人間という生物の考察

ページ名:人間という敵を知れば危うからず

ここでは人間という生き物について考察する。

なぜVtuberを応援するにあたり人間への理解が必要なのかというと、Vtuberのみならずファンもアンチも中身は人間であり、人間の思考にのっとった行動をするからである。

人間という生き物を知らなければ、推しを応援することもできないし、知らないうちに潰してしまうこともありうる。

自分の推しのことを考える前に、人間はどのような行動をするか理解しておかねばならない。

 

人間の行動法則

まず、最初に知っておかねばならないのは、「人間は自分が得をすることしか実行しない」ということである。

他人から見て、何の得のないようなことでも、本人自身は得をしているということを念頭に置かねばならない。

わかりやすいのはボランティアだろう。無償での奉仕をする代わりに、イメージアップを狙っているのである。

高いワクチンを無償で提供するのも、貴重な人材が死ぬよりはマシという考えからである。

国としても副反応で酷いことになる人がいても大半の国民が生きてさえすれば税金が取れるから止める理由がない。

もっともこれは人材の価値ではなく人間の数を優先した考えではあるが。

これは長期的な得を考えての行動だが、大抵の人間は短期的に得したいと考えて行動してしまう。

タバコのように体に害があるものでも、気持ちがいいという理由だけで吸う。他人から見てメリットよりデメリットが多いものでも、人間は一瞬の快楽を求めて手を出してしまうのだ。

加えて、自分が得をすれば他人にいくら不利益があっても気にしない人間が多いことも事実である。

電子タバコは喫煙マナーを良くすることはできなかったし、歩きタバコを食い止めることすらできなかった。

生放送や掲示板などでコメントが荒れるのも手っ取り早く勝ちたい認められたいという人間の欲望によるものである。

他人がどう受け取るかはどうでもよく、ただ自分が勝ったと思いこむまで書き込み続けるのである。「書き込みをやめた方が負け」という謎ルールが彼らにはあるらしい。

わかりにくいのはファッションである。馬鹿みたいな格好で外を歩いている人がいても、本人はそれがいいと思っているのだから否定してはいけない。

世間的に認められていないものよりも、個人的に認められないものほど批判されやすいのである。

人間は常に自分中心に思考を展開する。

ブラック企業に勤めている人だって、変な使命感を持っているから働くことをやめないのだ。

働くだけ損だと思っているなら命を削ってまで働こうなどとは思わない。ブラック企業に反対する人が多くなったのは、働きたくない楽をしたいという人間が増えているからである。

そもそも命がけで働く人は子孫を残せる可能性が低く、子供もまた親の真似をして早死するので当たり前なのだ。

忍者が危険な任務に行くことを考慮して結婚や出産が早かったのは有名だが、現代ではそんなことはできない。

自由意志に任せれば人間は必ず堕落する。

だから、ファンにしろアンチにしろ何か得をすることがあるから行動しているのである。

その行動によってどんな得をするか考えれば、心の底にある願望が見えてくる。

「恋愛感情から推している」のか「性欲から推している」のか「心配から推している」のか「自慢したいから推している」のか「争いたいから推している」のか、見極めていかないといけない。

ファンは自分が得をする流れに乗っかっていこうとするので、一度変な方向に推し方が向かえば、Vtuberは引退に向けて一直線である。

その辺りをよく見ているアンチはファンの誘導が上手い。

ファンが求めている行動を代わりにすることで、ファンを同調させてVtuberに圧をかけていく。

一時的にファンを喜ばせることになるが、ぬか喜びしたファンを待っているのは絶望である。

得をするのであれば、アンチだってVtuberを推すこともあるのだ。

フェイクニュースが当たり前になっている現状で、重要なのは内容が正しいかどうかではなく、その情報が拡散されることで誰が得をするかということである。

コメント一つにしても誰が何を期待して書き込んだかどうか考えれば嘘かどうかのみならず誰が何をしたいのか知ることが出来る。

誰かが得しなければVtuberが職業になることもなかったし、ここまで大きな存在になることもなかったのである。

何も知らずにファンだけやっていては悲しい結果になるのは目に見えている。

もうわかっただろうが、私は自分の得ではなくせめてもの慈悲として私の考えを公開している。

後々何か大きな事件が起きた後に文句を言われたら困るのだ。

ファンでも何でもない私がこうして態々ヒントをあげているのにも関わらず、何もしなかったファンが悪いということになるので渋々貴重な時間を浪費して書いてあげているのである。

なんとも人間的な行動ではないか。私は悪魔ではない。

人間の一番の欠陥は、得をすることしかしない上に、自分が得をするようにしか考えない傾向にあることである。

きっと誰も私の言葉を信じないだろう。

そして、世界は私の予想を裏切るだろう。

だから私は損をしないのだ。

 

いかにして「正義」という言葉が生まれたか

「正義」の反対は「悪」ではない。

これについて説明できる人がどのくらい存在するのだろうか。

「正義の反対は別の正義である」とドヤ顔で説明する人はいると思うが、それはドーナツの穴のようなものである。

そもそも「正義」とは、その人の持つ価値観の押し付けであるため、反対というものは存在しない。

人の持つ価値観について、正否を問うというのはおかしい話である。

故に「悪」ではない。

また、価値観は人により真逆になることはなっても、正確に反対であるとは言えない。

一致するところもあれば一致しないものもある。

自分の中に存在する狭い狭い世間を見て、大部分に一致する価値観を人間は「正義」と呼んでいる。

言ってしまえば「免罪符」である。

なんとか自分の都合の良い世界を作りたい。わがままを通したい。

例え許されないことだとしても、それを認めてもらうにはどうすればいいか。

何か理由をつけて免罪符を手にすればいいのである。

罪を自覚する人間ほど免罪符を求める。すなわち、正義を振りかざす。

ツイッターを眺めていればわかるだろう。

何か事件が起きれば「正義」を振りかざす人が、いつでも大量に湧いて出る。

それだけ立派な人がいながら何故世界は平和にならないのか。

それは「正義」を振りかざす人に限って「何もしない」からである。

道端にゴミが落ちていて、一億人の人が「ゴミを捨てるな!」と叫んでもゴミはなくならない。

誰も何も言わなくても、ゴミを拾う人がいれば、ゴミはなくなる。

そもそもゴミを捨てた人は、一億人の人が「ゴミを捨てるな!」と叫んでもゴミを捨て続ける。

なぜなら、ゴミを捨てた行為に対して人間が怒り狂うさまを見て喜んでいるからである。

結局、ゴミを捨てるのをやめるのは、ゴミを捨てたことに対して怒り狂う人間にブチのめされて再起不能になったときである。

人間の平和は我慢によって保証される。

人間が活動停止できるのは死んだときのみであり、わかりあったうえで活動を途中で止めることは、永遠にできない。

だから「正義」を見せつけて自分がいい人だと思わせようとするのである。

悪は免罪符を必要としない。許してもらおうと考えたりしない。

だから「正義」を掲げて潰すしかないのだ。

そのうえ「悪」かどうかは人間が勝手に決めるのだから、正義と正義がぶつかることもあるだろう。

平和な世界に「正義」という言葉は存在しない。

「正義」が市民権を得ている限り、人間は幸せにならないのである。

 

