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旧川原石駅跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧川原石駅跡川原石駅は呉線の駅川原石駅は昭和10年の三呉線(呉線全線)開通の際に昭和10年に設置された駅です。呉駅と吉浦駅の間に作られた駅ですが位置的には呉駅側に近い東川原石町に作られました。しかし、開業から僅か5年後の昭和15年に燃料事情の悪化により休止となりました。太平洋戦争

呉線の架道橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

川原石第四橋梁川原石駅と吉浦駅の間にあります。呉線開通当時から残るレンガ造りのトンネルで、川原石駅と吉浦駅の間は地平より高い位置に線路があるためこの上を呉線が通っています。呉線開通当初はこのトンネル内に水路もありましたが、現在は暗渠にしてあるため通路のみとなっています。写真で見る

川原石の民家の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

川原石の民家の防空壕跡川原石駅近くにある港町小学校(旧川原石小学校)の下にあります。地元住民の方にお聞きすると民家の防空壕跡とのことです。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作っ

呉線の目隠し板の支柱 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉線の目隠し板の支柱呉線の吉浦駅と川原石駅の間にあります。呉線の車内から呉港が一望できる線路沿いに建てられた目隠し板のコンクリート製支柱で、太平洋戦争中まで車窓の高さに目隠し板が立てられ車内から呉湾が見れないようになっていました。「景色が良いのになぜ隠す必要があるのか?」という疑

地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ

支柱 両城の200階段 両城の防空壕跡 金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台) 大麗女島 海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部) 新宮防空砲台跡 旧川原石駅跡 魚見山隧道 海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場) 川原石の民家の防空壕跡 吉浦の防空壕跡 狩留賀浜(巡洋艦磐

呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡二川公民館の奥にあります。この辺りは海軍軍需部第三区と呉海軍工廠第八区があったところですがこの岸壁が何に使われていたのか不明です。コンクリートの質と金属の具合から戦前もしくは戦中のものと思われます。築地町は旧築地中央工場の辺りも海軍軍需部第二区

呉線の廃トンネル - 呉市周辺の遺構まとめ

たが複線化は行われず、線路は単線のまま電化となりました。つまり、トンネルだけ新しくなって線路は単線のまま現在に至ります。旧両城トンネル呉駅と川原石駅の間(大歳神社の下)にあります。右側が現在の線路で旧トンネル内は天井のレンガが見えますが旧線路跡は畑になっています。この両城トンネル

魚見山隧道 - 呉市周辺の遺構まとめ

魚見山隧道(うおみざんずいどう)魚見山隧道は国道31号線にある川原石と吉浦を結ぶ860mのトンネル。呉市から広島市に向かう道路のトンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1

宮原4丁目の民家の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

いう坂の町である呉市ではよく見られる光景です。※この遺構は現存しません 備考 ・現在は取り壊されており現存しない ・川原石にも民家が取り壊されて防空壕跡だけ残っている川原石の民家の防空壕跡がある ・宮原町には他にも宮原7丁目の防空壕跡と宮原9丁目の防空

呉線 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

専などの最寄り駅。呉…快速停車駅。呉市の中心駅にして呉港の最寄駅。2013年から列車到着時に『宇宙戦艦ヤマト(作品)』が流れるようになった。川原石…一応、海上保安大学校に一番近い駅。かるが浜…狩留賀海浜公園はすぐ近く。天応…奈良時代の元号と同じ駅名だが読みは「てんのう」。吉浦…快

狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

され現在は呉市を代表する海水浴場となりました。また、最寄り駅のかるが浜駅は昭和3年に夏季臨時停車場として設置のが始まりで、それ以前は吉浦港か川原石港から船で海水浴に来るのが一般的でした。かるが海浜公園の防空壕跡かるが海浜公園に残る防空壕跡半島の南側は旧海軍軍需部乙廻燃料置場があっ

呉市電車庫跡変電所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

0年に電化され日本で6番目の路面電車『呉電気鉄道』となりました。実は路面電車で有名な広島市の広島電鉄よりも早い開通でした。当初は呉駅から西の川原石までの路線は呉電気鉄道が運営し、呉駅から東の長浜までの路線は『芸南電気軌道』という別の会社が運営していました。その後合併や譲渡が何度か

呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上陸場) - 呉市周辺の遺構まとめ

のはずでしたが、事情が事情ゆえ衛兵が厚意で家族を入れたのではないかという話が残っています。なお、明治20年から太平洋戦争終戦まで民間船は西の川原石港か東の阿賀港でないと入港できませんでした。つまり、民間人や民間貨物が海路で呉市街地に行く場合は、どちらかの港で降りて陸路で行く方法し

呉湾 - 呉市周辺の遺構まとめ

水路軍機第232號 呉湾昭和7年に海軍省水路部から発行された海軍の軍事機密が記載された呉湾の地図当時の市販地図では白く塗りつぶされている呉鎮守府・海兵団・水雷団・軍需部・海軍工廠引き込み線・二河川より海側が記載されています。さらに、太平洋戦争中の昭和19年に艦艇の錨泊場所も追記さ

床下式防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

床下式防空壕跡川原石の古い民家に残るめずらしい床下防空壕跡太平洋戦争初期の防空壕は、各家庭でこのような家屋の床下や庭に家族が入る分の防空壕が作られました。一般的なものは、深さは約1.5mで床下に穴を掘って板を置き土をかぶせるという作り方でした。この防空壕跡も家屋の奥まで続いていま

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