曹操

ページ名:曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。

羅貫中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。

曹操
後漢

魏王・丞相・冀州牧

出生永寿元年(155年)

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)

死去建安25年1月23日(220年3月15日)

豫州河南郡洛陽(現在の河南省洛陽市)

拼音Cáo Cāo(ツァオ・ツァオ)
孟徳
諡号武王→武皇帝
廟号太祖
別名幼名:阿瞞、吉利
主君霊帝→少帝弁→献帝
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目次

経歴[編集]編集 | ソースを編集

名門・沛国曹氏[編集]編集 | ソースを編集

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曹氏系図 父は曹嵩。中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の丞相であった平陽侯曹参とされる。また、曹嵩の実家という説がある夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。もし、曹嵩が夏侯氏の出であれば、彼の挙兵時から従軍した夏侯惇・夏侯淵らは従兄弟にあたることになる。裴松之が引く『曹瞞伝』及び郭頒の『世語』などによると、曹嵩はもともと夏侯氏であったというが、陳寿は『三国志』の本文では曹操自身は「出自不詳」としている。

なお曹騰には兄が3人居り、長兄・曹褒の孫が曹仁である。また次兄の子に曹鼎が居り、その孫が曹休・弟の子が曹洪である。

治世の能臣、乱世の奸雄[編集]編集 | ソースを編集

曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。

20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。

洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。

光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。

中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。

故郷にいるとき、王芬・許攸・周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹・霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った。

反董卓連合軍[編集]編集 | ソースを編集

後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官(十常侍)を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばした。曹操はこの宦官粛清計画を非難している。

大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となった。中平6年(189年)8月27日、首謀者の何進が段珪に殺されるも、袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。

しかし、大宦官の曹騰の孫である曹操にとっては、安定して出世する事が出来たはずであった未来もまた、同時に失われたとも言える。

何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は妻子も連れずに洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った(その間卞夫人らは袁術に面倒を見られている)。

この帰郷の際、真偽不詳ながらも有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。また『異同雑語』では、このとき曹操が「俺が他人に背こうとも、他人が俺に背くのはならぬ」と言ったとされる。小説『三国志演義』では、この発言を「俺が天下の人間に背こうとも、天下の人間が俺に背く事は許さない」とし、曹操から陳宮が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。

その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。

この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守の橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。

初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父の曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍であったが、諸侯は自らの利益を重視していたために積極的に攻める者は居らず、逆に恐れを抱き董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、やがて諸侯は互いに牽制を始めることになる。

董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は鮑信や張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために揚州などで徴兵し、兵に反乱を起こされたこともあったが鎮圧し、司隸の河内郡に駐屯した。董卓が長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。

雄飛[編集]編集 | ソースを編集

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初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守任命を上奏された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。

初平3年(192年)春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。同年夏4月、董卓が呂布に暗殺された。また、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた(朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。

袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、初平2年(191年)頃、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。

初平4年(193年)頃、袁術は曹操の兗州に攻め込んだ(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。

この頃、曹操は陶謙に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている

初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。この事は後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺に因り曹操は陳宮に背かれている。

興平元年(194年)夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。

張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は彼が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。

曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧や程昱、夏侯惇などが本拠地を守り抜き、蝗害による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。

このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50万余銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。

興平2年(195年)春、定陶を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は部下に殺された。

この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。

建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。同年2月、豫州西部の汝南・潁川に割拠していた黄巾賊の黄邵や劉辟・何儀らを破り、建徳将軍に任命された。同年6月、鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。同年7月、洛陽に赴き、首都を守護したため、韓暹は逃亡した。献帝は曹操に仮節鉞を与え、録尚書事とし、司隷校尉も担当させた。同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。同年10月、政敵の楊奉を討伐して、後漢政府から追放したため、楊奉は袁術のもとへ逃走した。曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空・車騎将軍に任命された。またこの年、曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している。

建安2年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繡が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繡に先制され、敗れる。この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし、長男の曹昂と弟の子の曹安民と忠臣の典韋を失った。

建安3年(198年)、張繡を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繡を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。

建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繡は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。

関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。

官渡の戦い以後[編集]編集 | ソースを編集

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建安5年(200年)、官渡の戦いで最前線に立って最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。

