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高山満忠の肖像
高山 満忠(たかやま みつただ、天文5年(1536年) - 天正10年6月15日(1582年7月4日)は、戦国時代の武将。通称は治左衛門、法号は長閒斎(ちようけんさい)。
碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美濃長屋氏の庶家である美濃高山氏の当主で、満近の父。妻は主君の明智光秀(惟任氏(美濃源氏)の当主の惟任頼秀の子)の姉である。
彼は斎藤利三(内蔵助)・三宅秀満(左馬助)・藤田行政(伝五郎)・溝尾茂朝(庄兵衛)とともに、明智五宿老のひとりとして活躍した。
天正5年(1577年)に、丹波国過部城と篠山城を落とした後、光秀は亀山城に満忠を城代として入城させた。天正7年(1579年)に、兵糧攻めにしていた同国八上城が落ちると、この城に城代として満忠を入城させた。
天正10年(1582年)6月1日に、光秀は満忠ら明智五宿老に、光秀の主君の織田信長に対して、反乱を起こすことを打ち明けた。翌日に光秀は山城国本能寺に宿泊した信長を攻撃した。満忠は本能寺への攻め手の一方を主導した[3]。さらに満忠は近隣の二条城にいた信長の嫡子の信忠を攻撃したが、その際に鉄砲で撃たれて重傷を負い、知恩院で療養していた。
2週間後に、『中国攻め』をしていた羽柴秀吉が、疾風の如くに引き返して、光秀の軍勢と激突した(『山崎の戦い』)。療養していた満忠は、光秀の命で秀吉軍に備えたが、秀吉に撃破されて敗走した光秀が小栗栖で盗賊に襲われて、溝尾茂朝の介錯で散った。光秀の訃報を聞くと、満忠は三宅秀満とともに光秀の居城である近江国坂本城に向かい、秀吉軍の包囲を受けて、15日に城に火を放って、秀満と子の満近とともに自害して果てた。享年47。
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