三国志平話 - なんでもある Wiki
『三国志平話』(さんごくしへいわ)は、魏、呉、蜀漢の三国の争いについてまとまった形の白話文学としては最古の書物。(平話)。各ページの上に絵が描かれ、下に文章が書かれている。元代に刊行された『全相平話五種』に『新刊全相平話三國志』の題で収められている。上・中・下3巻。小説『三国志演
『三国志平話』(さんごくしへいわ)は、魏、呉、蜀漢の三国の争いについてまとまった形の白話文学としては最古の書物。(平話)。各ページの上に絵が描かれ、下に文章が書かれている。元代に刊行された『全相平話五種』に『新刊全相平話三國志』の題で収められている。上・中・下3巻。小説『三国志演
ン・虞美人とのロマンスまであるし……こういうところも劉邦の不人気(あくまで項羽に比べて)に一役買っているだろう。実は三国演義の初期プロット「三国志平話」にも登場している。が、それは呂后とともに韓信・彭越・黥布を粛清した罰で、劉邦は献帝に、呂后は伏皇后に転生し、韓信生まれ変わりの曹
た北宋末期のお話も南宋の後期には語られるようになっていたらしい。これらの講談師の語る種本として出回っていた文芸を整頓したのが元代に出版された三国志平話や大宋宣和遺事であり、これがそれぞれ明代にさらにブラッシュアップされ三国志演義・水滸伝として昇華されることとなる。史学北宋代の欧陽
極めた元雑劇、白話小説などでも度々美味しい役どころをもっていっている。この時代の三国志創作の典型例として、演義のプロトタイプと言われる小説『三国志平話』がある。平話に登場するホウ統は▼「×相応しい待遇を与えないと役に立たない ○相応しい待遇を与えないと有害」当時ちゃんとした脚本や
『東観漢記』、『元本』[19]、林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとにして下記のように推測検証をしてみる。 『三国志平話』および『三国志演義』のもととなった『山西通志』『花関索伝』『關大王獨赴單刀會』『聊斎志異』に登場する周倉[20]と同人物といわれ
ける趙雲は、諸葛亮や関羽、張飛といった主要人物に匹敵するほど扱いが重くなっている。この時点で■張飛や関羽と同レベルの戦闘力を誇り、武器は槍(三国志平話では涯角槍*11という名前がつけられてたが、演義には採用されなかった)。■短気で乱暴な張飛、義理堅いが尊大な関羽に対し、実直で冷静
当然ながらそれにふさわしい強さが与えられた。いや、むしろこの時代の黄忠はそれ以上だったと言えるかもしれない。プロトタイプ演義とでもいうべき「三国志平話」では、黄忠は仲間になる際、魏延(強キャラ)、関羽(強キャラ)、張飛(チート)の3人を同時に相手取って互角に撃ち合うという凄まじい
に北宋の時代には劉備と蜀漢を善玉、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録がある。この講談は「説三分」とよばれた。元代には『全相三国志平話』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。『三国志演義』は元末・明初に成立したと考
おり、蘇轍の『三国論』によると、世間の人は孫権や劉備は曹操に及ばないと思っていたという。南宋から元の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したも
A. 三国志平話は、中国の三国時代の歴史物語です。三国時代とは、魏・呉・蜀漢の3つの国が争った時代で、その歴史物語をまとめた白話文学としては最古のものです。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%9
)は、古代中国の三国時代を扱った書物で、題材として採った派生作品も多数存在する。三国志 (史書) : 3世紀に書かれた陳寿の紀伝体の歴史書。三国志平話 : 別称は『新刊全相平話三国志』。宋(南宋)代に書かれた通俗小説。元代に刊行された『全相平話五種』に収められている。劉封が関羽・
としては最底辺の庶民によって創作されたものであり、前述の通り歴史物語と呼ぶにはあまりに荒唐無稽なものであった。演義の原型とも言われる元代の『三国志平話』でも関索は登場しているが、これは南蛮征伐の時に「反乱軍の呂凱が3万の兵を率いて城から打って出たが、関索に倒された」というシーンの
き、諸葛亮が瀘水の「水神」の御前に霊魂を静める上奏文を読み上げると、間もなく瀘水は収まった」と記されている(習鑿歯著『漢晋春秋』)。これは『三国志平話』『三国志演義』でも採用された。もちろん北宋の司馬光(字:君美⇒温公)の『資治通鑑』にも採用されている。↑ 高定元の都督・李承之と
り彼は「魏延は前漢の韓信のような人物であろう…」と述べている。その他のエピソード[]魏延の非業の死に関する『石人石馬』という伝奇的な逸話が『三国志平話』か何らかに記されているようである。それによると、魏延父子が漢中郡に逃亡する前に楊儀の命で馬岱に殺害されたときのことである。首がな
弟、劉瑁(叔玉)・劉璋の同母弟[3]。劉珍 (隋) : 隋の道士。蜀州什仿県(什邡県)[5]の人。脚注[]↑ 現在の湖北省棗陽市蔡陽県↑ 『三国志平話』(二階堂善弘・中川諭(翻訳)/光栄/1999年)より。 ↑ 3.03.1 『元本』(『元大徳九路本十七史』)より。↑ 現在の湖北