建安7年(202年)、袁紹が病死し、袁氏の勢力は袁紹の息子の袁譚と袁尚に分裂した。

建安9年(204年)、袁尚の本拠である冀州の鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を攻め落とし、ここに本拠地を移す。同年9月、献帝は曹操に冀州牧を担当させたため、曹操は兗州牧を辞退して返上した。

建安10年(205年)、袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。同年、黒山軍の張燕が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。

建安11年(206年)、袁紹の甥の高幹を討伐し、并州を平定した。

建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓ら烏桓族を討ち、二十数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した(白狼山の戦い)。

曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表・江東の孫権・益州の劉璋・漢中の張魯・関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。

建安13年(208年)春正月、三公制を廃止し、丞相と御史大夫を置いた。同年6月、献帝は曹操を丞相に任命した。同年秋7月、曹操は15万の軍を南下させ、劉表征討に赴いた。8月、劉表が病死した。9月、劉表の子の劉琮は代わって襄陽に駐屯していたが曹操に降伏し、樊に駐屯していた劉備は夏口へ逃走した。曹操は江陵に軍を進めた。そこで荊州を服従させた功績を判定し、荊州の名士韓嵩や鄧義らを任用した。また、益州牧劉璋がはじめて兵を提供してきた。同年12月、長江南岸沿いに進んで劉備を討とうとしたが、劉備との戦いは不利なものとなった(『武帝紀』)。劉備と孫権軍周瑜が力を併せ赤壁で曹操軍を大破すると曹操は長江北岸に引き上げ、鳥林において部将黄蓋の策略による周瑜の火攻めを受け、水軍と陸岸陣地は崩壊した。疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。曹操が撤退すると孫劉連合軍に荊州の大部分を奪われた。

建安14年(209年)春3月、曹操は軍を率いて譙に到着した。秋7月、水路を経て合肥に陣取った。前年、揚州刺史の劉馥が死去していたため、揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設し、軍備を整えた。12月、曹操は軍を率いて譙に帰還した。

建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。赤壁の戦いが終わった後も、曹操軍はその8年間にわたり、孫権軍と巣湖周辺で激戦を繰り広げた。209年-217年間、曹操は四度も総力をあげた巣湖濡須の戦いで敗れて、一時的な勝利はあっても最終的には全て孫権により撃退されている。

建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。

建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。漢中平定後、劉曄と司馬懿は、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。217年末-219年間、曹操軍はその2年間にわたり、漢中を侵攻した。

建安24年(218年)、曹操は劉備討伐のために長安に入った。劉備軍が涼州武都まで兵を進めたが曹洪を派遣し呉蘭らを斬り陽安で徐晃が陳式を破るなど善戦し張飛、馬超らは退走した。一方、劉備本隊は陽平関に入り夏侯淵と対峙した。曹操は漢中の数万住民を長安に移住させ一度帰還した。年が明けると一方漢中を守備している夏侯淵はさらに兵を割き、わずか400の兵で陣の修復に向かった。その隙に夏侯淵が黄忠に討ち取られた(定軍山の戦い)。夏侯淵の仇を討とうと曹操自らふたたび漢中まで出向くも、劉備との間で持久戦が続いた。同年5月曹操は漢中を「鶏肋」と形容し、、攻略を諦めて撤退を命じ、漢中を劉備が領有した。また、劉備の配下武将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の配下武将の于禁・龐徳を捕虜とした。さらに、鄴においては丞相掾の魏諷が関羽に通じて反逆し、さしもの曹操も遷都まで考えるほどであったが司馬懿・蔣済の提案に従い、孫権と同盟を結び、関羽を破った(樊城の戦い)。

建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。

死因[編集]編集 | ソースを編集

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生前の曹操は頭痛持ちで書簡にも散見されるが、死因も現代医学で謂う悪性脳腫瘍と判明しており、現代医学でも治癒は不可能であった。

子孫[編集]編集 | ソースを編集

後世の正史晋書に複数の子孫が立伝されている他、新撰姓氏録や杜甫の杜工部集など、複数の文献に曹操の子孫が登場する。例えば杜甫は友人の曹覇に送った詩「丹青引・贈曹将軍覇」で、「将軍魏武之子孫、於今為庶為清門、英雄割據雖已矣、文彩風流猶尚存」(あなたは曹操の子孫で、今は庶民だが昔は名門だった、三国の群雄割拠の時代は昔のことだが、曹操の文芸や風流の伝統はあなたにも伝わっている)と述べている。日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫がおり、新撰姓氏録には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇[諡雄略。]御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、曹丕(魏文帝)の子孫安貴公が雄略天皇の時に一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている。この一族からは高向玄理が出ている。 2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、復旦大学では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は男系で継承されるため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承していると考えられるためである。

