烈女百人一首 - いにしえwiki
あさりしものを 浜千鳥 いかに雲井に 立ちのぼるらむ (石見才女)016.我が袖に かゝる涙を とゞめ置きて 船は長閑に 漕ぎやゆくらむ (成尋法師母)017.路遠く 雲井はるけき 山中に またともきかぬ 鳥のこゑかな (笹子)018.たてまつる 蓮のうへの 露ばかり これを哀れ
あさりしものを 浜千鳥 いかに雲井に 立ちのぼるらむ (石見才女)016.我が袖に かゝる涙を とゞめ置きて 船は長閑に 漕ぎやゆくらむ (成尋法師母)017.路遠く 雲井はるけき 山中に またともきかぬ 鳥のこゑかな (笹子)018.たてまつる 蓮のうへの 露ばかり これを哀れ
A. 成尋阿闍梨母とは、平安時代中期の女流歌人であり、生没年不詳とされています。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B0%8B%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8%E6%AF%8D
坂田の稲を 抜き積みて 君が千歳の 初穂にぞ舂く (大中臣輔親)027.もろこしも 天の下にぞ 有りと聞く 照る日の本を 忘れざらなむ (成尋阿闍梨母)028.君が代は つきじとぞ思ふ 神かぜや みもすそ川の すまん限は (源経信)029.君が代は 松の上葉に おく露の つもり
三島江の 玉江の真菰 夏刈りに しげくゆきかふ 遠近の舟 (相模)051.もろこしも 天の下にぞ ありと聞く 照る日の本を 忘れざらなむ (成尋阿闍梨母)052.ながめわびぬ 秋より外の 宿もがな 野にも山にも 月やすむらむ (式子内親王)053.春風の 霞吹きとく 絶間より 乱
日の うららにさして ゆく舟は 棹の雫も 花ぞちりける (紫式部)035.もろこしも 天の下にぞ 有りと聞く 照る日の本を 忘れざらなむ (成尋阿闍梨母)036.吹く風を 勿来の関と 思へども 道も狭にちる 山桜かな (源義家)037.み山木の その梢とも 見えざりし 桜は花に
うららにさして ゆく舟は 棹のしづくも 花ぞちりける (紫式部)020.もろこしも 天の下にぞ ありと聞く 照る日の本を 忘れざらなん (成尋阿闍梨母)021.吹く風を なこその関と 思へども 道も狭にちる 山ざくらかな (源義家)022.み山木の その梢とも 見えさりし 桜は
あへるは誰も うれしきを 花は色にも 出にけるかな (刑部卿範兼)038.唐土も あめの下にぞ ありときく てる日の本を 忘れざらなん (成尋法師母)039.君が代は 千尋の底の さゞれ石の 鵜のゐる磯と 顕はるゝまで (三位源頼政)040.神こそは 野をも山をも 造りおけ 人
A. 成尋は平安時代中期の天台宗の僧です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B0%8B
嶋氏などがある。多田氏 (武蔵国) : 武蔵七党の小野姓横山氏(猪俣氏)[21]一門の中条氏の庶家[22]。多田忠明[23](中条義勝/法橋成尋/式部大輔)を祖とする[24]。武蔵国北埼玉郡中条郷多田村[25]を本拠地とした。同族に出羽国の小田島氏、庶家に陸奥国の和賀氏・本堂氏[
清きこゝろは 月ぞてらさむ*12 (菅贈太政大臣)=菅原道真013.もろこしも 天の下にぞ ありときく 照る日の本を 忘れざらなむ*13 (成尋法師母)014.仰ぎ来て もろこし人も すみつくや げに日の本の 光なるらむ*14 (逍遥院内大臣)=三条西実隆015.山はさけ 海はあ
実際は、和賀氏の遠祖は武蔵国の武蔵七党であった小野姓横山氏(猪俣氏)一門の中条氏流の多田氏の庶家で、頼朝に仕えた御家人の中条義勝[4](法橋成尋/式部大輔忠明)の次子の成季(義季/入道西念)と記されている。成季は母方の叔父である相模国の和田義盛(碓井貞光の後裔で三浦氏(御浦氏)一
道雅集藤原家経朝臣集伊勢大輔集弁乳母集入道右府頼宗公集(藤原頼宗)玉藻集(相模)藤三位集(大弐三位)小馬命婦集出羽弁集時明朝臣集(藤原時明)成尋阿闍梨母集範永朝臣集(藤原範永)経衡集(藤原経衡)源頼実集橘為仲集四条宮下野集経信卿母集桂大納言歌集(源経信)田上集(源経信)津守国基集
のひょうえ)祥子内親王(しょうしないしんのう)少将内侍(しょうしょうないし)→ 後深草院少将内侍性助入道親王(しょうじょにゅうどうしんのう)成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃり の はは)正徹(しょうてつ)上東門院中将(じょうとうもんいんのちゅうじょう)聖徳太子(しょうとくたいし)肖