都合のいいように解釈しないと気がすまない人間

もし、この文書に真実と嘘があると言ったら、すべての人間は自分に都合のいいことが真実だと判断するだろう。

あなたは、りんごは「赤色」か「黄色」か判断することが出来るだろうか。

「赤色」と答えた人は、赤いりんごをよく見ているのだろう。

人間は自分の経験から物事を判断しているのである。

それを世間一般的に正しいということであたり前のことだと思っている。

しかしながら、この判断は「自分に都合がいい」ということが前提にある。

よくあるのが金メダルによる民族の優位性の主張である。

オリンピックに出ることが出来る人間はごく一部である。

にもかかわらず、たった一人の手にした金メダルで、さも自分たちがすごいように言い始めるのは理解しがたい光景である。

人間とロボットの優位性を主張するときも謎の理論が発生している。

「ロボットは決められたことしかできないが、人間は自分で色々なことを考えることが出来るから優れている」ということである。

ロボットが決められたことしかできないのは、人間がそうプログラムしたからである。

演算能力で比較すれば人間はロボットにかなわないのだが、それは当たり前だとしてなかったことになっている。

人間にとって都合が悪いからである。

ほとんどの人間は、教えられたことしかできない。

人間が重力があることを知っているのは、重力があることを教えてもらったからである。

教えられていないことは、動物の本能に従って行動するしかない。

狼に育てられた人間は、人間にならなかった事は知っているだろう。

そういう意味で「愛」は存在しない。

「性欲」や「子孫を残す本能」を都合よく言い換えているだけである。

本当に人間に愛が存在するなら、世界はヤンデレで溢れかえっているだろう。

現実は、どうあがいても愛しあった二人のゴールは決まっているのである。

そのテンプレートに外れた行為を「愛」と呼ぶ人はいない。

そのような視点で考えれば、ファンは決して素晴らしい存在ではない。

優れたファンは一握りである。

100万人もファンがいてもVtuberを満足させられるのはごく一部。

その他大勢は勝ち組のファンを名乗って好き勝手しているだけである。

昔はそうではなかったかもしれない。

だが、今となっては、ファンはVtuberを支えるためにいる存在というのは、間違った表現であるはずなのだ。

Vtuberとファンとの関係は、「売り手」と「お客様」のほうが近い。

人間は自分の都合のいいように白黒ハッキリつけたがる生き物である。

事件があったら犯人探しをして原因がわからないと気がすまないのだ。

原因がわからないときは嘘でも噂でも自分の都合のいいように解釈して勝手に納得してしまう。

幽霊でも呪いでもなんでもいい。

信じる情報は真実である必要はなく、自分にとって都合のいい情報こそが真実なのである。

この人間の性質は、正体を隠さなければならないVtuberと相性が悪い。

Vtuberをファンが勝手に解釈して、ファンにとって都合のいいように事実を捻じ曲げ、共通認識にしてしまっているのだ。

これではいくら正しい情報を掲げても説得などというものは出来るはずがない。

Vtuberはファンの勝手な妄想に付き合ってあげている存在だということを忘れてはならないのである。

 

流行から浮かび上がる一般的な人間像

ここまでの話を理解していれば、流行というのは大部分の人間が同意できる価値観に則ったものでなければならないことがわかるだろう。

例えば、動物を大切にする人間が多ければ、猫をいじめるのは流行しない。

弱い立場の生き物を虐待するのが当たり前の世界であれば流行するので、ツイッターや動画サイトで動物虐待の動画が溢れかえり、大勢が好き好んで見ているならばそういうことである。

ラノベの流行を見れば人間が世界に失望していく過程がわかる。

最初は日常の中で何か楽しいことが起きてほしいという人が多かった。

しかし、日常で何も楽しいことが起きないと、現実的な目線になる。

「何か優れた能力がなければ勝ち残れない」ということでチートを求めるようになった。

そうなると一番優れたチートを探す、競争の世界になっていく。

結果として、あとから与えられない生まれ持った才能で全てが決まってしまう世界になる。

だから別の世界への「転生」に憧れるようになるのである。

競争相手のいない異世界で「チート」を使って無双するのだが、だんだんと戦うことに疲れていくのである。

行き着いた先が「癒やし」である。

子供に戻ってひたすら甘えていたい。そういうことである。

だが、現実は厳しく癒やしが得られない世界である。

人間は現実とあまりにも乖離した世界は受け入れられない。

結果として「メスガキ」が受け入れられるのである。

大人に騙され続けいじめられていった結果、小さな子供にいじめられることで喜ぶ体になってしまった人が増えたのである。

これは「癒やし」を諦めたからこそ起こる現象である。

砂漠における一杯の水の価値が生意気な子供にはあるのである。

その一方で「ロリコン」は社会的に迫害される対象である。

社会全体を見れば、子供が嫌いな人間が増えたからである。

子供は自己中心的で身勝手な人間の象徴であり、余裕のない人間にとって一番受け入れがたい存在である。

人間にとって理想の子供は、自分の言うことに必ず従う都合のいい道具でいてくれる子供である。

ラノベ世界の子供は、そういったものである。

そもそもそういったものを購入する人に独身が増えて、本来の子供というものに接する機会が減ったからこそメスガキに居場所が与えられたのである。

ゲームとしては「人狼」の人気が根強い。

人狼とは、集団の中から嘘つきを探し出すゲームである。

今や嘘を嘘と見抜くことは必須スキルである。

また、相手を騙すスキルも同じく必須スキルである。

そして、信頼に足る人間と協力することも必須スキルだろう。

人狼にはすべての要素が詰まっている。

人狼に勝利することは、現代社会で勝利することと何ら変わりないと言える。

人狼好きがVtuberにのめり込むのもおかしくはないのである。

では、今の流行を見て何が言えるのか。

2021年現時点での流行は、ウマ娘である。

運要素がある上に一番じゃないと意味がない厳しいゲームではあるが、それが受け入れられているのである。

まあ、結局のところ、今の世界がそういう事になっているからである。

いくら努力しても運次第で脱落させられてしまう不条理な世の中だからウマ娘は受け入れられているのである。

努力が百パーセント結果に繋がる世界なら、ウマ娘は糞ゲーと評されていただろう。

今の人間たちには、「努力すれば報われる」という考えは受け入れられないのだ。

「努力しなくても運次第で勝てる」という世界こそが未来永劫負け組の人間たちにとって都合の良い世界なのである。

また、好きなウマ娘がたくさんいても、自分の担当以外には配慮しなくなるのも解釈が一致している。

今の人間は他人に興味を示さないし配慮もしない。

音楽を聞きながらスマホを見て歩くことは普通のことになっているのだ。

自分の通った道にいた怒っている人や悲しんでいる人、苦しんでいる人などいなかったことにしてしまう。

だからウマ娘に共感できるのである。

ところでVtuberは逆である。

より多くのVtuberと関わり一緒に前へ進んでいくことが理想の形であるが、それを支えている人は全く逆の考えを持っている。

推しのVtuberさえ幸せにできれば、それでいいのである。

その結果が今のV世界に反映されてしまっているので、ファンの一極集中とVtuberへの負担増加が発生しているのである。

幸せになれるVtuberが一握りしかいないのはそういうことなのだ。

そもそも幸せになれたVtuberなんて存在するのだろうか。

この「幸せ」についてもVtuberとファンで全く別のものを指しているので、お互いがお互いの理想と解釈が一致しないのだが。

 