復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに系統DNA検査を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した。

曹髦の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている曹祖義が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。

また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められず、今後の研究の進展次第では曹氏と夏侯氏の血縁関係の定説が覆される可能性が出てきた。

一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる。

陵墓[編集]編集 | ソースを編集

「西高穴2号墓」も参照

曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で発見された後趙時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『元和郡県図誌』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた。

この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に発表、中国社会科学院など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている。

発掘された上あごの歯は虫歯で失ったり欠けたりしているものが多く、死去の際には虫歯や歯周病で多くの歯を失っていた。なお同じ陵墓から発掘された卞夫人(曹操3人目の正室で曹丕の実母)のものと見られる下あごは歯が全て残っていた状態だったとの分析結果があり、卞夫人とは対照的であった。

人物・事績[編集]編集 | ソースを編集

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『南屏山昇月』(月岡芳年『月百姿』)赤壁を前にする曹操

外見・出自[編集]編集 | ソースを編集

曹操の外見は正史には書かれていないが、野史には「形陋」「姿貌短小」とあり、『三国志演義』では、「身長七尺、細眼長髯」(身高161cm、小さい目、長いひげを持ち)に小男として記述されている。陵墓の発掘結果によって、身長は約155cm。また、曹家は名臣曹参の末裔を称しており、父の曹嵩が三公である太尉であったものの、祖父の曹騰が宦官である事から常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた陳琳は、曹操との戦いに向けた檄文の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している。このように、曹操の血筋や家柄は、彼の敵手であった袁紹・袁術ほど、他者に大きく先行するものではなかった。

政治家として[編集]編集 | ソースを編集

曹操は家柄や品行ではなく、才能のある人材を積極的に登用することを求めた。建安15年(210年)に布告した「求賢令」では、呂尚や陳平のエピソードを挙げ、「才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる(唯才是挙)」という登用姿勢を打ち立てている。また『世説新語』軽詆篇によると、荊州の劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、それを自慢していた。だが曹操は荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い」と見なし、屠殺して宴の肴にしてしまったという。

曹操は司空府・丞相府において尚書令の荀彧・中軍師の荀攸らを中心に軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた。袁紹・劉表・劉備・孫権ら同時代の他の群雄は、客将・名士層や豪族を抱きかかえる目的を含めて、評定において従えた程度であったのに対し、曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた。建安七子に数えられる陳琳・王粲・阮瑀・徐幹ら文人は、曹操の秘書として機密を扱った。

「孝廉」には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操や曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。川勝義雄は「曹操の元に多くの名士(主に儒教知識人)が集まり、やがて武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来たとき、政府の(文官系の)重要官職は名士らによって占められた」としている。

農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時、曹操は韓浩・棗祗らに提言された屯田(屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、袁渙の提案や任峻の尽力などにより軌道に乗せることに成功した。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなった。

また強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、朝廷内の意思を統一するため三公を廃止し丞相と御史大夫の復活による権限の一元化、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを再編することを目的とした合併独立などである。さらに建安10年(205年)には、世間の頌徳碑建立の盛行および厚葬の風潮を正し、石室・石獣・碑銘などを造り、豪奢な葬礼を行ない墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発した。

曹操は勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせた。[要出典]これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにするためでもある。[要出典]後漢末・三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操は降伏させた烏桓族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。

渡邉義浩は曹操の税制に注目し、彼がこれを制定しなければ中国は統一国家として機能しなかっただろうとしている。

兵法家として[編集]編集 | ソースを編集

曹操は文章家でもあった、兵書『孫子』を現在残る13篇に編纂したのは曹操である。これは『魏武注孫子』として後世に伝わることになる。また、『隋書』経籍志によると、曹操には『孫子』の他にも、『続孫子兵法』『太公陰謀』『兵書接要』『兵書論要』などの兵法書を著している(いずれも散逸)。

