二式単座戦闘機 鍾馗

ページ名:二式単座戦闘機 鍾馗

登録日:2014/06/08 (日) 01:07:00
更新日:2023/12/18 Mon 13:33:23NEW!
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大日本帝国 航空機 戦闘機 迎撃機 陸軍 鍾馗 ベテラン「軽戦こそ至高(キリッ」→「鍾馗を乗りこなしてこそ陸鷲(ドヤァ」 二式単座戦闘機 二式戦闘機



二式単座戦闘機は、大日本帝国陸軍で運用された戦闘機である。
愛称は鍾馗で、連合軍のコードネームは「Tojo(トージョー、東條英機陸軍大将から)」。
帝国陸軍が開発した初の重単座戦闘機で、その特性から自国軍人よりも敵国軍人に好評な機体だった。
まあ、最終的には本機のパイロットであることがステータスになったのだが
項目名は二式複座戦闘機(屠龍)との区別のために戦後のマニア間で広まったもので、制式名称は「二式戦闘機」。



性能諸元(二型丙)

試作名称:キ44-Ⅱ丙
全幅:9.45m
全長:8.85m
全高:3.25m
翼面積:15m2
翼面荷重:184.67 kg/m2
自重:2,109kg
正規全備重量:2,764kg
発動機:ハ109(離昇1,500馬力)1基
最高速度:605km/h(高度5,200m)
上昇力:5,000mまで4分26秒
航続距離:1,600km(落下タンク有)
武装:胴体12.7mm機関砲2門、翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
爆装:30kg~100kg爆弾2発または250kg爆弾1発



開発経緯

中島が開発した九七式戦闘機は極めて優れた軽戦闘機だったが、発展性という面では片手落ちだった。
また、欧米で研究の進みつつある重装甲・重武装な高速戦闘機の必要性を認識した陸軍参謀本部は、
1937-38年の兵器研究方針で以下の3機種の研究開発を模索する。
すなわち、双発護衛戦闘機論に基く長距離複座戦闘機(後の屠龍)、重火力で速度重視の重単座戦闘機、
重単座戦闘機の保険としてパワー不足を格闘戦能力で補う軽単座戦闘機である。


この方針に基き、中島・川崎・三菱の3社に軽戦と重戦の研究開発指示が出されることとなり、これに対する中島の回答が後のと本機だった。
が、隼設計チームの青木邦雄曰く、
「隼も重戦を目指してはいたんだけど、なまじ経験がなかったものだから。結果的に軽戦になっちゃったんだよなぁ」
ということだったらしい。
試作指示自体は早かったものの、重戦闘機の開発経験のなさから開発は難航。
基本仕様をまとめるだけでも手間取る始末で、スケジュールは後回しにされた。
青木曰く、鍾馗は隼不採用時の保険で、研究機としての側面が強かったという。


中島ではとりあえずの目標としてBf109を設定し、20mm機関砲を搭載する高速戦闘機として開発を開始する。
ちなみに20mm機関砲は生産の目処が立たなかったのでポシャった。
そのため初期仕様は翼内に12.7mm2門、機首に7.7mm2門。
重戦としてもお寒いばかりの低火力であり、重装備()という悲しみを背負ってしまう。
一方エンジンは当時最高の出力を有していた爆撃機用のハ41を使用し、機首以降の胴体をゴリゴリ絞ることで空気抵抗を軽減。
短めの主翼と合わせ、高速かつ一撃離脱に長けた機体として仕上がっている。
隼同様に防弾鋼板もちゃんと装備されており、少なくとも12.7mmには十分耐えられるとされた。


試作機の初飛行は40年の10月だが、飛行試験では火力と機動性こそ優れるものの、離着陸性能や旋回性の悪さ(帝国軍基準)が指摘される。
また、エンジンの稼働安定性も問題とされた。
このため、軽戦崇拝・格闘戦至上主義者からの評判は最悪と言ってもいいレベルだった。
と言うかこいつらのせいで帝国陸軍の戦闘機開発は思っくそ立ち遅れた。
開発中にノモンハンの戦訓で露呈した軽戦の限界や重戦闘機の必要性を痛感*1していた上層部にとっては、
現場の言い分なんぞ知るか、くらいは言いたかったと思われる。
というか、言っても後世の人間は否定できんよ、これ………


もっとも、上記現場の一部からの不評に関わらず、キ84(四式戦闘機)に至るまで軽単座戦闘機/重単座戦闘機という種別に基づく戦闘機開発は継続して行われており、本機への不評が陸軍における高速重武装戦闘機の開発を遅らせたという認識は、史実の評価としては誤りである。
また、貧弱な武装という評価に関しても、本機が曲がりなりにも発動機周りの不調を克服して実戦に投入されたのが敵味方とも戦闘機の重武装化が進んだ昭和18(1943)年夏以降であることが主因であり、計画当時の基準からすれば12.7㎜機関砲4門という武装は決して低火力と蔑まれるものではない。