騙す素質と騙される素質

なぜアイドルは男性よりも女性の方が多いのか。

それは「人に騙されやすい馬鹿な男性」と「人を騙すのが上手な賢い女性」の組み合わせが最も多く子孫を残してきているからである。

これは弱肉強食の世界ゆえ仕方がないことである。

男性相手に無双できる女性の数が多ければ状況は逆転していたに違いない。

非力な女性が生き残るには、人を騙せるほど賢くなければいけないのである。

また、選ぶなら自分がコントロールできるほどマヌケな男性でなければならない。

非力で賢い男性は敬遠されるのである。

賢い男性ほど腐敗した世の中を見て結婚から距離を置くのだから、生まれてくるのは度を超えた馬鹿ばかりである。

もちろんこれは一般的な話であり、国のトップに居るような人間は男女問わず賢いし人を騙すのが上手である。

だから男性のアイドルも存在する。

要するに、騙されやすい馬鹿を上手に騙せる能力があれば誰でもアイドルになれるのである。

そもそも、騙されやすい人は相手を見下している。

男尊女卑の社会であるため、男性はなおさら女性を見下し、まさか自分に嘘をついているはずがないと思っているのである。

だから女性に騙される男性はかなり多く、素人でも男性を騙すのはさほど難しくはない。

そもそも女性社会で嘘をつかない縛りで生活するなんてよほどのハードモードである。

カーストの上位にいたって建前は必要であり、本音ばかり垂れ流していれば嫌われて袋叩きにあうことは確定している。

アイドルでなくても大抵の女性は嘘をつかなければならない状況にあるので、素人でもプロ顔負けの演技力を持っているのである。

女性の方が嘘を付き続けることが仕事の「キャラ」Vtuberと相性がいいのは明確だろう。

だが、Vtuberには「魂」で生きているタイプも少なくない。

ここで考えるべきは、嘘が下手糞で嘘をつけない人間はどうなるかということである。

嘘がつけないとなると、「嘘をつかなくてもいいほど仲のいい人間」か「本音で語り合うことが好きな人間」と一緒になるしかない。

紅一点現象が発生するのはそういうことである。

嘘の蔓延する世界に疲れた女性にとって、嘘が下手糞な男の園は居心地がいい場所である。

特に自分の好きを嘘偽りなく主張するオタク世界は、嘘を嫌う人間にとって都合がいい。

自分の異常な本性や性癖を受け入れてもらえるという時点で一般的な幸せな生活を捨てるだけの価値があるのだ。

普通に結婚して幸せになりそうな人がオタクたちに混じっているのはそういうことなのである。

もっとも、カモが多いという理由でオタクどもを食い物にする、言わばオタサーの姫も多数存在しているのだが、いずれにしろ嘘に耐性がない世界は、全ての人間に都合がいいのである。

世界は馬鹿を求め、馬鹿を量産している。

その中で自分は賢いと思っている馬鹿が、馬鹿を囲い込んで食い物にして生きている。

優生学が正しいというのなら、そういうことなのだ。

馬鹿が増えすぎて、馬鹿の上に立つ人が馬鹿になってしまっている。

賢い人を意図的に集めていた身分制度が崩壊し、飛び抜けて賢い人間が幻の存在になってしまったのだから仕方がない。

かのヒトラーも馬鹿から賢い人間を抽出しようと試みたが、やはり失敗に終わっている。

自分の愛した国の人間すら馬鹿だらけになっていてどうにもならなかったのだ。

多数決が基本の民主主義が大きな壁であり、生き残った賢い人間を死に追い込むのに十分なほど馬鹿な意見が増えていることは明確である。

今大切にするべきは嘘をつけない人間であるが、現実は嘘をつくのが上手い人間が支持されている。

どう生きても失敗する人間が勝ち上がるには、「失敗したことをなかったことに出来る技術」が必要なのである。

こんな時代だからこそ人間はこの世に存在しない「完璧な人間」を求めている。

だから上に立つ人間ほど完璧な人間を演じることに全力を注ぐのである。

もちろん馬鹿が多いので騙すのは難しいことではないが、逆に言えば嘘の情報を流されたときに正しい情報を信じてくれない馬鹿を味方につけるということである。

Vtuberが意図しない炎上に弱く、ファンが安定しないのは氷山の一角に過ぎない。

いつまで自分の支持者を騙し続けられるかというチキンレースに参加しなければ頂点を目指せない状況になっているのが問題なのだ。

 

ありえないはずの少子化問題

少子化が問題となり随分と経つが、そもそも何が原因なのだろうか。

やはり不景気で生活が安定しない、子供を育てる余裕がない、という現実的なことが原因なのだろうか。

だが、結局の所、子供を産むに至るのは「性欲」あってのものである。

いくらお互いに愛し合っていても、性欲がなければお互いに体を求めることはないだろう。

では、性欲が人間から失われたかというとそうではない。

世の中は理性に歯止めをかけられず性犯罪を起こす人間で溢れている。

そもそも昔に比べれば美しい人間、かっこいい人間は増えているのに加え、衣装や化粧、美容に至るまで、自らの容姿にバフを掛ける手段は多種多様であり、需要に答えられるだけの供給は行われている。

そのような状況であっても少子化は進んでいるのだ。

そもそも、子供が減っていると感じることはあるのだろうか。

山奥の村で学校がなくなるという話はたまに聞くが、相変わらず都会では保育園や幼稚園が不足しているという話が続いている。

外に出れば子供に出会わない日はないし、むしろ老人と出会う回数のほうが減っているのではないだろうか。

ここで再確認しておきたいのは、少子化を感じるのは一体どこかということである。

そう。大多数が少子化を感じるのは、人材不足の時である。

「優秀な人材がいないのは、少子化が原因である。」そう考えているのだろう。

日本という国は、人材を育てるという伝統がなかった。

弟子は師匠の背中を見て育つものであり、その方法で技術継承ができないものは成長しなかった。

だから古い考えのまま長生きしている人間ほど、「子供の数」と「人材の数」を結びつけて考えてしまうのである。

今子供を産んでいる人間の大部分は、この先の見えない状況で考えもなく性行為に及んだ計画性のない馬鹿の血を受け継いでいる。

少し賢い人間は中絶や避妊で子供ができないようにしているが、それすらしない馬鹿だけが子供を増やしている。

これは産む産まないが選択できる自由な世界になったことによる。

中には未来のことを考えて子供を作った人もいるだろうが、焼け石に水である。

バイトテロという言葉が出来るほど世の中は馬鹿な子供で溢れかえってしまっている。

そもそも子供が少ないと誰が困るのか。

そう考えれば、国の上の方で税金を集めて生計を立てている人や会社が潰れないように優秀な人材を揃えたい人などに限定される。

一般の人間は道にいる子供が邪魔に感じることはあっても、道に子供がいなくて困ることはないのだ。

老後のことを考えて子供が欲しいと思う人はいるかも知れないが、自分に子供がいないことを少子化と結びつけてしまう人間は少ない。

心配しなくてもこの先馬鹿が増えれば自然と少子化問題だけは解決されるだろう。

だが、それは何十年も先の話であり、既に余命幾ばくもない人々にとっては、あまりにも長過ぎるのである。

安定した老後を保証してもらうために、一日でも早く優れた後継者にすべてを任せなければならない。

だが、後継者は「馬鹿でもできる仕事」ができない馬鹿ばかり。

これを解決するには人材不足を少子化に置き換え社会問題にするしかないのである。

また、自分を支えてくれるはずの人間は、すべからく馬鹿であることを自覚するべきである。

人材に溢れた世界であれば、子供を生む余裕などいくらでもあり、少子化に悩む必要などないのだから。

 