『李衛公問対』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、唐の名将の李靖も参考にしていたが、曹操の著した『新書』という兵法書の記述は分かり難いとしている。また、同書では、曹操が書いた『新書』や『孫子』の注には、「兵を正兵と奇兵に分け、正兵に先に戦わせて、奇兵に敵側面を攻撃させる」と書かれているとある。

朱敬則(中国語版)は『全唐文』にて曹操の策謀を「近古無二」つまりかつて無い事としている。

将軍として[編集]編集 | ソースを編集

曹操は実戦においても用兵に通じ、優れた戦略家・軍略家であった。特に匈奴・烏桓・羌などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できる確かな戦術理論を持っていた。

曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取る事も少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・華佗・孔融・婁圭・崔琰を処刑したり自害させている。

曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。

軍事学者の何去非(中国語版)は、著書『何博士備論』にて曹操を「用兵における第一人者」としている。詩人の王勃も自らの『三国論』にて、彼の用兵を孫武・呉起に準えている。

文人・詩人として[編集]編集 | ソースを編集

曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が有名である。


曹操の詩に関する後世の評価には、南朝梁の鍾嶸『詩品』下巻 魏武帝魏明帝の「曹公古直、甚有悲涼之句」(古直にして、甚だ悲涼の句)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「其言如摧鋒之斧」(その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し)、清の沈徳潜の「沈雄俊爽、時露覇気」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。「月明星稀、烏鵠南飛」の句は宋の蘇東坡の赤壁賦にも引かれまた苦寒行は唐の杜甫の石龕詩に利用されている。中国文学研究者の松本幸男は、曹操従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。

改革開放の父の鄧小平は、三度目の復活を果たした1977年7月、「志在千里、壮心不已」という心境をもらした。老いてなお進取の意気込みを示した言葉は、曹操の「歩出夏門行」亀雖寿(208年頃の作品)という楽府からの引用である。

渡邉義浩はこの中国史上初めての文学活動について、魏王朝を打ち立てる為の政治的な意図も含まれているとし、そしてこの一連の活動によって漢王室を滅ぼす基盤が出来たとする。

その他[編集]

曹操は武芸にも優れており、揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが、曹操は剣を手に数十人を殺し、残りのものは皆恐れをなしたといわれるほど、人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりしたともいう。また曹操は張譲の邸宅に忍び込んで発見された際、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ、その人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかったという。

裴松之が引用する張華の『博物志』では、草書・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことが伺える。なお、陝西省漢中市博物館には、曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。

曹操が後漢の献帝に上奏した酒の醸造法「九醞春酒法」は、現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」の元であると言われている。[要出典]曹操の九醞春酒法に関する上奏文は現存している。

『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。

西晋の文学者の陸機の「弔魏武帝文」によると、298年、陸機は宮中の書庫から曹操が息子たちに与えた遺言を目にする機会を得た。遺言には「生前自分に仕えていた女官たちは、みな銅雀台に置き、8尺の寝台と帳を設け、そこに毎日朝晩供物を捧げよ。月の1日と15日には、かならず帳に向かって歌と舞を捧げよ。息子たちは折にふれて銅雀台に登り、西にある私の陵墓を望め。残っている香は夫人たちに分け与えよ。仕事がない側室たちは履の組み紐の作り方を習い、それを売って生計を立てよ。私が歴任した官の印綬はすべて蔵にしまっておくように。私の残した衣服はまた別の蔵にしまうように。それができない場合は兄弟でそれぞれ分け合えよ」などと細々した指示が書き残されていたという。これを見た陸機は「愾然歎息」し、「徽清絃而獨奏、進脯糒而誰嘗」(死んだ後に歌や飯を供して誰が喜ぼうか)「貽塵謗於後王」(後の王に醜聞を伝える)と批評している。

文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(類稀なる才の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。

独裁者・虐殺者としての曹操と三国志演義での悪役化[編集]

