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イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra, YMO, ワイエムオー)は、1978年に結成された、テクノと呼ばれる音楽を演奏する日本の音楽グループである。メンバーは細野晴臣(ベース)、高橋幸宏(ドラム・ヴォーカル)、坂本龍一(キーボード)の3人。彼らの音楽はしばしば「テクノポップ」と呼ばれることもある。
YMOはテクノの歴史の中でも初期のグループであり(当時は具体的に「テクノ」というジャンルはなく、それは後に定着したものである)、また彼らの音楽にはロックの要素もあったことから、現代のようなテクノにカテゴライズできるとは簡単には言い切れない。しかしここでは、日本のテクノ最初期のグループとして紹介する。
1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニューウェーブのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。1993年には一時「再生」(再結成)している。
当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽は既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は大衆に受け入れられ、日本での商業的成功は言うまでもなく、英米でも少なからぬ音楽的影響力を残した。例えば『BGM』収録の「U.T」はトランス・テクノ、「ライオット・イン・ラゴス」(厳密には坂本のソロ『B2ユニット』の曲だが'80年のYMOライブでは好んで演奏された)はヒップホップの始祖と後に評された。
YMOはそのファッションも特徴的であった。初期のアルバムジャケットやライヴで見られる赤い衣装(デザインは高橋幸宏)は、昔のスキー服をイメージしたものであったが、その容貌が中国の人民服と似ていたため一般的には「赤い人民服」と呼ばれるようになった(メンバーが人民帽を着用していたのも一因かと思われる)。また、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす彼らの髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)は「テクノカット」と呼ばれ、当時の若者の間で流行した。「赤い人民服」と「テクノカット」は彼らのトレードマークであった。
「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているらしい。('93年の「再生」時の高橋幸宏の発言より)興味深いことに、人気バンド・ゴダイゴのミッキー吉野もまた「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している。
1990年代以降の日本の音楽シーンで活躍するミュージシャンの中で、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャン達は「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。代表的アーティストは槇原敬之、宮沢和史 (THE BOOM)、高野寛、テイトウワ、電気グルーヴなど。
その音楽をカテゴライズするのは非常に困難ではあるが、YMOは一般に「テクノ」のグループとして認識されている。しかしライヴなどを見てみると、現代のテクノとは大きく違い、YMOの演奏はギター・ベース・ドラム・キーボードのロックバンド形式である(特に初期のライヴでは、機械による自動演奏を取り入れつつも、機材的な問題から生演奏に頼る部分が大きかった)。YMOは結成当時、レコード会社側がフュージョンバンドとして売り出す予定であったが、初期の生演奏を多用したスタイルはそれが一因なのかもしれない。
当時のテクノ/ニューウェーブのムーブメントを振り返る際、YMOはクラフトワーク、ディーヴォとともに重要なグループとして語られることが多い。比較してみると、クラフトワークの音楽はドイツ古典クラシック音楽の流れの上に乗りつつ音数を極限まで減らした鋭いサウンドである。一方のディーヴォはシンセサイザーのサウンドを取り入れたロックバンドである。
そしてYMOは、その時期によってその音楽スタイルは大きく異なり、一言で説明することは難しい。初期はフュージョン、ダンスミュージック等様々な要素がみられるが、基本的なスタイルとしてはロック色が強い。中期には反復演奏やサンプリング等、音楽性やテクノロジーの可能性を追求した。後期はこれらのノウハウをポップスへと昇華させている。
また、伝統的な音楽理論を用いなくとも成立する現代のテクノとYMOの音楽が違う点は、ロックバンド出身の細野と高橋、クラシックの英才教育を受けた坂本と、楽器の演奏や音楽理論に精通したメンバーが楽曲を作り上げていたことだ。現代のテクノにも通ずる実験的な試みをしつつも、楽曲の多くはメロディーやコードワークが重視されている。
こうして振り返ってみると、YMOの音楽は一般にテクノと認識され、現代のテクノのミュージシャン達に多大な影響を与えたという事実があるものの、その演奏形態や音楽性は現代のテクノとは大きく異なっている。YMOがテクノの歴史において初期のグループであり、シンセサイザーのサウンドや機械演奏の可能性が未開拓の状態にあったからであるとも言えるだろう。
1980年代初頭の、シンセサイザーやコンピュータを用いた音楽ジャンルを表す言葉として「テクノポップ」という造語があるが、YMOの音楽もテクノポップに括られることがある。バグルスは1979年に"Techno Pop",そしてクラフトワークも1986年に"Techno Pop"という別の曲をリリースしておりこれらは言わば”公認”のテクノポップである。また細野は1986年に発表した曲"WORLD FAMOUS TECHNO POP"にて「Y.M.O. TAUGHT REAL T.P.(TECNO POPの略)」と説き、曲中にクラフトワーク、OMD、DAFらの名を挙げる等しており、YMOは世に真のテクノポップを知らしめた…と元リーダー自ら認めている事になる。
