物語の導入

ページ名:物語の導入

裂谷の防衛線

東西にそびえる山々にぽっかりと空いた谷の縁に、少年は立っていた。冷たい風が青く歪んだ空気を運び、足元の岩は低く唸るように震える。満月の夜、魔素の波動がピークを迎え、裂谷の底から這い上がる魔物の群れが人間領を呑み込もうとしていた。防衛線に集まった兵士たちのざわめきと、騎士の怒号が耳をつんざく。

「構えろ!下がるな、生き残りたいなら戦え!」
部隊を指揮する騎士の声は、金属が擦れるような鋭さで響いた。騎士の鎧には赤い剣と炎の紋章が刻まれ、王国の誇りを背負っているはずだったが、その顔は汗と泥にまみれ、疲弊が隠せていない。

少年の周りでは、槍を握る若者たちが震えていた。誰かの歯がカタカタと鳴り、別の誰かが祈りの言葉を呟く。押し寄せる魔物の音——爪が岩を削り、喉から漏れる唸り声、群れが地を叩く重低音——が近づくたび、彼らの顔から血の気が引いていく。少年もまた、握った短剣が汗で滑りそうになるのを必死に抑えていた。目の前には、裂谷から這い上がる角狼の群れ。青白い魔素をまとったその獣たちは、牙を剥き出しにしながら防衛線に迫っていた。

何もかもが彼の精神を削り取っていく。初めての戦場。家族も故郷も失い、流れ着いたこの裂谷で、ただ生き延びるために剣を手にさせられた少年にとって、この光景は悪夢そのものだった。息が詰まり、心臓が喉を締め上げる。もう耐えられない——そう思った瞬間、隣に立つ中年の男性に目をやった。

「なぁ、俺たち生きて帰れんのかな……?」
少年の声は震え、叫びにも似ていた。隣の男は、ぼろぼろの革鎧に身を包み、片手に錆びた斧を握っていた。無精ひげに覆われた顔は無表情で、口数は少ない。だが、少年の必死な視線に気づくと、ゆっくりと口を開いた。

「初陣の生存率は五割だ。」
男の声は低く、戦場の喧騒をかき消すほどではないが、奇妙な重みがあった。

少年の目が見開く。5割、半分。言葉が頭をぐるぐると回り、足が一瞬すくんだ。魔物の咆哮が耳に突き刺さり、騎士の怒号が背を押すが、彼の身体は動かない。男はそんな少年を一瞥し、淡々と続けた。

「震えてても構わんが、剣だけは手放すなよ。」

その瞬間、角狼の一匹が防衛線を飛び越え、少年のすぐ横にいた若者の喉を切り裂いた。血が飛び散り、叫びが途切れる。少年の視界が揺れ、心が折れそうになった時、男の斧が唸りを上げ、魔物の首を切り落とした。青い血が地面に広がり、男は無言で次の敵を見据える。

少年は息を呑み、震える手で短剣を握り直した。生きるか死ぬか。彼の命運は、この裂谷の夜に尽き果てようとしていた。

とある地方神官の日常

裂谷の前線基地の外れ、煤けたスラム街の一角に、彼女は立っていた。目の前には、孤児院と呼ぶにはあまりに粗末な小屋が広がっている。木の板と布で継ぎ接ぎされた壁、泥だらけの地面に響く子供たちの笑い声。彼女の手には、僅かな干し肉と硬くなったパンを入れた籠が握られていた。孤児の一人が駆け寄り、汚れた手で彼女の灰色のローブを引っ張る。

「お姉ちゃん、また戦いに行くの?」
幼い声に、彼女は目を細めた。言葉少なく頷き、籠をそっと手渡す。子供たちは歓声を上げてそれを取り合い、彼女はその姿を静かに見つめた。かつて、中央神官としてエステラードの聖堂に立っていた頃——金糸のローブに身を包み、夢と希望に満ちた祈りを民に届けていたあの頃とは、何もかもが違う。

スラム街の向こうには、裂谷から漂う青い霧が薄く立ち込めていた。崩れた石壁の間を縫うように暮らす人々、魔素にやせた土地にしがみつくように立つ粗末なテント。騎士団の監視塔が遠くに見え、その下では衛兵が物資の少ない商人と口論を繰り広げている。あの頃、彼女は教団の光の下で全てを救えると信じていた。だが、今、彼女の目の前に広がるのは、信仰だけでは埋められない現実だった。