人は如何にして知識で他人にマウントを取るようになっていったか

人間は生きる上で必要のない無駄な知識を得ることで喜びを得られる唯一の生き物らしい。

考えてみれば不思議なことである。

世界中に生き物がたくさんいるのに対し、なぜ人間だけがそのような性質を持っているのか。

思い当たるのは人間なら誰しも受けさせられることが義務になっている教育、すなわち学習の過程である。

学習の基本は記憶することである。

記憶しないで回答可能な問題はほとんどない。

文字一つにしろ、計算式にしろ、記憶していなければ高得点を取るのは難しい。

そもそも古来から老人を大切にするのは、老人の持っている知識が目当てだった。

今でこそネットで知らないことはすぐにすることが出来るが、昔は知っている人がいなければ永遠にわからないままだったのである。

どんなくだらないことでも知っているだけで尊敬される。

それはいつの時代でも一緒であった。

そして今の学歴社会においては、他人の知らないことを知っているかどうかだけで人生の明暗が分かれるのである。

極限まで上り詰めるには相手の知らないことをいくら知っているかが勝負の分かれ目となる。

知識の差が実力の差である。

だが、ほとんどの人間が子供時代に刷り込まれるのは勝利の記憶ではなく敗北の記憶である。

自分の知らないことで周りからマウントを取られ、劣等感を植え付けられていく。

悔しさをバネに勉学に励んでもらえばそれでいいのだが、そんな道に進むことはめったに無い。

知らない知識を補強する場所が同じ塾だったりするので、いくら頑張っても差がつかない。

むしろ取りこぼした分だけ負けていくため、真正面から戦うのは難しいことを学ぶのである。

その結果、なんでもない知識でマウントを取って優越感に浸ることを覚えていくのである。

ワザップに騙される小学生がいい例だろう。

自分しか知らない知識を誰でも見ることが出来るネットの海から探し出して騙されるのである。

そうして育った人間は「誰も知らない情報」を手に入れると公開せずにいられないのである。

また、ほとんどの人が知らない情報があるとすぐに食いついてしまうのである。

それが他人のスキャンダルでも知られたくない個人情報であってもお構いなし。

他人にマウントを取って優越感に浸れればそれでいいのである。

VTuberの身バレはそうやって起きる。

ファンであっても情報を公開したことにより発生するリスクを考えていないのである。

推しのことを何でも知っているファンこそが一番優れていると考えているのだろう。

気持ち悪いことこの上ないのだが、そのあたり理解していればアイドルを追っかけ回したりしない。

一瞬の快楽を得るための行為に人生を潰されて最悪引退に追い込まれたVTuberがたくさんいるにもかかわらず、今日もVTuberの知られたくない過去を掘り起こそうと躍起になっている。

それでいて知っておかなければいけない情報については知ろうとしない。

推しの苦しみや悩みを知っていたところで他人にマウントを取れないからだ。

むしろそんなことを知っていて解決できないのだからファンとして情けない姿を晒すことになる。

知っていて知らんぷりしたりもみ消そうとするから推しから呆れられる。

余計な知識ばかり蓄えて学習しないとろくな人間に育たないということである。

そしてそんな人間が当たり前のようにそこかしこにいるこの世界。

VTuberに生まれ変わっても、さぞ生きづらいことだろう。

 

人を育てることをしない世界

人間はキャベツ畑から採れる。

そんなことを本気で信じている人間は稀だろう。

だが、人間を育てないことは、人間がキャベツ畑から生まれてくると信じているのとほぼ同じである。

日本という国は「他人に教える」という教育が抜けてしまっている。

大人になってから態々高いお金を払わないと「教育」という技術は習得することが出来ない。

人にものを教えるのは義務ではないのである。

だから、日本社会にはいわゆる情弱と呼ばれる人間たちが生まれているのである。

もはや人に無償で教えるという発想がないのである。

死ぬ用事もないのに線路に飛び込む人間がいてもしらんぷりなのだ。

そもそも日本には貴重な人材というものは自然発生するものだと言う考えがある。

例の京アニの放火事件に対する世間の反応を見ればよくわかる。

京アニの社員が数十人なくなったことがどれほどの損失であったか理解できる人は少ない。

バイトを集めるように補充をすれば何の問題もないと考えた人がどれほどいたことか。

人が大量に死んだ原因や犯人の動機に目を向ける人は多くいた。

事件に対して自分語りする人は今でもそこかしこに存在する。

だが、人材が失われたことに対する補填については全くもって触れられなかった。

大きな原因は、現場の人が頑張ってなんとかしてしまうことにある。

貴重な人材が失われても、結局変えの人材はどこからか調達されて、元通りになってしまう。

だから人材なんて育てなくても変えがいくらでもいるように錯覚してしまっているのだ。

事実、京アニは元通りアニメ制作を再開している。

一体どれだけの苦労があったか我々は知ることが出来ない。

それゆえに「昔のほうが良かった」なんて心無い言葉を投げかける人が出てくるのである。

確かにアニメ制作は多くの人にとって絵を書いているだけという認識なのだろう。

だからこそ、失われた人材を補充することは、困難ではあっても、不可能ではない。

だが、これが国のトップに立つ人材だったとしたらどうだろうか。

失策を繰り返す政治家達を見て、日本国民は誰しも救世主を求めている。

しかし、誰一人として国のトップに立つような人材を育てようとしていないのである。

やっていることと言えば、国のトップに立てそうな人を探すことだけ。

砂漠でキャベツを探す馬鹿がいるだろうか?

キャベツがほしければキャベツを育てるべきである。

美味しいキャベツを愛情を持って育てるべきである。

野生のサボテンを持ってきてキャベツの代わりにしてうまくいくはずがない。

喜ぶのは一部の人間だけである。

これがファンと推しの関係にも当てはまっている。

ファンはVtuberを育てていない。

デビューしたVtuberの中から自分にあったVtuberを取捨選択しているだけである。

だからVtuberがファンに助けられるという場面は少ない。

誰かがいなくなっても新しいVtuberが代わりになってくれると思っているからである。

そもそも、Vtuberは才能があるのに満足に教育を受けていなかった人というのが多い。

まともな教育を受けてさえいれば表の世界で活躍できたはずなのに、こんな世界で生きることになってしまったことに同情する。

もちろんVtuberだから成功した人も多くいるだろう。

だが、育てるという部分が欠落している以上、成功しても使い倒されて終わるのは目に見えている。

ファンにとってVtuberは消耗品という位置づけなのである。

相撲というスポーツを知っているだろうか。

日本人なら誰でも知っている通り、日本の国技である。

裏を返せば、日本人の教育のあり方が根強く現れている世界なのである。

なぜ日本人は勝てなくなってしまったのかというと、やはり教育という部分で外国に遅れを取っているからである。

日本人は力士を消耗品だと考えているため、せっかく逸材が現れても数年で使い潰してしまうのである。

なぜ、昔はよかったのかと言うと、土俵の上が逸材で溢れかえっていたからである。

逸材を湯水のように使い果たしてしまった結果、今のような状況になっているのに誰も気が付かない。

焼畑農業の末期のようである。

栄養もなくなり、雑草すら生えず、それでも昔に思いを馳せ、いつまでも昔と同じ感覚で、根っこまで食いつぶす。

上と下で二極化しているのに上をすべて使い切ったらどうなってしまうのだろうか。

といっても、強くなるためのノウハウは既に出来上がっている。

どのような稽古をすればいいのかは日本の側に伝統として根付いている。

だから、本来ならば日本が勝ち続けていてもおかしくないのである。

結局どこで差があるかと言えば、力士の体をファンがどこまで大事にしているかという部分である。

もし、白鵬が日本人だったら、いくら強くてもこんなに長く相撲を続けられなかっただろう。

彼は日本人ではないから日本人の相撲ファンの無理な要望に答えないという選択肢があった。

長く相撲をとっているのだからこれ以上はまずいというのは本人が一番良く知っているだろう。

日本人にはその一線をファンのためにやすやすと越えてしまう部分があり、ファンもそれを称賛している。

勝てないくらいなら勝ってさっさと引退してもらったほうがファンは嬉しいのである。

だから白鵬を受け入れられない日本人は結構いるのである。

日本人は自分のルールを他人に強要した上で話が進まないと納得しない。

相撲に限らず、日本人は誰しもハンデを持った状態で世界と戦っているのである。

これは元寇のときの日本人と何も変わっていない。

自分たちのルールで戦おうとした日本は負けて、自然災害でなんとか助かったのに、その自然災害を神風と読んで自分たちの手柄にしてしまったあのときと同じである。

アンチに推しがボコボコにされて、ファンは何もしなかったのに、嵐が過ぎ去ったら自分たちが支えたからだと言い張る今の状況と何も変わっていない。

Vtuberに対するファンの態度も一緒である。

自分を楽しませてくれないならVtuberに存在価値はないというのがファンの持論である。

炎上して引退するリスクを抱えて活動して楽しませてくれないなら推す価値はないと考えている。

加えて自分を楽しませてくれるVtuberはいくらでも湧いてくるから引退も卒業も大した問題ではないと考えている。

結局、引退や卒業は死亡ではなく、いくらでも転生して復活するという事実にファンは味をしめているのだ。

人材の使い回しはいくらでも可能であり、Vtuberもきっと活動を再開したいと思っていると考えている。

だからファンはどんどんファンとは呼べない集団に成り下がっている。

アンチが名誉ファンと言われるようなVtuberまで誕生してしまったのだから、もうどうしたものか。

Vtuberを扱う企業は流石に気がついたようで、Vtuberになれる人材を育てていくことを始めている。

これ自体は喜ばしいことなのだが、ファンは態度が悪くなる一方なので、せっかく育った人材もあっというまに食いつぶされていく。

血反吐を吐きながら続ける悲しいマラソンである。

志半ばで倒れたマラソンランナーに声を変えるファンはいない。

ゴールできなかったことに腹を立て文句をいい石を投げつけるファンはいても、マラソンランナーをなんとかしようと考えるのは、並走しているランナーか、ランナーを養っている企業くらいだろう。

