平維叙 - 日本通信百科事典
は、平安時代中期の武将で、武家貴族(軍事貴族)でもあった。官位は従四位下・前兵衛尉・右衛門少尉・陸奥守・常陸介・検非違使・上野介。桓武平氏の棟梁である平貞盛の嫡長子[1]で、生母は関口貞信の娘[2]。弟に維将(維正)・維敏・維衡らがいる。妻は藤原忠平(藤原北家)の末娘。子は正五位
は、平安時代中期の武将で、武家貴族(軍事貴族)でもあった。官位は従四位下・前兵衛尉・右衛門少尉・陸奥守・常陸介・検非違使・上野介。桓武平氏の棟梁である平貞盛の嫡長子[1]で、生母は関口貞信の娘[2]。弟に維将(維正)・維敏・維衡らがいる。妻は藤原忠平(藤原北家)の末娘。子は正五位
? - 939年7月(天慶2年6月))は、平安時代中期の武将。通称は上総太郎あるいは、上総次郎[1]。官位は従六位下・上総権少掾。丹姓平氏の棟梁である平直良の庶長子あるいは次男で、生母は家女房である[1][2]。同母弟に良広、異母弟に良将・良文らがいる。目次1 概要2 家族3 脚
大字↑ 忠常の祖母の兄の良望(国香王)の孫という親族関係による。↑ 『今昔物語』↑陽成源氏(河内源氏)の嫡流の源姓鎌倉氏(源家/相模源氏)の棟梁。平忠常が登場する作品[]『平安流風』(桑山泰雄)関連項目[]平将門坂東八氏(房総平氏)先代:平忠頼房総平氏歴代当主-次代:平常将特に記
・直方(たいら の さだかた/なおかた、969年(安和2年)? - 1053年(天喜元年)?)は、平安時代中期の武将。桓武平氏(武家平氏)の棟梁で、摂関家(藤原北家)に仕えた武家貴族(軍事貴族)である。官位は従五位上・検非違使・能登守・上野介・上総介・左衛門少尉。曾祖父は平貞盛、
子)と激突して、父とともに壮絶な戦死を遂げた。享年45[1]。子の義伸は、叔父の久義とともに生き延びて、年長の族子の義仲が没落すると、源家の棟梁である頼朝に帰属して、信濃国筑摩郡岡田郷[2]の地頭・御家人となった。脚注[]↑ 『系図纂要』↑ 現在の長野県松本市岡田大字参考文献[]
兼任(たいら の よしもり/よしまさ/かねとう/かねただ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。官位は従六位上・下野介。桓武平氏(武家平氏)の棟梁である平良望(国香王)と常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘との間の末子(3男)で、異母兄は貞盛、同母兄に繁盛がいる。妻の名は不詳で
蔵))平 貞盛(たいら の さだもり、?[1] - 989年11月16日(永祚元年10月15日[2]))は、平安時代中期の武将で、桓武平氏の棟梁でもある。同時に武家貴族(軍事貴族)であった。『平将門の乱』で外従弟(叔母の子)の平将門を討ち取ったことで著名である。通称は「常平太郎」
八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建てたといわれる。外祖父・義重は治承4年(1180年)8月に挙兵した陽成源氏(河内源氏)流鎌倉源氏(相模源氏)の棟梁・源頼朝に帰参せず、中立を保ったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇された。その一方、義範は叔父の義兼(義康の次嫡子)・母方
り、鎌倉の北条得宗家を中心に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏惣領家の地位は低いものとなった。新田氏惣領家は源家(源姓鎌倉氏)の棟梁の頼朝から源氏御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、逸早
)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田義兼 (大炊助) : 通称は小新田次郎/新田小太郎。初代棟梁の新田義重(足利義康の兄)の次男、里見義俊の弟、世良田義光・世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田義盛(義益)
