地ドイツ語の系統である低地フランク語の一言語):「フィンチェント・ファン・フォッフォ」
  • フラマン語(低地フランク語の一言語):「フィンセント・ファン・ホッホ」
  • 標準ドイツ語(フランク語など):「フィンツェント・ファン・ゴッホ」(Vincent van Goch)
  • 南ドイツ語(フランケン語など):「フィンツェントゥ・ファン・ゴッホ」(Vincent van Goch)
  • アレマン語(スイス・リヒテンシュタイン含む):「フィンツェツ・ファン・ゴッホ」(Vincet van Goch)
  • バイエルン語(オーストリア含む):「フィンクントゥ・フォン・ゴッホ」(Vincnt vån Goch)
  • フランス語:「ヴァンサン・ヴァン・ギョーグ」
  • 英語:「ヴィンスント・ヴァン・ゴッグ」
  • 日本語:「フィンセント・ファン・ゴッホ」および「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」

脚注[]

  1. 中西部ドイツの貴族の「ナッサォゥ=オランヂェ家」の分家。
  2. イタリア・コルシカ系フランス人、イタリア語:「ナポレオーネ・ブオナパルテ」(Napoléone Buonaparte)。
  3. 1851年生まれの長兄も同名のフィンセントだったが夭折した。
  4. 意味は「勝利」。
  5. 『ゴッホ - この世の旅人』(アルバート・J・ルービン/翻訳:高儀進/講談社/1979年)より。

参照文献[]

  • オランダ紀行(街道をゆくシリーズ、司馬遼太郎:朝日文庫)ISBN 978-4022640536


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