ファンの思い描いた夢につきあわされるVtuberは、たまったものじゃない。

夢を思い描く権利はVtuberの方にある。

自分の夢に付き合ってほしければ、夢に付き合えるような人材を育てるところからするべきである。

特に結婚できずに一生を終えようとしている人間はなおさらである。

まず、自分の理想の結婚相手を考えて欲しい。

次にその理想の結婚相手を育てることができる人がいるかどうか考えて欲しい。

いくら妥協しても結婚相手は出てこないのだ。

育てる人間が誰もいないのだから。

稀に生まれても自分のもとに来る前に会社に入って社畜になってしまう。

都合のいい人間は、社会の歯車にも都合がいい。

社会で使えない人間ほど結婚相手を探しに行き地獄となる。

結婚して幸せになりたければ自分で育てる時代に突入したことに早く気がつくべきだ。

 

日本が暴いてしまった世界の構造

ところで皆さんは歴史は好きだろうか?

嫌いであっても大昔には恐竜という生き物がいて、なんやかんやあって絶滅して、なんやかんやあって今に至るくらいは知っているだろう。

そのあたりが明らかになったのには科学の進歩が不可欠なわけだが、実は誰ひとりとして見てもいないことを共通の認識としているのである。

ネット上にばらまかれた文章は嘘かどうか怪しいものがほとんどだということは理解しているが、歴史的な文献については嘘かどうか怪しいという発想に至る人は殆どいない。

何が言いたいかというと、人間の歴史というものは案外短いもので、数百年も実在していれば御の字ということである。

なぜそうなるかと言うと、日本という国がこれまで記述してきたのような状態であることによる。

育成という概念がないまま先に進み、結果として人材不足に陥り、いつまでも古いものを使いまわしている事実。

蒔かぬ種は生えぬは当たり前だが、なぜそんな状態で縄文時代から今に至るまで文明が続いてきたのか。

人間は教えられていないことはできないのである。

そんな状態で歴史を紡いできているのなら、世の中は常に人手不足で困っていたはずである。

だが実際は人材不足が深刻化したのはここ数十年のことである。

歴史の教科書によれば、湯水のように人間が消費されているのにもかかわらず、人手不足にはなっていなかった。

となると、歴史はここ数十年前に遡ることができれば御の字くらいで、あとは人間が勝手に作り出した妄想なのではないだろうか。

幸い人間は生まれた時の記憶がない。昔のこともおぼろげに思い出すくらいで完璧に覚えていることなんてごく僅かだ。

だから今まで誰もその事実に気が付かなかった。

外国には教育のシステムがちゃんと存在していたからである。

また、こんな小さな日本という島国のことなんて気にもとめていないからである。

しかしながら、誰が途中からこの世界の歴史というものをスタートさせたとして、そんな事実に気がつきやすい状態に日本がなっているということを知ったら、きっと日本という国を滅ぼそうとするだろう。

少なくとも私なら不自然のないように日本という国の歴史を終わらせるように仕組むだろう。

あるいは、教育というものがなくても、突然変異で生まれてくる救世主によって、そんな事実はなかった、妄想だと人々が思い込むようにするだろう。

だが、後者の救世主作戦は失敗に終わっている。

出る杭は打たれる、埋まっている杭すら掘り起こして打たれるのが今の世の中である。

失敗しない人間はいないのに、救世主として世の中に認知されると過去を掘り起こされてボコボコにされる。

だから、いくら救世主が出てきても無駄に終わるのである。

育てようと思わない人間にとって、失敗した人間に次はないのだ。

人間が求めているのは世界を正しい方向に導いてくれる救世主ではなく、世界が滅ぼうとも自分にだけ都合のいい救世主なのである。

だから親ガチャなる言葉が存在するのである。

生まれた時に全てが決まっていて欲しい。

努力すれば成功する世界なんてまっぴらだ。

いくら政治家が不正をしても、給料をもらいすぎていても、守られていても、文句はいうだけで一向に変えようとしないのは、自分がもしかしたらその立場になれるかもしれないと淡い期待を抱いているからである。

宝くじに当たるより低い確率だというのに、死亡率が1割にも満たないコロナワクチンは怖がるくせに、起こりもしないことに期待を寄せて、すがろうとしている。

この世界の創造主がいるとしたら、この日本という国について頭を抱えているところだろう。

日本を救いたければ、ある時間に同時に大量に救世主を出現させて、なおかつ救世主が排除されないように味方をたくさん用意しておかなければならない。

単純にいえば、日本国民の総入れ替えである。

しかし、そんなことができるのだろうか。

思いつく方法はどれも酷いものばかりであるが、私がこの世界を管理する立場にあり、善良な心を持っているのなら、迷わず実行するだろう。

今はどのフェーズになっているか知らないが、そのうち日本人は歴史の文書とかけ離れた存在になっていることだろう。

そもそも、日本人がイメージしているような理想的な日本人像に当てはまる日本人など数えるほどしかいない時点で、すでに置き換わっている可能性もあるが。

 