歩み出しからして前途多難な鍾馗だったが、輸入したBf109E-7との模擬戦では総合性能で圧勝。
欧米の新鋭重戦に対して十二分に対抗可能ということが判明する。
来日したテストパイロット曰く、
「日本のパイロット全員がこいつを乗りこなせたら、日本空軍は世界最強にもなれるだろう」だそうで、
欧米基準で見ればかなり高性能だったようだ。
もっとも当時は既に改設計で大幅な性能向上を果たしたF型が実戦投入されており、
ライバルであるイギリスの名機スピットファイアもE型より高性能なMk.Vに移行していたというオチが付くが。
上層部のトラウマと模擬戦結果が噛み合った結果、運用試験を経て42年2月に制式採用された。



機体の特徴

国立国会図書館の電子資料で本機の操縦マニュアルが公開されているので、「機種転換したばかりの新人パイロット」が最前線で使いこなせる範囲内の性能や特性は此方を参照されるとよく分かる。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8318149)


「小型軽量の機体に大馬力エンジンを搭載し、相応の防御力と巡航性能も備える」と言うコンセプト。
速度最優先で設計されており、空気抵抗を抑えるためにエンジンブロック以降の胴体は極力絞り込まれている。
この点では大出力かつ太い胴体の雷電とは対照的。
外見上の最大の特徴は水平尾翼のかなり後方に据え付けられた垂直尾翼。
これは糸川英夫の構想によるもので、ブランコに乗る2人の子供を見て思いついたという。
縦横の運動を互いに連動させず、各々を独立させた操縦系にすることで、
機動から射撃体勢に移行する際の安定性を高めることに成功した。
このため射撃安定性と命中精度は上々で、この構造は疾風にも受け継がれた。
一方で高さの低い垂直尾翼は離着陸時安定性低下を招き、
「暴れ馬」だの「殺人機」だの「若いのを乗せられん」だのと散々だったらしい。


一撃離脱と急上昇・急降下に耐えるべく主翼は頑強に設計され、後には40mm砲を搭載可能なまでの強度を示した。
重戦の明確なカテゴライズがなかったので急降下制限速度は隼と同レベル(650km/h)に設定されているが*2
実際には850km/h以上で引き起こしても大丈夫だったという。
また、ある程度格闘戦にも耐えられるよう、隼と同型の蝶形フラップが実装されている。



戦歴

増加試作機と一型を受領した独立飛行47中隊によって初めて実戦投入される。
太平洋戦争緒戦の南方作戦に従軍したが、航続距離の短さ(帝国陸軍基準)から活躍の機会には恵まれなかった。
この時本機に搭乗していた黒江保彦大尉は戦後に
「小気味よい出足、素晴らしい上昇力、軽快な舵の効きなど、私個人にとっては非常に感動的な飛行機でした」
と語っている。
実際、低い低いとバカにされた運動性は帝国軍基準であり、欧米諸国の機体からすれば高速高旋回の油断ならぬ強敵だったわけだ。


同中隊は42年のドゥーリットル空襲を機に本土へ呼び戻される。
九七戦では米軍爆撃機を邀撃し得ないとされ、上昇性と速力に優れる本機を迎撃機に充てるとの判断だった。
同年12月にはより高出力で稼働性も改善されたハ109にエンジンが換装され、二型の型式を授かり主力生産仕様となる。
これ以降は主に本土防空や中国戦線に投入されることとなった。


44年以降B-29の来襲が始まると、外地に展開していた部隊も呼び戻され、本土防空に駆り出される。
帝国軍機の性で高々度性能に劣るため、必ずしも対等であったとは言いがたいが、
数少ないB-29に抗しうる機体として終戦まで絶望的な本土防空戦に従事し続けた。
エンジンの信頼性の低さや疾風の実用化に目処が立ったことなどを受けて、44年末に生産終了した。


敵国での評価

TAIC(米海軍航空情報部)による鹵獲機の試験報告書によると、
「急降下性能と上昇力が傑出しており、インターセプターとして最も適切である」
という評価が下されている。
TAICではほかにも紫電一一型や雷電二一型、飛燕、疾風の性能調査を行っているが、
これらの中で最も迎撃機として優れている、という結論であったようだ。
また、実際に交戦したパイロットたちにとっても、
一撃離脱戦で互角に渡り合いながら旋回戦でグイグイ食らいついてくる本機はなかなか手強いものだったという。


