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テンプレート:Infobox Musician羽田 健太郎 (はねだ けんたろう、1949年1月12日 - 2007年6月2日) は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト。通称、ハネケン。劇伴音楽を多く手がけた。2000年4月から2007年5月までテレビ朝日の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めた。
1949年東京都生まれのピアニスト、編曲家、作曲家。東京音楽大学客員教授。桐朋学園高等部から桐朋学園大学音楽学部ピアノ学科卒業。有賀和子、井口基成、柴沼尚子など、業界では特にスパルタで知られる高名な教育者たちに師事。長女は声楽家の羽田紋子。
1歳の時に銀行員の父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と祖父によって育てられた。4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。これが羽田と音楽との出会いであった。
小学校2年(北区立王子小学校)の時にピアノに転向、田鎖直江に師事。7ヶ月後に安藤たかに師事。安藤には3年間師事した。その後志田芳久に師事する。志田は当時北区立王子小学校の音楽教師であった。中学2年の進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにし志田の知り合いの有賀和子(当時桐朋学園助教授)を紹介してもらう。
田鎖、安藤、志田はいわゆる「町のピアノ教師」であり本格的な専門教育者ではない。羽田は中学2年生まで本格的な専門教育を受けていなかった。
有賀との初めてのレッスンで羽田はチェルニー50番を弾いた。それを聴いた有賀は「(桐朋高校受験は)間に合うかしらね。あと一年半で……」と一言感想を漏らした。当時練習していたチェルニー50番をチェルニー30番へと戻され、基礎から学びなおすことになった。当時の羽田には相当なカルチャーショックであった。高校受験の自由曲はシューマンのノヴェレッテでビリから2番目の成績で合格した。
高校2年生の時に羽田の母親がグランドピアノを購入し、防音対策のために家を改築する。羽田は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。これは有名なピアニストの伝記を羽田が読んでヒントを得たもので、『徹子の部屋』で語ったところによれば、「片手ずつゆっくりさらい、完全に出来るようになったら片手ずつ速くさらい、それが出来たら今度は両手でゆっくりさらい、それが完全に出来るようになったら、最後に両手で速くさらう」という地道なものであったが、これを実際に実行すると長い練習時間を必要とする。
大学に進学した1967年、第36回日本音楽コンクールを受けるが第1次予選で落選。その後大学には内緒でホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。これが後に受けるコンクールでの舞台度胸や実演の経験として功を奏した。
大学4年の時に第39回日本音楽コンクールピアノ部門第3位入賞。入賞曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。大学のピアノ科を首席で卒業、卒業試験では最高点を取り桐朋音楽賞を受賞した。
桐朋音楽大学卒業後、師匠の有賀に今後の進路を問いただされると羽田は軽音楽の道に進むと意思表示した。有賀からは「私の弟子だったということは決してプロフィールには書かないで」と事実上の破門を言い渡された。羽田はクラシックピアニストの現状が非常に厳しい事を認識していたし、苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いもあった。また在学中からアルバイトで弾いていた時点で軽音楽が流行していてそこに活路を見いだしていた。
在学中に「ある愛の詩」のピアニストの代役を頼まれそこで実力を高く評価されていたが、当時は学生であったため活動は自粛し、大学卒業後に正式にスタジオミュージシャンとして活躍することになった。
スタジオ・ミュージシャンとしては、クラシック出身で指が確実に高いレベルでよく動く人材が当時は乏しかったため、非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと録音をこなしていった(そしてこなせるだけの高い技術があった)。著書によれば、当時のサラリーマンの月給を2日で稼げるほど売れっ子だった。羽田の回想によれば、金は要らないから休ませて欲しいと思うほど、当時は仕事が次から次へと回ってきた。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったことは幸運であった。
1978年から1980年頃はシンガーソングライター渡辺真知子のバックバンドのリーダーを務めていたことがある。ちなみに彼女の初期のアルバムでピアノを弾いているのは羽田その人である。
当時収録されたレコードの謳い文句には、羽田はクラシック出身であるがポピュラーにも強い、というプロフィールが書かれており、現在のプロフィール(桐朋音楽大学出身で、クラシックに造詣が非常に深い)とは正反対の売り方をしており、若き日の羽田は現在とは違う営業方針をとっていた。それは上記のスタジオ・ミュージシャンとしての活躍のためだったと推察される。