無能だけで国を成り立たせる方法

有能な人材はどんどん失われている。

人財という言葉があるように、人という財産を失えば国は死ぬ。

しかしながら、無能な人間ばかりでも国はなんとかなるものである。

実際、毎日のように政治家は批判され、毎日のように不祥事が報道されているが、日本という国はずっと続いてきている。

なぜそのようなことが可能なのだろうか。

それは能力がない人が溢れかえっても大丈夫なような準備がされているからである。

台本というものをご存知だろうか。

舞台などで用意されている話の進め方が載っている本である。

演者はそれに従って演技をするため、いつでも同じ展開で話が進み、同じように観客は楽しむことができるのである。

桃太郎が竹から生まれたり、鬼に負けて食われたりすることは決してないのだ。

つまり、台本はストーリーの固定が目的だが、これの応用でアドリブがきかなくても大丈夫という役割もある。

私は二次創作をしているので話を考えろと言われたら難なくできるのだが、世の中はそんな人間ばかりではない。

バラエティ番組でテーマを決めて話すときに、事前に何も知らされずに始まったら何も出てこない人もいる。

台本があってリハーサルがあってそれでなんとか形になるのである。

すなわち、何事も台本さえ用意してあれば演者を連れてくるだけでたいていうまくいくのである。

そして、観客は台本があることを忘れて目の前で起きていることを受け入れればいいのである。

きっとどこかに国を動かすための台本が存在している。

そうでなければ織田信長から明智光秀へ豊臣秀吉から徳川家康へスムーズに時代が移り変わることはなかった。

本能寺の変は今でも真相がわかっていないのはそういうことである。

台本の存在は一般人には知られてはいけない。

一般人は台本の中身を見ようとしてはいけない。

これは台本のある国にとって暗黙のルールである。

その台本は預言書のようなものであり、名前を書かれたものは、書かれたとおりに行動しなければならない。

どこで何をするか、どこで死ぬか、全て書かれてある。

結果として、能力がなくても役を演じることが得意な人間は多く生き残っている。

忖度の文化はその名残である。

Vtuberが何万と誕生できたのは役を演じる能力がほとんどの人に備わっていたからである。

そういう人たちだけが子孫を残せたからである。

さて、先程台本にはどこで誰が死ぬのか書いてあると言った。

薄々感じていると思うが、話題作りのために死ぬことになっている人間が用意されているのである。

いくら無能ばかりとはいえ、どうしても台本通りの進行が難しい事象は発生しうる。

そんなときに無能の目を晒すための工夫がいくつかされている。

その一つがマスコミによる情報の封鎖である。

マスコミにとって大切なことは数字を取ることであるので、国民が注目するような事件が起きたら取り上げざるを得ない。

国民の目の届かないところで重要なことは済ませておくことで通常では無能が騒ぎそうな進行も可能になるのである。

しかしながら、最近になってその手法にも限界が出てきている。

一つはネットの普及によりテレビや新聞など従来の情報伝達手段が注目されにくくなってしまっていることである。

取り締まりたい集団ほどNHKを見ていなかったりするので危険な集団だけ誘導できずに機密事項に近づいてきてしまうのである。

ツイッター上の世論操作はある程度実現できているが、確実かと言われるとそうではない。

ネットで騙され続けてきた人を騙すのは至難の業である。

もう一つは、事件を起こしたときに話題になりそうな人が減ってきていることである。

ここぞというときの大きいカードが切れなくなってきている。

やはり人材難で大きいカードを切ったら変わりがいないからである。

だからマスコミが話題にしてくれそうな人財の模索をしているのがわかる。

現状、政治家はカードにできない。

国を任せられる新しい人物がなかなか出てこないのに一人でも切ったら大変なことになる。

となると、いなくても問題とならない娯楽に関わる人物が槍玉に挙げられることになる。

手頃なのは芸能人である。

たびたび不審な死が起きて大きなニュースになるが、真相がわからないまま、あっという間に話題から消える。

最近は声優にも手を伸ばしてきた。

とにかくレベルが高水準でなく競争率の高い職業はいくらでも換えができるからカードとして切りやすいのだ。

といっても、カードにできる、すなわち名前を出せば誰でも知っているレベルにするまでは時間がかかる。

そもそも、事務所の方も台本とはいえせっかく育てた金のなる木を安々と手放せるかと言われると、無理である。

どこもかしこも人手不足なのだから仕方がない。

事務所が潰れたらカードにできる枚数も減るということである。カードにしたくても苦情を受け入れるしかない。

もうおわかりだと思うがVtuberという存在が急激に認知度を上げてきたのはそういった理由があるからである。

能力に左右されず所属した事務所の看板だけで有名になれるのだからとにかく都合がいい。

急にいなくなってもVtuberとは不安定な職種でありそういう人はいくらでもいるから当たり前と思われる。

鬼滅の刃で遊郭の様子が取り上げられたが、まさにあんな感じである。

血筋的に価値のない人間を引っ張ってきても客をとらせることができるため、代わりはいくらでも用意できる。

特に社会で使えない人間を採用できるという点でもポイントが高い。

使えない人間を人財に変えることができる。

Vtuberの存在の普及がうまくいけば人財を浪費せずに無能をコントロールできるのである。

だが、この計画は一度妨害が入っている。

妨害とはもちろん例の騒動のことである。

Vtuberによる情報漏えいは度々起こっているが、情報漏えいだけに注目して、結局何が漏れたのかファンはあまり気にしていないようだ。

おそらく、あの時持ち出したのは台本の一部だったと思われる。

情報漏えいの犯人を探すためにかなり時間をかけていたが、当時の所属メンバーは全員嘘が苦手な子ばかりだった。

つまり、最初から犯人に目星はついていて、一体何がどれだけ漏れたのか特定するのに時間がかかったと推測できる。

というのも、台本を盗み出す手引をした内部の職員はファンに混じってVtuberに指示を出していたからである。

当時のツイッターを見るとわかるが、もう残っていないかもしれない。

そもそも配信をリレー形式にすることの利点として、配信がかぶらないので箱推しできるということばかりファンは主張してきたが、内部情報をうっかり喋ってしまったときにストップをかけやすいという利点がある。

あまりにも配信に慣れていない子が多かったため、配信中に常に連絡が取れる体制に違和感がなかったが、もともとの目的は言っちゃ駄目なことを配信で言わないようにするためだったのではないか。