自国での評価

当初はボロクソに酷評されていたが、実戦運用の結果運動性にもさして問題はなく、
火力と機動性に惚れ込んだエースや一撃離脱戦法に理解のあるベテランが乗機に選んでいった。
結果、43年次には「鍾馗を乗りこなしてこそ陸鷲」と搭乗そのものがステータスと化す。
一方で整備側からは「エンジンの信頼性オワコンなんですがそれは……」とあまり評判はよろしくなかったらしい。
太平洋戦争初期から本機を運用していた「かわせみ部隊」こと第47戦隊の整備士官の刈谷正意氏によると、「九七式戦闘機のエンジンと比べると細々手のかかるエンジンだったが、本体の故障は少なく、こまめにに整備すればよく働いた」とエンジンの基本設計と機体とのマッチングには問題は無いとしつつも、基礎部品の研究・品質管理でアメリカに劣っていた点に関しては苦言を呈している。
まあ、どこぞのガラスハートよりは数倍マシではあったと思うが


また、「若手は乗せられない」と言われていたが、むしろ九七戦や隼に慣れたベテランよりも、
学徒動員兵や若手のほうが柔軟に対応できていたという。
高速重火力という特性はむしろ、気概に満ちた若手にこそ支持されたとか。
コツを掴めば操縦性は悪くない・・・ものの、本機の操縦特性に馴染んだパイロットが二式複戦での訓練中に本機得意の急加速・急降下突撃戦法を行った結果、機体を壊して命辛々不時着する羽目になった・・・と馴染んだら馴染んだで、他の機体の操縦に支障をきたした例も報告されている。
ちなみに、一般には隼の後継機とされる疾風だが、中島曰く
「あれ、隼じゃなくて鍾馗の正統後継機だから。そこに隼の要素をぶっ込んだだけなんだけどね」だそうで。
皮肉にも、実戦投入を機に評価が反転した機体である。


大戦末期に第47戦隊に配属されて主に四式戦に搭乗した一楽節雄氏によると、「四式戦は安定感のある素直な操縦性の飛行機だが、自分はテキパキと舵が効き、突っ込みの速い二式戦の方が戦闘機らしいと思う」と回想しており、米軍機の中でも運動性に長じたF6Fを格闘戦で圧倒する二式戦の目撃談を報告している。


糸川曰く、
「一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」。
まあ、技術者からしたら既存の技術の発展型でしかない隼より新機軸を色々試した鍾馗の方が思いいれあるよね。


バリエーション

○一型甲(キ44-Ⅰ甲)、一型乙(キ44-Ⅰ乙)
最初期生産型……というより増加試作機の実戦投入用型式番号。
エンジンの信頼性や稼働安定性に欠けるとしてエンジン換装が急務とされ、合計生産機数は40機程度。
乙では胴体の7.7mm機銃が12.7mmに換装されている。


○二型甲(キ44-Ⅱ甲)
エンジンをより高性能なハ109に交換した主力生産仕様。武装は一型甲に準ずる。


○二型乙(キ44-Ⅱ乙)
対大型爆撃機用に翼内機銃を撤去し、ロケット弾を投射する40mm機関砲を搭載可能とした重装邀撃型。
フレーム強度の限界で発射限界数は片翼わずか8発だが、当たればB-29も一撃必倒。
改善されてなおエンジン信頼性に欠ける本機の運用が継続された最大の理由。


○二型丙(キ44-Ⅱ丙)
照準器を光像式に交換したり、細々とした面を改善した最終生産型。武装は一型乙に準ずる。


○三型(キ44-Ⅲ)
推力式単排気管や大出力の新世代エンジンを搭載する第二次性能向上型。
試作機完成時点で疾風の開発が進んでおり、計画のみに終わった。



創作における二式戦

ウォーシミュレーションをプレイしてね
地味にIl-Ⅱには未参戦。


War Thunderに7.7ミリ×2と12.7ミリの一型・12.7ミリ4挺の二型丙・40ミリ砲搭載型の二型乙が登場している。




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  • 東條英機由来のコードネーム「Tojo」は、大型エンジン搭載による丸っこいカウルをハゲ頭に見立ててのものなのかな。 -- 名無しさん (2020-01-30 17:14:09)
  • War Thunderで使用したけど超ぶっ壊れ機体()!速い・曲がる・火力有りの -- 名無しさん (2022-11-18 13:50:13)
  • ↑やべーやつ(二型丙)。格上相手にも余裕で通用するのはおかしいよ! -- 名無しさん (2022-11-18 13:51:41)

#comment

*1 しかも、航空部隊の前途が危ぶまれるほどのベテラン損耗率が深刻だった。参謀本部のメンバーが卒倒しててもおかしくないレベル
*2 正確には陸軍のマニュアルでは「650km/hでの急降下からの機首引き起こしには1500m程度の高度の余裕が必要だから、高度2000m前後ではこの程度の急降下速度に抑えなければ危ない」と、機体の限界と言うよりも引き起こし操作時の安全性に関して注意喚起している。

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