1982年5月のNHK交響楽団定期公演で羽田はリヒャルト・シュトラウスのピアノと管弦楽の協奏曲『ブルレスケ』のソリストを依頼された。そのときに有賀和子へレッスンを申し込んで師弟関係を戻している。羽田の言葉によれば、楽譜を渡された時点で弾けるだろう、と高をくくっていたが、N響との公式リハーサルの時にまだ暗譜が出来ておらず、楽譜を見ながらリハーサルをしていた、それくらいに切羽詰まったものだった。
30代後半にはN響とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストも務めている。
この頃の羽田はクラシックの仕事も徐々に増やし、また軽音楽奏者としても幅広く活躍するようになっていった。
40代にはいってからは服部克久の『ピアノでポップスを』(NHK教育)をはじめとする音楽バラエティ番組に出演を増やすようになり、スムーズにポピュラー音楽奏者へとシフトしていった。『タモリの音楽は世界だ!』ではかつらを被り、ベートーヴェンの役を演じてピアノを弾いたり、クラシック分野からの出題を担当するなど、クラシックとポップスの橋渡し的役目を果たした。またCDの製作にも意欲的で、『フックト・オン・シリーズ』を手がけ、クラシックを気楽に聴けるように編曲・録音にも力を入れた。
『ニュースステーション』では富士山山頂からの中継や、自然豊かな森林、風情のある寺、夜桜中継など映像と音楽を調和させる演出の中で、情緒あるポピュラーピアノ曲(自作)の演奏を行うようになり、視聴率の高いこの番組で一般人にも知られるところとなった。
この頃から純粋なピアノ演奏以外のトークを交えた仕事も引き受けるようになる。『おもいッきりテレビ』でコメンテーターとしての出演、舞台「アーニーパイル」「ムーンリット・クラブ」(ピアニスト役、実際舞台でピアノを弾く)も出演した。この頃の羽田はテレビへの露出を多くし、知名度を上げることでさらに仕事が増えるというパターンをとっており、結果としてコンサートなどの演奏機会を増やすことに成功した。またMXテレビ(現TOKYO MX)初のテレビショッピング番組(自社製作)「眺めのいい暮らし」で司会を務め、自らピアノ演奏を披露していた。
1998年12月からは慢性的な飲酒がたたって体調を崩し、『ニュースステーション』を一時降板した。療養後復帰。『新 ハネケンの音楽は愉快だ』によれば、朝、昼、晩と飲酒を繰り返し、1998年12月3日の朝、顔色が悪いのを長女に指摘され病院を受診。その病院で倒れて一週間意識不明となる。ICUで1週間過ごし血液透析を2回繰り返してなんとか一命を取り留めた。その後は飲酒は一切やめたが、体調不良のため不定期にコンサートのキャンセルなどを余儀なくされていた。療養後は色白だった顔がやや色黒に見えている。
療養後の演奏活動としてはクラシック音楽への原点回帰を思わせ、純粋なクラシック演奏会を自主的に開く。ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲などを積極的に取り上げた。
音楽家生活35周年コンサートでは、長年の飲酒による肝障害によりコンサート直前に入院を余儀なくされたが、病室に電子ピアノを持ち込んで練習を重ね(ガーシュウィンのピアノ協奏曲へ調)、コンサート当日に高熱を押して見事コンサートを最後まで持ちこたえた。
以前はピアノ独奏・前田憲男、佐藤允彦との共演によるトリプルピアノ主体の演奏会を開いていたが、近年は指揮者へと傾向を変えている。ピアノ演奏は多少するが、難度の低い曲にとどまっている(雨だれの前奏曲やノクターン第2番など)。英雄ポロネーズなどの難度の高い曲を取り上げるときもある(羽田の自主公演では無い)。最近は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番やラヴェルのピアノ協奏曲など、羽田個人が演奏しておきたい曲(必ずしも有名曲とは限らない)を積極的に企画し、オーケストラと交渉して演奏会を実現させている。
晩年は、ソロコンサートと同時にジョイントコンサート、指揮者としての出演が多く、また長女・羽田紋子(声楽家)とのジョイントコンサートも多かった。
プロ野球東京ヤクルトスワローズのファンであり、何度か神宮球場で『東京音頭』を演奏したことがある。また『題名のない音楽会21』では、フルオーケストラをバックに『東京音頭』を薄緑色のビニール傘をさして乱舞するという熱烈ぶりを見せた。
2007年4月、体調悪化に伴い入院。同時に『題名のない音楽会21』への出演を見合わせ、休養に専念するようになる。
2007年6月2日、午後11時53分、肝細胞癌のため、東京都新宿区の病院で死去。テンプレート:享年。法名は妙音院釋穏健。菩提寺は港区麻布山善福寺。生前に自分の手形を彫刻したお墓を建てており、そこに安らかに眠っている。
王子小学校では歌手小川知子と6年間同級生であり高学年になってからは毎学年1学期の学級委員は羽田と小川であり、二人とも人望のある優等生であったと自ら語っていた。また小川知子は自伝で『私の初恋の人は羽田健太郎君。』と明言している。
この他にも多くのアーティストのレコーディングに参加している。
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