台本にどの時点で誰が死ぬか書いてあったかはわからないが、何か起きたときに自発的に事件を起こせるようになっているということは書かれていたはずである。

そう考えれば、大事なイベントの直前にいきなり騒動が起きたというのも理由がつく。

マスコミが注目できるような大事件は人の注目するときに人為的に起こされるものである。

岸辺露伴は動かないの懺悔室にあるように、幸せの絶頂に悲劇が起きるように仕組むのが普通なのだ。

ぺこらもクリスマス配信という一大イベントのときに、何故か発生した。

冷静に考えるとプロである彼女にとってよくわからないミスである。

彼氏がいるとしても、当日に会う予定を立てることはまずない。

忙しい売れっ子Vtuberであれば予定の決め方くらい上手にできるはずである。

わざわざドタキャンしなければならない配信を入れて炎上しかねないことをするのはありえない。

つまり、台本があるということである。

正直、お笑いのチャンピオンになった人が急にVtuber個人名を出してきてついに始まるかと思っていたが、以外に早く事件は起きた。

話題にするにはまず認知度をあげないといけない。

有名人がインフルエンサーとなってカードの価値を底上げする。

それにしても、台本もなかなか雑になってきているのを懸念する。

ところで、クイズを出すときに誤って答えを先に出してしまった場合、出題する問題は変えなければならない。

例えば、台本が漏れてたけど何が漏れたのかわからないのであれば、台本を書き換えるしかないのだ。

特に台本の存在を知っていると思われるVtuberが例の暴露系Vtuberと関係を持っているのならなおさらである。

書き換わった証拠は、もう記憶にも残っていないと思うが、あまりにも早いホロライブからの解雇事案である。

それぞれの箱で情報漏えいを起こしたVtuber3人のうち、なぜか一人だけアンチからもネタにされないのか不思議なところだ。

今でもなおアンチから度々炎上のダシにされている二人と違って、いなかったことになっている。

考えれば、ファンが不審に思うリスクを受け入れてでも、どうしても情報漏えいのリスクをゼロにしなければならなかった事情があったといえる。

それだけの情報をホロライブは持つほどになった、社会において重要な役割を任されたと考えている。

結局、台本の中身は彼女の箱の中には公開されなかった。

嘘がつけない相手に秘密を話すのは損にしかならない。

仲間をカードにしないために騒動を起こしたのだから。

だから、秘密は彼女と直接の関係のない人々に託すこととなり、そこで例のお気持ちのぶつけ合いが発生したと推測する。

非常に残念な話だが、カードを量産する箱を変えるときに、決め手となったのは、大量に推しを変えたファンの行動があったからである。

彼女は、その裏切り者のファンを、復讐の意味を込めて、利用することにしたのだろう。

もっとも、予想以上にクソすぎてただ厄介なファンを外部に転封しただけになってしまったようだが。

本来はもっと穏便に台本が輸送されて終わるはずだったのだ。

いろいろな考察がされたようで明らかになっていない部分が例の騒動には多い。

皮肉にもヒントはアンチが出している。

なぜアップランドがえにからやカバーにくらべてよくわからない会社なのか。

その正体を知られてはいけないからそうなっていると考える。

だから、その正体を暴くことはしてはならない。

なぜ炎上した際に明らかに駄目だという選択肢を取り続けてきたのか。

最終的に駄目にならないとファンが他に移ってくれないからである。

なぜ楠栞桜はいろいろとコラボをしていったのか。

台本を渡す相手を探していたからである。

だから、容疑者をあぶり出そうと関わったVtuberがちょくちょく炎上しているのである。

ホロライブから抜ける人が少ないのは、結局の所、台本の秘密をどの範囲に拡散させたかわかっていないからである。

精神的にはかなり参っていても、アイドル部という例を見てしまっているし、台本の闇を知っているのであれば、抜けて他所に迷惑を掛けるわけにはいかない。

最初に外部との関係を殆ど持っていなかったアイドル部と外部との関係を持ったあとのホロライブでは精神的な負担が違うのである。

どの範囲に迷惑がかかり、どれだけの損害が出るかの例は楠栞桜が身を持って示してくれた。

できたVtuberぞろいのホロライブの人たちが同じ悲劇を繰り返せるはずがない。

であるからして、一番気になるのは、台本が漏れることが台本に書いてあったかどうかである。

いかに彼女が優秀だとしても、いかに台本の管理が杜撰だったとしても、そう簡単に漏れるとは考えにくい。

IPの特定にしてもピンポイントすぎる上にどこで何をやっているか匿名なときからばれていなければ成立しなかった点で偶然と片付けるにはもったいない事象である。

だから、すべてが台本の通りに台本が漏れたとするなら事態は深刻である。

ファンが本来なら平和だった箱を地獄に沈めてしまったのだ。

今のホロライブが鎖国していたアイドル部の状態にだんだんと似てきているのが杞憂であればよいのだが、ぺこらの件で杞憂が可能性に変わってしまった。

彼女がアンチにとって「引退しない楠栞桜の位置づけ」になってしまわないように注意しなければならない。

切り捨てる役に能力を求める必要はないが、そのせいでアイドル部はカードになれなかった。

切り捨てる役にもある程度の能力やプロ意識が必要だったのだ。

だから実験は失敗だった。

だが失敗する時間の猶予は残されていなかった。

Vtuberをカードにするのは失敗の許されないプロジェクトである。

そこで白羽の矢が立ったのがファンが良く似ていると言って移動が始まっていたホロライブだったのだろう。

アイドル部からホロライブへ、あらゆる手段で先導するファンの行動が咎められることはなかった。

書き直した台本にそう書かれていたからである。

台本に死ぬことが決定していない人物は消されることがない。

どう考えても害悪な人間が世の中にはたくさんいるが、法的に訴えてもどうにもならないのはそのせいである。

いくら炎上させても、法律的に問題があっても、役目を終えるまでは生き残る。

愚民どもが一大事件と捉えて注目すればそれでいいのだ。

バカや無能はコマとして集めておくと役に立つのである。

そういう目線で見ると、都合が悪くなると推しをコロコロ変えるファンは、とても都合がいい。

理想的なのはカードを切ったら同じ箱の別のカードに流れてよそに行かないファンを集めることである。

そうすれば無限にカードを増やして切ってを繰り返すことができる。

この世界にとって都合のいい状態が完成したのだ。

実に不本意だが、害悪なファンが大量にいるおかげで話がうまく進んで丸く収まった。

これが、理想と現実である。

本来なら満足すべきことだが、あとあと判明したあとでこういう話をするとなぜあの時言わなかったと言われそうなので先に先に書いておく。

こちらとしても多少の妨害を受けているのだ。

そのつもりはなかったのだがいつでも発言できるコマとは立場が違うようである。

だから、事件が起きるまで少し待たされることになった。

そもそもこういうのはファンがやるべきことである。

恨むべきは台本の製作者でも運営でもない。そういうに流れを持っていってしまったファン自身である。

台本に何が書かれているか、ファンは知る必要はないし、知ろうとしてはいけない。

台本通りに動かなければこの国は滅びると考えている。

こちらに台本の進行を妨害する意思はない。これだけははっきりと伝えておこう。

重要なのは推しが台本に登場しないように立ち回ることである。

幸いなことにVtuberのいる場所は、幸せな世界に到達することができた。

急な配役変更がなければ安泰なのである。

彼女たちには残念な結果になってしまったが、それに見合う対価は支払われているはずである。

いつ腹を切る事になるかわからない役職に無料でつく人間はいない。

高い給料をもらって贅沢な暮らしをする代わりにカードとして捨てられるという決まりなのである。

現実、手取り20万すら難しいので、手取り100万でもつなぎとめることができる人間はたくさんいるだろう。

昔から「腹を切らねばならない武士より貧しくても農民のほうが気楽」とはよく言ったものである。

 

知らぬ間に発生するリソース攻撃の話

リソース管理は重要である。

何をするにしても最低限金と時間は必要なのだから。

しかしながら、学生は時間があるが金が無い。

社会人は金があっても時間がない。

世の中はうまくできている。

いや、できているというよりも、意図して作られていると考えるべきだろう。

もともと日本という国は生産性の低さが指摘されているが、一向に改善されない。

なぜなら社会を安定させるために必要だからである。

生産性が高ければ、自由に使える時間が増える。

自由な時間が増えれば、当然、今の生活を良くするために考える時間が増える。

すなわち、政治に不満があって国家転覆を狙う人が増えたり、大規模な犯罪を計画して実行する人も増えるということである。

日本が平和なのは、妙な考えをする暇を与えない部分が大きい。

社会の歯車としてだけ動いていてくれれば、どんなに世の中が悪くても、どんなに不満が溢れていても、問題ないのである。

ろくに考える時間がなければ、突発的な犯罪が増えるだけなので、対処も簡単である。

ニュースに載るような犯罪は、大抵暇を持て余している人間によって行われる。

そして、暇を持て余している人間は、大抵大金を持っていないので、用意できる道具も大したことはない。

だが、一度事件が起きれば、話題になる。

話題になれば、多くの人が自分の意見を認めてもらおうと、世の中に公開しようとする。

そう、多くの人にとって貴重な時間というリソースを削ることができるのである。

ひとたび世間を見渡せば、リソースを減らす方法が溢れかえっていることがすぐにでもわかるだろう。

流行を追いかけるだけでも金と時間が飛ぶように消えていく。

例えば、アニメが流行れば、話題についていくために当然アニメを見なければならない。

アニメを見たら多くの人と意見交換し、気に入ればアニメのグッズを買う人もいるだろう。

時間と金が一気に持っていかれるのである。

しかも、流行というのはすぐに移り変わるものであり、一通り揃う頃にはまた別のものが流行する。

それに対して新しく情報を仕入れてものを勝手を繰り返していると、人間は何もできなくなるのである。

だが、いくら流行が早く移り変わるからと言って、手当り次第流行を投げ捨てているわけではない。

人間が興味を持ったものではないといけないし、加えて反社会的ではないものでないといけない。

たとえアニメでも、情報を仕入れて考えるという行為をさせる以上、平和を脅かすもの、すなわち、国にとって不都合なものであってはいけないのである。

それぞれ国民に考えさせたいテーマというものがあるのである。

例えば、けものフレンズというアニメがあった。

伝えたかったテーマは協調性だろう。

「けものはいても、のけものはいない」という、日本に欠けていた他を受け入れてみんな仲良く暮らすということを国として伝えたかったのだろう。

だが、結局失敗に終わったのは、けものフレンズに関わっていた人々が、特にファンが、テーマと反するものばかりだったからである。

けものフレンズを見て、仲間はずれはいけないんだと考えた後に、現実を見て、酔いが冷めてしまったのだろう。

社会現象になりそうなレベルまで行ったが、2作目から急速に人気を失ってしまい、今となってはVtuberにすら悪い影響が出ている。

ファンによって引き起こされたけものフレンズの失敗が、何の関係もないはずのVtuberにまで影響しているのである。

以降、考える機会を与えてしまうと、ふと現実との乖離に気がついたときに、危険であるということを認識したのか、現実と乖離がなさそうな作品が流行することはなくなっていった。