彼女は背に携えたロングソードの重みを感じながら、ゆっくりと歩き出す。足元の泥が靴にまとわりつき、風が彼女の灰色の髪を揺らす。最前線へ向かう道だ。そこでは、魔物の咆哮と血の臭いが待っている。彼女の役割は戦うこと、負傷者を癒すこと、そして一つでも多くの命を救うこと。それが、かつての夢を失った彼女に今できる最善だと、そう信じながら。

戦場が近づくにつれ、空気が青く歪み、地面の低いうなりが耳に届く。彼女はメイスを握り、小盾を構え、静かに息を整えた。中央神官だったあの頃の輝きは遠く、今はただ、裂谷の闇に立ち向かう一人の戦士としてそこにいる。救えない命がそこにあると知りながら。

祈りの集い

都市エステラードの裏路地、湿った石造りの地下室。男は見覚えのない部屋で目を覚ました。窓から漏れる月光が、苔むした壁に青白い線を引いている。彼の手足は太い縄で椅子に縛られ、鱗に覆われた指先がわずかに震えた。記憶は曖昧で、頭に霧がかかったようだ——最後に覚えているのは、仕事終わりの帰り道、いつもの路地裏で空を見上げていた瞬間だった。

「ここは……どこだ?助けてくれ……!」
男の声は弱々しく、掠れて部屋に消えた。額に汗が流れ、必死に縄を引っ張るが、力のない手では何もできない。彼は人を傷つけたことなど一度もない。ただ生きるため、誰にも迷惑をかけぬよう、都市の影でひっそりと息を潜めて生きてきた。それなのに何故……と混乱と恐怖が彼を飲み込み、息が荒くなるその時、後ろから静かな足音が響いた。

「目を覚ましたのね、魔族さん。」
妙齢の女性の声が、冷たくもどこか楽しげに耳に届いた。男が首を捻って振り返ると、黒いローブに赤い刺繍を施した姿が現れる。フードの下、切れ長の目が月光を宿して輝いていた。

「何だ!?俺をどうするつもりだ!?」
男が叫ぶと、彼女は小さく笑って近づいた。彼女の手には細い短剣が握られ、刃に刻まれた聖印が月光に映える。部屋の空気は重く、青い魔素の気配が微かに漂っていた。

「あなたを魔族だと見抜くのは簡単だった。私は女神の意志を執行する者。この汚れた世界から穢れを払うのが、私の喜びであり務め。」
彼女の声は穏やかで、まるで聖歌を口ずさむような優しさがあった。だが、その瞳には狂気じみた確信が宿っている。

男の顔が恐怖で歪む。彼は必死に言葉を絞り出した。
「待ってくれ!俺は魔族かもしれないけど、誰も傷つけてない!人と同じように、ただ静かに暮らしてきただけだ……見逃してくれ、頼む!」
彼の声は震え、無垢な瞳が涙で潤んだ。争いを避け、人目に触れぬよう生きてきた彼にとって、この状況は理解を超えていた。

彼女は一瞬立ち止まり、男の顔をじっと見つめる。そして、ゆっくりと彼に近づき、切れ長の目を至近距離まで寄せる。彼女の息が男の頬に触れ、冷たい微笑が浮かんだ。

「魔族であること自体が罪なのよ。あなたの存在が、この世界を穢す。女神はそれを許さない。」
その言葉は静かで、まるで愛する者に語りかけるような優しさがあった。だが、そこには一切の慈悲はなく、彼女の手が動き、短剣が男の首筋に軽く触れる。彼女の唇が微かに動く——「秘匿の呪縛」の祈りが低く詠唱され、淡い光が彼を包んだ。

男の身体が硬直し、瞳から光が消えていく。彼の最後の息が小さく漏れ、意識が永遠の眠りへと落ちていく。

「嗚呼……女神よ、今日も穢れを祓いました。あなたの光が永遠に輝きますように。」
彼女の声は穏やかで、満足げだった。そしてただ月光だけが、静寂に沈んだ部屋に残された。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。

コメント

返信元返信をやめる

※ 悪質なユーザーの書き込みは制限します。

最新を表示する

NG表示方式

NGID一覧