YMO=テクノポップ、と言い切るのはいささか安直だが、一般的に言われる代表曲"RYDEEN"、"TECHNOPOLIS"等は明らかに所謂テクノポップの特徴を兼ね備えていると言える。
「テクノ」、「テクノポップ」についての詳細はそれぞれの項目を参照のこと
YMOは、シンセサイザーのサウンド、そして機械による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいて自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。これらはプログラマの松武秀樹による功績が非常に大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサへの打ち込み、自動演奏は、松武が一手に引き受けていた。さらにYMOは、サンプリングの技術をいち早く音楽に取り入れた。中期のアルバム『テクノデリック』は、サンプリング技術を大々的に用いた世界初のアルバムといわれている(ほぼ同時期にスティーリー・ダンのエンジニア:ロジャー・ニコルズがサンプラー(名称:WENDEL)を開発しており、アルバム『GAUCHO』で使われていた。同アルバムの発売年が1980年であることを考えると、1981年発売のアルバム『テクノデリック』よりも早いことになる。ただ、サンプリングという技術を全面に押し出した音楽のあり方という点では『テクノデリック』のほうが重要だと言える。『GAUCHO』でのWENDELの使用はドラムの細かい補正に限られており、またLMD-649に比べ原始的な機材だった。インターフェイスもなく、変更するときにはわざわざそのたびにプログラム・コードを書かねばならなかった)。
YMOが使っていたシンセサイザーで代表的なものは、初期に見られる「MOOG III」(松武秀樹が使用していた大型モジュラシンセ、通称「タンス」)や「PolyMoog」(R.A.Moog社)、ヴォコーダ「VP-330」(ローランド社)、ベースやリードで多用された「ARP Odyssey」、そして中期から多用された「プロフェット5」(シーケンシャル・サーキット社)などが挙げられる。後期には技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。
機械による自動演奏というイメージがあるYMOだが、初めから全てが自動演奏だったわけではない。むしろ、機械的に聞こえる音を作るためにメンバーの高度な演奏力を生かしていたと言える。例えば、自動演奏に聞こえるテクノポリスのシーケンスパターンのトラックのメモには「根性のブリッジ」と書かれている[1]。坂本の手弾きだったのである。コンピュータを使っている事を強調したのは、細野のプロデューサーとしての戦略だったのだろう。ところが、これがYMOの曲に無視できない影響を与える。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったのだが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身がデータ入力ができるシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。その手法を変えて、ミュージシャンがコンピュータを直接操作して曲を作るという、細野が思い描いていた手法を初めて実現したのが『BGM』だったと言われている。
音色面でも、すべてがシンセサイザーのみというわけではなかった。特に、初期のアルバムでは生ドラムを多用していた。高橋幸宏の硬質なドラミング・スタイルが、YMOらしさを一層強調していたともいえる。ドラム音にロングエコー(鉄板エコー・リバーブ)をかけ、「Kepex」というノイズゲート機材を使い強制的に音を切り、人工的な効果(いわゆるゲートエコー)を出すという試みもアルバム『BGM』や『テクノデリック』では随所に見られる。また『テクノデリック』では、手作りの「LMD-649」というサンプリング・パーカッションや、当時発売されたばかりのサンプラー「Emulator」を使い、サンプリング音源活用でも音楽的センスの高さを示した。その後のアルバム『浮気なぼくら』では一転して「LinnDrum」を使うなど、技術の発展に同期した音作りをしている。
一方ライヴ面であるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボードの形式がとられ、機材的な問題(当時のシーケンサであるローランド社の「MC-8」の出力の関係、動作が不安定だったこと。また、データの読み込みに時間がかかるため)から生演奏が多用されていた。この形式は1980年末のワールド・ツアーまで続けられたが、1981年末に行われた「ウィンター・ライヴ」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサは「MC-4」、各メンバーが「Emulator」を多用したサンプリング主体のものに変わり、構成が簡素になり機材数が減ったこと、また一部演奏ではMTRが使用されたことも関係あると推測される(ただし、音楽的に初期の「フュージョン」テイストや「ニューウェーブ」テイストを取り払いエレキギターなど人力で行わなければいけないパートが減ったから、という考えもできる。ちなみに、このライヴでは坂本がギターを演奏している)。最後のコンサートとなった散開ライヴでは、シーケンサは使われず、ほとんどのバックトラックがMTRで演奏されている。散開ライヴでは「シモンズ」のドラム音と「LinnDrum」の音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われたが、カラオケの上に乗って演奏するスタイルであり、すべて生演奏ではないという観点からはライヴとはいえないという意見もあった(メンバーは伴奏とソロのみを演奏し、メロディーはMTRが音を出していた)。
この反省からか、またYMOなりのこだわりか、1993年の再生ライヴでは、細部にわたるまでシーケンサとアナログシンセを使って再生するという念の入れようであった。
1998年のインタビュー[2]で高橋は「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、マッキントッシュ(シーケンサとして使用)が止まってしまう恐れがあった。その為、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサが止まっていいように、つまりは前述の散開ライヴと同じ事ができるように)同期して再生していた」と語っており、MTRの安定した演奏に大きな信頼をしていたと思われる。
なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行っていた。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。
YMOはまた、ライヴでヘッドフォンを装着して演奏するという、当時としては画期的な方法をとっていた。これは、自動演奏とメンバーの演奏を同期するためのガイドとなるクリック音を聞くためであった(これは松武がYMOのレコーディングに持ち込んだ手法だが、方法自体は松武が冨田勲に師事した際に学んだとされている)。
クリック音は、松武がコントロールするシンセサイザーのフィルター発振音で、レゾナンスを上げていったときの自己発振音を使っている。具体的には「キッコッコッコッカッコッコッコッ」とか「ピッポッポッポッパッポッポッポ」という音である(US MIX版ファーストアルバムの「東風」イントロ部分を注意深く聞いていると「キッコ、キッコ」という音がかすかに聞こえるのがわかる。また、1980年11月のロサンゼルスA&Mスタジオ公演の「ALL YOU NEED IS LOVE」~「Technopolis」での曲の合間を注意深く聞くと「キッコッコッコッカッコッコッコッ」が聞くことができる。ちなみに同公演のTV放送では同部分と「東風」が始まる前とでかなりの音量で聞こえていた)。
ヘッドフォンを装着すると、通常のライヴでは聞こえてくる各メンバーの演奏の音が聞こえない。そのため、メンバーの出している音をPAから送り返す場合に、モニタースピーカーへ送らずキューボックスという簡易ミキサーへ送り、クリック音と混ぜて聞いていた(このキューボックスはグリークシアター公演の直前に数日間徹夜して作られ、当時としては最新の回路やパーツを使っていたため、一般のものにくらべてとても高音質であった。1台10万円程度かかっていたといわれる)。
ヘッドフォンはビクターのHP-550がよく使われ、シュアーのSM-10Aヘッドセットマイクとのコンビネーションはトレードマークになる。また初期のライヴで矢野顕子が使用していたのはゼンハイザーのHD414というタイプである(これは他のメンバーが使用している場合もあり、また、東風のPVでもメンバー3人が使用しているのが確認できる)。
初の衛星中継となった1980年11月のロサンゼルスのライヴでは、最初の「ライオット・イン・ラゴス」でクリック音がMC-8の演奏と16部音符1個分ずれて送出されてしまい(ドラムの高橋が後方の松武に向かって首を横に振るシーンが見られる)、メンバーはクリック音に合わせて演奏しているため、MC-8による自動演奏を途中からOFFにして演奏を続けたというエピソードがある。散開ライヴの時も、坂本が曲の始まる2小節前から体をリズムに合わせ始めるシーンが見られ、クリック音に演奏を同期させる様子がわかる。またアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に収められている「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」ではヘッドフォンをマイク代わりに使用している部分がある。
実際にクリック音を聞きながら演奏していた曲は半分くらいしかなく、第一次~二次ワールド・ツアー時の「コズミック・サーフィン」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、「ラジオ・ジャンク」、「デイ・トリッパー」、「中国女」、「千のナイフ」等は(後の高橋幸宏のコメントなどから)普通のバンドのようにドラムに合わせて演奏していたと推察される(ライヴ版で発表されている曲の『イントロ』と『後半』等を任意に切って繋げ聞き比べるとテンポが変わっている事やライブごとに曲のサイズが異なるのがその裏付け)。この時はまだシーケンサーが1台しかなく、1曲のデータをロードするのに1曲分の時間を使うので、シーケンサーを使う曲の次には使わない曲を配置して、その間にデータをロードしていたためである。
YMOはすでに20年以上前のバンドであり、オリジナル版アルバムはすでに廃盤になっている。以降レコードからCDに変わり、数年ごとにアルバムが再リリースされ、ベスト・アルバムが発売されている。
YMOの原盤権利を持つアルファレコードは、1993年のYMO「再生」の前後に、大量の未発表ライヴ音源やリミックスCDを発売した。以降、定期的なベスト・アルバムのリリースなどを続けていったが、90年代後半にレコード会社としては消滅し、YMO他元所属アーティストの原盤所持のみの会社(アルファミュージック)となった。
なおオリジナル版アルバムのCDは1998年に東芝EMIより再発売された(この際、細野監修によるリマスタリングがなされる)。その後2002年にはソニーミュージックから再発売されている(こちらは坂本が監修したが、彼は前述の細野リマスタリング版を尊重して、ベスト・アルバム以外はそのまま使用している)。
以降、節目ごとにベスト・アルバムがリリースされているが、すでにYMOのベスト・アルバムは飽和状態にあり、基本的にはほぼ同じ曲目+秘蔵音源1~2曲というスタイルが続いている。この秘蔵音源を聞くためだけにベスト・アルバムを購入しなければならないため、一部のリスナーからは不満の声が上がっている。また、なぜか国内ツアー「テクノポリス2000-20」の音源は商品化されていない。
これらのCDのリリース方法が、ファンの間で俗に「YMO商法(アルファ商法)」と呼ばれており、荒井由実やTM NETWORKなど、他のアーティストでも同じ手法での「売り方」は見受けられる。
このことに対して2005年3月、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一3人の連名でリスナーの皆様へという異例の発表がなされた(上記のサイトは、現時点では唯一の「YMO公式サイト」とも言えよう)。
レコーディング参加メンバーの詳細は各アルバムの項目を参照のこと
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