測される。↑ 実際に、「七縦七擒」の故事自体を疑う後世の歴史学者も多いのは事実のようである。↑ 前述の習鑿歯の『漢晋春秋』の逸話は、後世の『三国志平話』や『三国志演義』にも大いに採用されている。また、習鑿歯は諸葛亮の親友であり、南陽郡襄陽県(西晋以降は南陽郡を三分し、北は南陽郡・
嫁いで、その間に息子(鄧芝の従弟)を産んだという見方もある。↑ または鄧県(西晋以降は義陽郡と改称される。現在の河南省南陽市新野県)。↑ 『三国志平話』『三国志演義』↑ 『正史三国志群雄銘々伝』(坂口和澄/光人社/2005年)および『正史三国志 英雄奇談』(坂口和澄/角川学芸出版
)で、侯の地位を召し上げられてしまった。劉貞はその後、封地であった涿郡に豪族として代々住居していたという。三国志演義での系譜[編集]また、『三国志平話』および『三国志演義』では『三国志』同様に「陸城亭侯」とされ、子の劉昂は沛侯、孫の劉禄は漳侯、曾孫の劉欒は沂水侯、玄孫の劉英は欽陽
寿の『三国志』の注釈である裴松之が紹介した民話も含めた多くの各文献を参考にしたものである。また東晋の范曄の『後漢書』と南宋代の通俗講談書の『三国志平話』[2]の逸話の要素なども折り混ぜて、歴史の史実をベースとしながら、通俗講談書の要素が濃い作品として仕上げた。『三国志演義』が陳寿
1.01.11.21.3 『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書)より。↑ 『三国志平話』(二階堂善弘・中川諭(翻訳)/光栄/1999年)より。↑ 現在の湖北省潜江市↑ 現在の四川省広漢市雒県↑ 現在の山西省晋城市高平
同様)景帝-長沙定王劉発-舂陵節侯劉買-鬱林太守劉外-鉅鹿都尉劉回-南頓県令劉欽-斉武王劉縯-北海靖王劉興-臨邑侯劉復-臨邑侯劉騊駼一方、『三国志平話』および『三国志演義』では、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜では劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉
人間離れしていく。ついでに「旗揚げするにあたり未練を断ち切るためお互いの家族を張飛と交換殺人」というとんでもない設定になってたりもするが…『三国志平話』では鍛冶屋が刀を打っているときに青龍が飛び込んで一体化し、青龍偃月刀となったという伝説が描かれ、『花関索伝』では大岩をどかして青
徐庶は人気という点ではやはり相当なものだったようで、これ以降「三国志のキャラ」として本格的な脚色が施されていくことになる。例えば元代の小説『三国志平話』では、初めて「軍師としての徐庶」というキャラ付けが現れている。もっとも当時の講談/小説らしく、軍師と言っても戦略や戦術を考えたり
会』にでてくる周倉で、こちらは関羽の従者として魯粛との会談で発言するという、演義とほぼ同じポジションの周倉である。しかしもう1つの白話小説『三国志平話』では、周倉は孔明の北伐の時期にその部下として登場するという、関羽とは全く関係のない蜀の一武将として登場している。この為周倉は「元
ャラという側面が強い。このため曹真の役割やキャラは既に演義に登場した時点で完成の域に達しており、現代にいたるまで変化はほとんど見られない。『三国志平話』演義のプロトタイプとも言われる元代の小説だが、曹真はまだ影も形もない。もっとも、「北伐で孔明のやられ役&司馬懿の噛ませ犬」になる
流石に開き直って正当化はできず、責任は全て下っ端(&実行犯)の成済に押し付けて一族皆殺しにする形で収めたが。*9 というか演義の前身である「三国志平話」では実際に神様の使いだった
黄蓋らと共にようやく名前が出てくるようになった。……が、やっぱりまだまだ影は薄かったと言わざるを得ない。この頃、後の演義のご先祖様にあたる「三国志平話」が誕生しているが、夷陵の戦いの主将は関羽討伐から引き続き呂蒙(寿命が延びたらしい)であり、陸遜は登場こそするもののオマケに近い。
らないお人好しで、しかし道義心が極めて強く、曹操の不義を憎む正義漢」という昭和特撮的正義漢といったキャラ付けをされている。宋代に編纂された「三国志平話」では、項羽との戦いで功績を上げながらも劉邦に粛清された「梁王」彭越の生まれ変わりとされた。・三国志演義そして明代。それまでに蓄積
かな体育会系脳筋として曹操さん家の伝統的な人気キャラ。曹魏のプラス方面創作補正を一手に引き受ける勢いで、いわば魏の張飛的な愛され武将である。三国志平話演義の原型ともいえる平話では劉備陣営以外は非常に適当な扱いなのだが、人気者の曹彰はしっかり登場(漢字間違えられてるけど)。江陵の城
、司馬顒は部下の名将張方の首を手土産にするという「ウチの軍団弱くなりました」と示すに等しい愚策をやっている。*21 三国志演義の元ネタである三国志平話や、羅貫中が演義からカットした部分には、彼が劉備の子孫であり漢を名乗ったのは正統性があるような話が書かれている……が、苗字が同じだ
ことも度々で、実はハーレムで有名な弟さんより嫁が多いぐらいである。父親の死後も生き延びて活躍する作品も多く、夷陵などで大暴れすることも。●『三国志平話』演義の直截的な原型となったお話。この頃の関平はまだ雑劇や講談の影響が強く、養子という設定もないし、父と一緒に死ぬこともない。関羽
蒋琬・費禕・姜維鄧張宗楊伝 : 鄧芝・張翼・宗預・楊戯三国志演義の作成[]後世の元末~明初の羅貫中(羅本)と言う人が、南宋期の通俗講談書の『三国志平話』と上記の三国の伝承・地方史などの野史と『後漢書』も含め参照した、自己満足?ともいえるパロディの『三国志演義』を作成している。脚注