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はるき悦巳の自画像
『日の出食堂の青春』のマドンナのミッちゃん(美津子)
はるき 悦巳(はるき えつみ、1947年5月28日 - )は、日本の漫画家。投稿時のペンネームは「春木 悦巳[1]」で、本名は周りに知られたくないので非公開である[2]。血液型は不明[3]。
代表作は『じゃりン子チエ』で、尊敬&影響を受けた漫画家は水木しげる・つげ義春[4]・白土三平(岡村登)・横山光輝[5]などである。本人は人情漫画を得意とする。
父親は徳島県、あるいは愛媛県出身で、母親は福岡県の筑豊地方出身であり[6]、本人は大阪府大阪市西成区西萩町[7]出身である。
中学1年のときに同市住吉区に転居し、私立浪速高等学校を経て、上京して多摩美術大学美術学部油絵科を卒業した。
大学卒業後、帰郷せずにそのまま東京都世田谷区に暮らした。同時に父親[8]が亡くなっている。亡父の葬儀の後に迷い込んだ野良猫がまるで父代わりのように家に居着いてしまい、自分の居場所がいつの間にかなくなっていたという[9]。
はるき自身はあまり就職活動に意欲的ではなく、漠然として漫画家を目指す前にはアルバイトで食いつないでおり、気ままに1ヶ月働いたり、辞職して1ヶ月は働かずにブラブラして過ごす、というような自堕落な生活をしていた。数年後に大学時代の同級生の女性と恋愛して婚約したためにようやく定職につき、マネキン屋でマネキン人形に目や唇を描きこむ仕事を1年ほどしてから結婚した。しかし、はるき自身は就労に意欲的ではなく、妻の両親に対する世間体のための就職だったため、結婚後半年ほどして退職している。結果的にはるきのサラリーマン生活はこの1年半ほどの間だけだった。その後も相変わらず漠然と漫画家を目指すためにその場しのぎのアルバイト稼業が続き、年収100万円ほどで生活していた。
30歳前後から気ままに漫画を描いて出版社に持ち込み始め、1978年、31歳のときに『平凡パンチOh!』(平凡出版[10])で『政・トラぶっとん音頭』で漫画家デビューした。同年9月28日に、『週刊漫画アクション』で代表作の『じゃりン子チエ』を読切として掲載した。これがヒットして好評を得て、当初は第4話までの短期連載として掲載したが、その後は12話まで短期集中連載された。またこれが大ヒットしたので、1979年3月に第2部で正式に週刊連載となった。以降は、1997年までの19年間も連載が続いた。
はるきは『じゃりン子チエ』の爆発的人気で多忙だった1980年6月25日に長男が誕生した。当時は「気がついたら、家に赤ん坊がおった」というような、多忙な状況だった[11]。当時のはるきは『じゃりン子チエ』や『どらン猫小鉄』の連載と平行して、月刊雑誌の『ビッグコミックスピリッツ』の創刊号から連載していた『ガチャバイ』が、雑誌の隔週刊化に伴いスケジュールが行き詰り、はるき自身がパニックを起こす状態となり、1982年に中断[12]するなど、当時住んでいた東京特有の喧騒さに嫌気がさしたり、同時に母親の症状が表面化したため[13]、1983年に家族とともに兵庫県西宮市へ転居した[14]。しばらくして、世田谷区に住んでいたときから飼っていた黒猫の「チビ」が亡くなった。
1997年8月5日、19年間も長期連載した代表作の『じゃりン子チエ』が第67部11話をもって終了した。同作品が突然の形で連載を終了したのは、前述したはるきの年老いた母親の介護問題が深刻化したためである[13]。
その後は、介護したはるきの母親の状況が芳しくなく、はるき自身も鬱状態となり、気分次第で読切を掲載したりしていた。その後、母親が亡くなり、落ち込んでしまったが、『漫画アクション』の担当編集者の励みもあり、本人が「もう人間は描きとうない。猫を主人公とするのなら描いてもええわ…」という条件で、『じゃりン子チエ』に登場した小鉄とアントニオJr.を主人公とした『帰って来たどらン猫シリーズ』を現在にいたるまで、気ままに描いている[13]。
現在は執筆している情報はなく、さらに2015年5月に完結させた『帰って来たどらン猫3』の単行本も刊行されていない[15]。
はるき自身は「自分は生来の怠け者で、面倒くさいことはいやだ」というのが持論。同時に人見知りであるが、周りが響くほどの大声の持ち主で、根がお喋り好きのようである[13]。趣味は洋楽やジャズ鑑賞や映画鑑賞や小説を読むことで、そのほかにあまりお金の使い道がないという。いわゆるヘビースモーカーでタバコは一日に何箱も吸うほどであるが、酒はまったく飲めず下戸であるが、コーヒーを飲むのは大好きである。パソコンを使わないためインターネットにうとく、携帯電話も苦手である[13]。
学生時代から「ベニヤ板3枚分」もあるような大きな絵を専門に描いており、置く場所がないため展覧会に出品してもそのまま預けっぱなしで取りに行かなかったという。そのような状況だったため、絵を縮小することばかり考えていて結局30歳前後で漫画に落ち着いたという。
同時に出不精のために、年賀状を出すのも面倒くさがる性格であり[16]、気分の浮き沈みが激しいのがはるきの特徴である。その反面、過去にテレビ出演したことがあり、近年はメディアを避けるはるきであるが、周囲の評はハンサムで芸能人でいうと、宮迫博之似だという[2]。
はるきの作風としては主に人情物語を得意とする。新人のときに原作つきの仕事(『舌町物語』(原作:荘久一)をしたこともあるが、“自分の知っているところを描きたい、自分で話が作りたい”と考えており、その後は原作付きの作品には、一切携わっていない。
前述のつげ義春を深く尊敬し、特に初期の頃につげ義春の影響が濃厚に出ていた。同時にアシスタント経験はなく、すべて独学であるため、スクリーントーンを使用しないなどの特徴がある[17]。
また、はるきは「アシスタント? ひとりもおまへん。嫁はんに手伝うてもろうてるけど、(俺は)ほんまに全部ひとり(作業を)でやりたいんよ」[18]と述べていたが、その後「嫁はんに息子ができてから、(嫁はんが)俺の手伝いがでけへんようなった」[19]と述べたために、止むなく『漫画アクション』でアシスタント募集を出すようになった[20]。
また『じゃりン子チエ』に登場する「小林マサル」ははるき自身で、その相棒のタカシはアシスタントである亡きいわしげ孝[21]がモデルである。「俺にはマサルの気持ちがようわかるんですよ。まさにその嫌味なキャラは俺自身ですわ」と若いころに心情を述べている[22]。
さらに、いわしげの回顧によると、1980年代のはるきは多忙に極めており、担当編集者が柔和な顔で怒りを堪えるほど〆切に迫っている殺伐とした状態であったという。同時にいわしげは、はるきの意向で『ガチャバイ』の作業には携わっていない[23]。
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