桐生忠利

ページ名:桐生忠利

惣領家の俊綱を弑した忠利

桐生 忠利[1](きりゅう ただとし、? - 1183年10月6日(寿永2年9月18日)は、平安時代末期の武将で、通称は六郎[2]。桐生氏は下野国足利荘[3]を本拠地とする藤姓足利氏一門で、桐生氏(切宇氏)の祖にあたり[4]、父祖は不詳であり、上野国山田郡桐生郷[5]を本貫とした。

概要[]

忠利は惣領家の足利俊綱・忠綱(又太郎)父子の郎党をつとめた。

1183年3月18日(寿永2年2月23日)に、下野国下都賀郡野木宮[6]で常陸国稲敷郡信太荘[7]を拠点とした陽成源氏(河内源氏)である源義広[8]と組んだ忠綱は、源頼朝傘下の下河辺行平と小山朝政に大敗した。上野国東部にある山上郷竜奥に潜伏した(『野木宮の戦い』)。

このとき、忠利のみが忠綱にただ一人付き従って数日間隠れていたが、1183年3月31日(寿永2年2月25日)に忠綱に進言して、山陰道を経て九州方面へと向かわせ[9]、忠利自身は下野国足利荘に帰還した。しかし、同年9月13日、頼朝から俊綱討伐に命じられた和田義茂[10]は一族の佐原義連[11]をはじめ葛西清重・宇佐美実政とともに足利荘に向かった。義茂は使者を派遣して、忠利と内通した。そのため忠利は、変心して寝室に忍び込んで、惣領家の俊綱を弑した。まもなく忠利は、頼朝に謁見して、惣領家の俊綱の首を持参する旨の使者を派遣した。

同年10月1日(寿永2年9月16日)、相模国高座郡鎌倉郷[12]にむかった忠利は、頼朝の近侍・御家人である梶原景時[13]と面会して「主君の俊綱を斬って首を持参した恩賞の見返りとして、わたしを御家人のひとりにしていただきたい」との意向を頼朝に伝えた。景時からこのことを聞いて激怒した頼朝は「忠利が主君を殺害した行為は不忠であり、賞賛に値しない。ただちに処刑せよ!」と景時に命じた。同年10月6日(寿永2年9月18日)、景時は忠利を処刑し、その首を俊綱の首の傍らに晒しものとした[14]

ただし、頼朝は凱旋した和田義茂に対して、桐生氏を含む(忠利の妻子など)藤姓足利氏の一族や俊綱の子・康綱と桐生綱元兄弟[15]や郎党などで降伏してきた者を助命して、許す旨を出した。

その後、忠利の末裔は4代目にいたるまで「桐生梅原館」に蟄居した、という言い伝えがあるという[16]。はるか後世の桐生氏の中興の祖である桐生国綱は忠利の末裔と称した、という[17]

脚注[]

  1. 群馬県桐生市の日枝神社の社伝由緒文献郷土史の『山田郡誌』(山田郡教育会/千秋社/1939年※1997年復刻版)による。ただし、『桐生佐野氏と戦国社会』所収論文の『桐生佐野氏に関わる研究史とその史料紹介』(須藤聡(群馬県立太田女子高等学校教諭)/桐生文化史談会/2007年)で、『山田郡誌』にある諱の「忠利」と記述された信頼性に対して、疑義を呈している。引き続き同書は、戦後の代表的な桐生氏研究である『桐生市史』上下巻(桐生市史編纂委員会/桐生市史刊行委員/1958年・1961年)こそが、客観的な史実を導き出す詳細な考察を行なっている、とこれを評価している。
  2. 『吾妻鏡』では、単に「桐生六郎」と述べている。
  3. 現在の栃木県足利市周辺
  4. 『桐生六郎の周辺 - 『吾妻鏡』における或る逆臣の正当性について - 』(大瀬祐太(前桐生市立図書館長)/自著/2005年)より。
  5. または、園田荘/園田庄とも呼ばれる。現在の群馬県桐生市周辺
  6. 現在の栃木県下都賀郡野木町
  7. 現在の茨城県稲敷市
  8. 通称は志田(志太/志駄/信太)冠者・帯刀先生。頼朝の叔父にあたる。
  9. その後の忠綱の没年は不詳である(『吾妻鏡』)。
  10. 相模国の豪族・三浦氏(御浦氏)の庶家で、鎌倉幕府の侍所別当・和田義盛の弟。相模国三浦郡和田郷を本貫とする。
  11. 三浦氏の惣領家・三浦義明の庶子で、和田義盛の叔父。相模国三浦郡佐原郷(現在の神奈川県横須賀市佐原)を本貫とする。
  12. 現在の神奈川県鎌倉市周辺
  13. 三浦氏と同族である鎌倉氏の庶家。
  14. 石井進著作集・第5巻『鎌倉武士の実像』(石井進/岩波書店/2005年)頁189~192による。
  15. ただし、忠綱を除く。
  16. これは、実際には藤姓足利氏の系統である佐野氏の庶家である桐生氏の系譜の伝承という。
  17. 前述の『桐生佐野氏に関わる研究史とその史料紹介』が引用する『桐生市史』上下巻より。

関連項目[]



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