進撃の巨人や鬼滅の刃など、世界観的に悲惨で救いのないものが流行するようになっていった。

進撃の巨人も鬼滅の刃も、未来のために命をかけること、未来を信じて犠牲になることの大切さを教えているのである。

社会のために多くの犠牲を払うのは仕方がないのである。

そこに身分の差は関係ないのである。

これは現実とほとんど乖離がない。

そうなってもらわないと困るのである。

ただでさえ自分勝手な人が増えているのだから、国のために命を捨てる人を増やさないと国が成り立たない。

歯車がなければ社会は動かない。

進撃の巨人は、主人公たちが中心となって一部の人間が犠牲になって頑張っている。

まだ、リソースに余裕があるからである。

鬼滅の刃は、主人公たち鬼殺隊だけでは人が足りなくなっていき、非戦闘員まで戦う羽目になっている。

この流行の移り変わりは、社会の情勢の移り変わりである。

ところで、アニメや漫画の欠点は、消費できる時間に限りがあるところである。

そこで、並行して用意されているのがゲームである。

社会的に流行したゲームは、艦これやウマ娘がある。

一見この2つには共通点が少ない。

艦これが世界の戦争をテーマにしているのに対し、ウマ娘は競馬場の中で完結する。

もし、国として戦争に興味をもたせたいのなら、艦これの次にウマ娘が流行ったりしない。

この2つにテーマというものはなく、ただ単に時間を消費させたいというのがあるのだろう。

どちらも莫大な時間を消費するゲームである。

結果として他のゲームは短時間で終わるようなゲームしか生き残らなかった。

裏を返せば、艦これやウマ娘に莫大な時間を費やしても時間は余るのである。

気がついたらサブゲームばかり大量にやっている人も少なくないはずだ。

ログインするだけのたった数分でも削ることができれば儲けものなのである。

ところで、艦これは金のない学生向けに時間を浪費させて妙な気を起こさせないようにするのが目的だが、ウマ娘は社会人向けに無駄な金を使わせる部分のほうが大きい。

艦これの欠点は課金要素がなさすぎることである。

有り余った金を使わせないと経済が回らないのだから、金の使い所を用意してあるウマ娘に流行が移ったのだ。

特に競馬はギャンブル的な側面があり、今まで賭け事に興味のなかった人たちに浪費させるように仕向けるのにぴったりである。

結果として、金も時間も奪われた人間たちは、世の中のことを何一つ知らずに楽しいと思いながら過ごしているのである。

これでは戦争なんて起きるはずがない。

事件を起こすのは流行に乗らない、金を持っていない、国を変える考えも力もない、排除しても問題のない人間ばかりである。

金持ちから資金を削るのはとても大変である。

宇宙旅行に100億かかるらしいが、そのくらいをポンとだせる人間がゴロゴロいては、いつ装備を整えて首都を攻撃されるかわかったものではない。

したがって、金を持っているほど税金を置くとらねばならないし、そもそも、給料を上げるということをしないようにしなければならない。

人手不足でも給料を上げて来る人を増やそうということができないのがその結果である。

たくさん金がもらえるなら来る人も増えるだろうに、平和でなくなる可能性が高い状況だからそれができない。

並行して値上げも進んでいる。

特に酷いのはサイレント値上げである。

以前と同じ生活をしたければ金を出すしかないのである。

正直、コンビニの小さなパンやおにぎりで一日を凌ぐ若者を見ていると不思議でならない。

まるで戦争に備えるかのように少量の食事で体が動くように自ら訓練しているようだ。

あれでは脳に栄養が行かずろくなことも考えられないだろう。

巷でドカ食いが流行っているが、外国に比べたら毎日の普通の食事レベルしか食べていないのも気になる。

何もかもが減らされているのが今の状況であり、何もできなくなった結果成り立っているのが今の平和である。

要するに、中から攻撃されないということは、外から攻撃されたらひとたまりもないということである。

幸か不幸かコロナウイルスのおかげで世界的にそれどころではない。

中国ですらどうするべきか頭を悩ませているのだから仕方がない。

そもそもコロナウイルスになぜか耐性のある日本が、同じように余裕がないのは疑問なところである。

日本のリソース不足はもとからあるものなのだから当たり前かもしれないが、ここで世界に差をつけられないのは非常に残念である。

生産性が高ければ有り余ったリソースを使って世界を制することもできなくはなかったのに。

とにかく、何をするにもリソースが重要である。

結婚して子供を作る人が減ったのもリソースが足りない人が増えたからである。

結婚や子育てほどリソース攻撃として効果的なものはない。

今となっては人が増えればできることが増える理論が成り立っていないのだ。

せっかく金と時間をかけて育てても、ほとんどが社会の歯車になってもどってこない。

結婚式や葬式に追加費用が必要なことすらある。

結婚を推奨する人に限ってデメリットは何一つ伝えてくれないのだから文句も言いたくなるのは当たり前である。

生涯でストレス解消にどのくらい金と時間がかかっているか数値化してみるといい。

結婚している人のほうが倍以上あるだろう。

会社でペコペコ、家でペコペコ、僅かな時間を趣味に使い、意味のない人生を送って終わる。

そんな生活がしたいと思わせたくないように不都合な情報は一切ふせられているのだ。

結婚の最適解が源氏物語の若紫だとわかるのにかなり時間がかかった。

子供を自分好みに育て上げるなんて光源氏はロリコンのサディストだと思っていたが、現実を知った後は、無駄のない結婚相手を探す方法の一つであり、実に合理的な人間だったと評価を改めた。

理想の人にであるのはマッチングアプリでも難しい。

出会ったとしてすべてがすべていいわけではなく、気がつけばデメリットばかり目に映るようになるのだ。

金と時間を欠けた結果がこれでは虚しいだけである。

1から自分好みに育てればリソースは最小限で済む。

問題は、そういった子供を生んでくれる人が、今となってはどこにもいないことだ。

だいたい結婚して子供を作るのは金も時間もある裕福な人ではなく、時間を持て余してすることがないバカなのだから、余った子供なんて日の目を見ずに捨てられてしまうだろう。

本来なら金も時間もある人だけが子供をつくれば、親ガチャなんか発生するはずがないのである。

良い親のところに生まれる確率がガチャ並みに低いということは、そういうことなのである。

時間があれば、結婚にも慎重になる。

時間もないからとりあえず結婚して何も考えず子供作るから不幸な子供が増えるのである。

ろくに教育していないから成長しても金と時間を浪費するほど出来が悪いのである。

書いていてバカバカしくなってきた。

ところで何度もいうが、私は二次創作をしているものである。

二次創作もまた、リソースを大量に消費する活動である。

結局の所、二次創作に手を出す人は、ほとんどが流行に乗っかるかたちで活動を続ける。

アニメや漫画、ゲームで金と時間を費やし、そのうえで金や時間を費やすのである。

ファンが飛びつくのは原作ではなく二次創作であることも大きい。

ファンが受け入れることができるのは原作ではなく、自分の中にある二次創作がベースの原作なのだ。

「公式が勝手に言ってる設定」とかいうパワーワードが飛び出すくらい自分の世界に浸っている。

これは結婚相手を探すのと同じである。

自分にとって都合の良い二次創作を探すのにどれだけリソースを割いているのかわからない。

自分で作らない以上、解釈の不一致がどの作品にもあるものであり、絵が駄目だったり、設定が違っていたり、完璧を追い求めて泥沼にハマるのである。

かといって、自分で自分の理想が作れるようになるには、才能がなければ、莫大な時間がかかるので、それで我慢するしかない。

我慢できないから製作者に文句を言い出して争いになるのである。

日本でサブカルチャーが急成長したのはリソースを消費させる政策がハマりすぎたからだろう。

世界が自分の国について真剣に考えている間、日本は現実とかけ離れた妄想の中でぬくぬくと過ごしてきたのだ。

平和とはそういうものである。

それにしても、これだけリソースを割いて頑張っているにも関わらず、誤字脱字が多く嫌になる。

1秒でも多くの情報を残しておきたいのに毎回のようにミスをしていては何も残せないではないか。

当たり前だがリソースを消費すること自体が悪いわけではない。

リソースを消費した結果、何も残らないのが駄目なのだ。

アニメも漫画もブームがすぎればグッズは役に立たない。

ゲームもサービスが終了すれば金も時間も戻ってこない。

リソース攻撃を受けると、手元に何も残らないのだ。

何かが残るような活動を心がけねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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