『三国志演義』で挿絵で描かれる、一般的な曹操の肖像画京劇の曹操中国の儺劇の曹操の面(清代)詳細は「三国志演義の成立史#曹操」を参照

曹操没後百年近くたった五胡十六国時代、既に曹操は批判の対象にされていた。曹操の後継政権である西晋を滅ぼした後趙の石勒は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」(『晋書』石勒載記)と痛烈に非難している。しかし、魏の後継政権を称した北魏では、曹操は先代の名君として、『魏書』劉聡伝では「曹武削平寇讎、魏文奄有中原、於有偽孫假命於江呉、僭劉盗名於岷蜀」(曹操は天下を平定し曹丕は中原を支配したが、ニセの孫氏である呉や、ニセ劉氏である蜀が反旗を翻し三国時代になってしまった)とされていた。逆に南朝で編纂された『後漢書』では、曹操を悪人に描こうと史料を改変しており、前述の徐州虐殺のみならず、荀彧を暗殺し、漢王朝を乗っ取った極悪非道の人物として描くことになった。この『後漢書』の曹操悪人説は清の趙翼が高く評価したことから有名になった。趙翼は「実は『後漢書』の記述こそ真実であり、陳寿『三国志』は晋をはばかり嘘を書いた」と『二十二史箚記』で述べた。現代では後漢書の史料改変に逆に疑問の声が投げかけられており、一部では曹操の評価も逆転している。

『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、北宋の説話があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、蘇軾『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。一方、その能力は認められており、蘇轍の『三国論』によると、世間の人は孫権や劉備は曹操に及ばないと思っていたという。

南宋から元の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『三国志平話』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。

その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、大まかな流れは外れないものの蜀漢の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理への訴求と儒教的脚色がなされている。

また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる朱子学が完成されてからは長く官学としての主流となると、三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝金に征服されていたこともあり、中原回復を唱えた諸葛亮を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も非難を受け、曹操は多くの論者によって悪とされたと、『四庫全書総目提要』は論じている。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。『三国志演義』があまりにも読まれすぎた為に、前述の趙翼のような清朝考証学者も演義の影響を受け、劉備を善玉として曹操を悪人にするような解釈をすることが多く、時には正史『三国志』の本文を改ざんして無理な読みにしている例すらあるという。

京劇でも曹操は悪役として扱われ、臉譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。

近・現代の再評価[編集]

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)
この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2


詳細は「貴族 (中国)」を参照

『三国志演義』の影響によって悪役としての評価が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは、再評価が進んでいる。

近代の中国においては、西洋の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの知識人によって再評価された。

特に曹操再評価を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。

批林批孔運動では、儒法闘争史観が主張された。これは中国思想を儒教の系譜(孔子・孟子などが中心)と、道家・法家・兵家・墨家(老荘・韓非子・孫子・墨子等)や王充の二つに分け、儒家を悪の権化として法家を善玉とする史観である。中国共産党からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている。身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては否定的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。その中で、曹操は法家の重要人物として高い評価を与えられた。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようになり、京劇の隈取りも善玉のものに変えるよう政府から指示されたという(前述竹内論考)。

日本では吉川英治が小説『三国志』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を提示した。1962年に吉川幸次郎が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。またそれまで日本語訳の無かった『正史三国志』に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。長年かけ弟子の井波律子らが完訳した。

陳舜臣作『秘本三国志』は、『三国志演義』に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。のちに作者は『曹操』とその続編『曹操残夢』を著した。この他曹操を主役格に据えた作品として、北方謙三作『三国志』がある。漫画作品では吉川英治『三国志』を漫画化した横山光輝作『三国志』や、李學仁原案(原作)・王欣太作画『蒼天航路』が登場し、またコンピュータゲームでもコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から『三國志曹操伝』が発売されている。

歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、京都大学の谷川道雄・川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。曹操の政策として知られる九品官人法は魏晋南北朝時代の貴族制度の前史として言及されることが多い。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、越智重明・矢野主税などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があった[要出典]。また後漢が建国の経緯から豪族のと知識人を糾合した政権であり、統治機能が失われた黄巾の乱以降に、いち早く豪族と知識人を糾合することに成功したのが曹操であり袁紹であった。曹操が袁紹に勝利した要因には上述の九品官人法のような現実的な人材登用制度の採用がある。また屯田制は豪族が土地と農民を所有する制度に対抗するために導入したが、結果として全ての土地が曹氏のものとなった。これはのちの西晋の占田・課田制とそれに続く均田制をかんがみると公地公民制度の端緒といえる。

逸話[編集]

  • 献帝の初平年間(190年 - 193年)ごろに、長沙郡(現在の湖南省長沙市)の人である桓という男が亡くなった。ところが棺に収めてから一ヶ月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえったのであった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである。
  • 魏武帝(曹操)が洛陽に建始殿を建てたとき濯龍園の木を伐採していたところ血が流れでた。また梨の木を移植しようとして根を傷つけたところ血が流れ出た。武帝(曹操)はこれを縁起でもないと嫌な気持ちでいたがやがて病に臥しその月に亡くなってしまった。この年を武帝(曹操)の黄初元年としたのである。

