成何

ページ名:成何

成何(成公英)像

成何(せいか、? - 220年/221年?)は、『三国志』に登場する後漢末の涼州の群雄の韓遂の部将。字は公英[1]。そのために「成公英」とも呼ばれる[1]。涼州の群雄のひとりである成宜の族兄弟という[1]

概要[]

金城郡[2]の人。中平年間[3]に若くして、同郷の韓遂に仕官して、忠実な部将として活躍した。

建安年間[4]に、成何は曹操の部将である侍中・司隷校尉である鍾繇の配下の張既と戦ったが、弘農郡華陰県[5]で、曹操の外族弟である征西将軍の夏侯淵と戦って敗走した韓遂に随伴して、郷里でもある金城郡湟中県[6]まで逃れたときは、多くの部下たちは四散し、成何のみが韓遂の傍らにいた。

そのとき、韓遂の女婿(末娘の婿)である閻行[7]は、父が曹操の人質として鄴にいたので、自分の父を曹操に殺害させようと目論んでその末娘を強引に娶らせた岳父の韓遂を襲撃してその首級を得て、曹操に帰順を目論んだが、これを聞いた成何によって妨害されて、東方に逃れた。激怒した韓遂は閻行の妻である末娘を取り戻して離別させた。その後、成何に向かって「漢たるものが、女婿の反乱を生じさせるとは情けないことだ」と嘆息して述べた。さらに「今やわしの親類は離反したため、周辺には人数が少なくなった。これからはここより南西にある羌氐(チベット系)の勢力圏を通過して、に向かうしかあるまい」と引き続き述べた。

すると、成何は「わが君は挙兵なされてから数十年になります。現在は敗北なされて勢いはありませんが、なぜご自身の拠点を放棄なされて他方に頼らなければならないのでしょうか?」と述べた。しかし、韓遂は「もう、わしは年を取った。君は何かよい策でもあるのかね?」と述べた。成何は「曹操自身はここまで遠征することは不可能です。可能とすれば曹操の外従弟の夏侯淵だけでしょう。しかし現実としては夏侯淵の部将が攻めてくるのが精一杯でしょう。わが君は近隣の羌氐の集落を頼って、魏の軍勢が撤退するのを気長にお待ちなり、四散した配下たちを集めて、羌氐の酋長たちと連合して、再起をすればよいと存じます」と力強く述べた。

韓遂は、成何の策に従い、閻行の妻だった末娘を娶らせた。そのとき、韓遂が率いた軍勢は数千人いた。韓遂は若いころから羌氐と誼を通じていたので、羌氐の酋長たちは韓遂を援助して、たちまちその軍勢は数万人に膨れ上がった。やがて韓遂を裏切った閻行を攻撃した。閻行は再び敗走したが、215年に韓遂が70余歳で死亡したため[8]、主を失った成何は、閻行を通じて曹操に降伏した。

曹操は成何に帰順を大いに喜び、朝廷に上奏して彼を軍師に任命して、列侯に封じた。あるとき、成何は曹操の狩猟に随伴して、3匹の鹿に遭遇して曹操は彼にすべて射止めるように命じた。成何は見事にすべて射止めたのである。そのとき、曹操は拍手しながら「君は旧主だった韓文約(韓遂)に対しては節義を貫き通したが、わしに対してはダメかね?」と述べた。すると、成何は下馬して拝謁しながら「只今、申し上げます。わたしは魏王(曹操)に対しては嘘は隠せません。仮にわが旧主が健在であれば、わたしは魏王に帰順することはなかったでしょう…」と落涙しながら述べた。曹操は成何の節義を褒めちぎり、これを尊重した。

219年夏6月に、曹操の命で于禁の副将として、督将に任命された。そのとき旧主の韓遂と面識があった龐悳(龐徳)と同格となり、樊城にいる曹仁(曹操の族弟)を包囲した関羽を討伐した。翌秋7月に龐悳は樊城の北方にある十里に駐屯していたが、そのころ10日余の長雨となり、龐悳は諸将とともに堤防に登って濁水から避難した。それに乗じて関羽が乗舟して攻め寄せて、大舟で四方から堤の上に矢を降らせた。その晩に、成何は龐徳と酒宴を開いて、龐徳から「良将は死を恐れていい加減に生きることはできない。烈士は節義を貫いて死すことが望ましいとわしは聞いておる。今日以降はわしが死ぬ日である」と述べられた。間もなく、洪水の氾濫で魏の軍勢の勢いは衰えてしまい、于禁は捕虜になり龐悳は関羽に降伏することを断固と拒否して、処刑された。成何は辛うじて、曹操が派遣した徐晃・趙儼の軍勢を頼って生き延びた。

黄初年間の初めに、曹操が逝去して太子の曹丕が後を継ぐと、河西地方に反乱が起こった。成何は曹丕の命を受けて、参軍に任じられて涼州刺史の張既を補佐して隴右地方を平定させたが、間もなく病没した。

脚注[]

  1. 1.01.11.2元本』(『元大徳九路本十七史』)
  2. 現在の甘粛省蘭州市周辺
  3. 184年~189年ごろ。
  4. 196年~221年ごろ。
  5. 現在の陝西省渭南市華陰県
  6. 現在の青海省西寧市湟中県
  7. 閻艶とも呼ばれる。
  8. 韓遂の死は、病死説・暗殺説があるが、真偽の程は定かではない。

関連項目[]



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...