ことわざ[編集]

ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。

說曹操曹操就到、说曹操曹操就到

曹操の話をすると曹操が現れる(説曹操,曹操到)。講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本の「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用される。曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)。後悔するの意味。渡邉義浩は『三国志ナビ』で曰く、傑出した武力を持ち、曹操を一番苦しめたのは呂布で有り、何去非も「呂布は驍勇で有り、転戦するに無敵で有った」と、その事について言及している。

家族[編集]

父母[編集]

  • 曹嵩
  • 丁氏

弟[編集]

  1. 曹徳
  2. 曹彬(薊恭公)
  3. 曹玉(朗陵哀侯)

妻妾[編集]

正室:

  • 劉夫人
  • 丁夫人
  • 卞王后(後、皇后を追贈)

側室:

  • 杜夫人、環夫人、秦夫人、尹夫人(元何進の子の妻)
  • 王昭儀
  • 孫姫、李姫、周姫、劉姫、宋姫、趙姫、陳姫
  • 某氏 (元張済の妻)

子[編集]

兄弟の長幼は不明な部分が多いため、以下は『三国志』武文世王公伝の兄弟順に従う。裴松之はこれが生母の貴賤に拠った順序であると指摘している。

  1. 豊愍王 曹昂(子脩)- 母は劉夫人
  2. 相殤王 曹鑠(早世)- 母は劉夫人
  3. 文帝 曹丕(子桓)- 母は卞王后
  4. 任城威王 曹彰(子文)- 母は卞王后
  5. 陳思王 曹植(子建)- 母は卞王后
  6. 蕭懐王 曹熊(早世)- 母は卞王后
  7. 鄧哀王 曹沖(倉舒)- 母は環夫人
  8. 彭城王 曹據 - 母は環夫人
  9. 燕王 曹宇(彭祖)- 母は環夫人
  10. 沛穆王 曹林 - 母は杜夫人
  11. 中山恭王 曹袞 - 母は杜夫人
  12. 済陽懐王 曹玹(早世)- 母は秦夫人
  13. 陳留恭王 曹峻(子安)- 母は秦夫人
  14. 范陽閔王 曹矩(早世)- 母は尹夫人
  15. 趙王 曹幹 - 母は陳姫
  16. 臨邑殤公 曹上(早世)- 母は孫姫
  17. 楚王 曹彪(朱虎)- 母は孫姫
  18. 剛殤公 曹勤(早世)- 母は孫姫
  19. 穀城殤公 曹乗(早世)- 母は李姫
  20. 郿戴公 曹整 - 母は李姫
  21. 霊殤公 曹京(早世)- 母は李姫
  22. 樊安公 曹均 - 母は周姫
  23. 広宗殤公 曹棘(早世)- 母は劉姫
  24. 東平霊王 曹徽 - 母は宋姫
  25. 楽陵王 曹茂 - 母は趙姫

娘[編集]

  • 曹憲(献帝の貴人)
  • 曹節(献穆皇后)
  • 曹華(献帝の貴人)
  • 清河公主(夏侯楙夫人)- 母は劉夫人
  • 安陽公主(荀彧の長男の荀惲の妻)
  • 金郷公主(何晏夫人)- 母は杜夫人
  • 高城公主 - 母は杜夫人、金郷公主と同一人の可能性がある

従子・族子[編集]

甥もしくは曹操より一世代下の親族

  • 曹安民
  • 曹休
  • 曹真
  • 曹彬
  • 曹遵
  • 夏侯充
  • 夏侯楙
  • 夏侯衡
  • 夏侯覇
  • 夏侯称
  • 夏侯威
  • 夏侯栄
  • 夏侯恵
  • 夏侯和
  • 夏侯尚
  • 夏侯儒

従兄弟・族兄弟[編集]

いとこもしくは同世代の親族

  • 夏侯惇
  • 夏侯淵
  • 夏侯廉
  • 曹仁
  • 曹洪
  • 曹純
  • 曹紹
  • 曹邵?

養子[編集]

  • 何晏(連れ子)
  • 秦朗(連れ子)
  • 曹真(従子とも)


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