に移した徳川家は、東海・北陸・関東・南東北地方を統治下として完全に押さえ、名実ともに関東地方の政権を打ち立てた。ここに陽成源氏(河内源氏)の棟梁である源頼朝(右大将家)および、新田義貞を崇拝する父・家康の長年の願いが現実のものとなった。そして、翌々年の1605年(慶長10年)、父
国の未墾地を開発させ、自らが街の開発者となり、地主となることによって勢力を拡大を奨励し、その権利を守るべく武士団を形成し、武家貴族としてその棟梁となった。良望の長男・貞盛とその長男の維叙は相模国高座郡鎌倉郷[5]を本拠地として相模平氏と称したが、後に4男の維衡の系統が伊勢国に基盤
大字↑ 村上源氏とするのは、仮冒とする(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年))。実際は、野武士軍団を率いた「悪党」の棟梁であり、瀬戸内海で海上貿易や海運業で財を成した(『禅僧日記』)。または倭姓の明石国造の後裔とする説もある。↑ 現在の兵庫県姫路市山田町↑
名義範(義節)の長男で、弟に繁家[1]がいる。子は朝家・国長・義房・繁村・義行ら。概要[]文治元年(1185年)10月に、幼くして鎌倉源氏の棟梁・源頼朝が亡き父の義朝(義頼)の霊を弔うために建立した勝長寿院の落慶供養に随兵として、七列の内の六列目に列している[2]。脚注[]↑ 通
氏があった。目次1 概要2 歴代当主2.1 忠頼系2.2 信長系3 脚注4 関連項目概要[]武田信義の子の一条忠頼が、陽成源氏(河内源氏)の棟梁である源家(相模源氏)の当主の源頼朝に警戒されて、その配下の天野遠景[2]の手勢に誅殺された。そのために忠頼の甥の一条信長(石和信光の子
目概要[]家祖の世良田義季は、新田氏惣領家を継いだ新田義兼の同母弟で、新田氏一門でも家格が高かったという。そのため、父が源家(源姓鎌倉氏)の棟梁の鎌倉頼朝が挙兵しても、亡き異母長兄の里見義俊を除いて、同母兄の義兼とともに呼応しなかったために、激怒した頼朝に冷遇されたという。義季の
田荘内の世良田郷得川村(現在の群馬県太田市徳川町)の一部を与えられ、義光はようやく新田氏一門扱いをされたという。後に父・義重が、陽成源氏の大棟梁で源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主の鎌倉頼朝の不興を買って冷遇されたときも、特例として義季らとともに謁見を許されて、義光は御家人の端くれにな
かねた異母兄の里見義俊と異母弟の世良田義季(得川義秀)の計らいで、新田氏一門としての地位を確立させた。その後の義光は、鎌倉に赴いて陽成源氏の棟梁で、源姓鎌倉氏の当主である源頼朝に謁見して、地頭に任じられた。以降は、義光 ― 義有(光氏) ― 長氏 ― 重氏 ― 義政(忠氏)[2]
郎四郎」と称した。父・義季とともに世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中でも勢力を保ったという。1244年、惣領家の新田氏の棟梁・新田政義(頼氏の祖父である義重の曾孫)は京都大番役をやっていたが、自分の官位を昇進する申請を妨害されたことや、北条得宗家の跋扈に憤慨し
屋住みの境遇を憐れんで、父に嘆願して自らの領地である得川郷の一部を兄・義光に与えさせたという。治承4年(1180年)に、源家(鎌倉源氏)の大棟梁である鎌倉頼朝の挙兵に対して、父と同母兄の義兼ととも中立の立場をとったために、冷遇された。承久3年(1221)年、栄西の弟子栄朝を住持に
子)の軍勢と激突して、奮戦したと思われる。その後、義仲が自身の従兄弟の範頼・義経兄弟によって、近江国の『粟津の戦い』で戦死すると、陽成源氏の棟梁である源頼朝(範頼・義経の異母兄)に帰属して、恭順を示したために建久3年(1192年)に頼朝が鎌倉幕府を開くと、地頭・御家人となった。承
村上源氏とするのは、仮冒とする(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による)。実際は、野武士軍団を率いた「悪党」の棟梁であり、瀬戸内海で海上貿易や海運業で財を成した(『禅僧日記』)。または倭姓の明石国造の後裔とする説もある。↑ 庶家に播磨魚住氏・天川氏が
が籠城する播磨国白旗城を攻めた。しかし、陥落できずに、西方にある備前国三石城・備中国福山城・備後国靹尾浦城などが、同族の足利氏(下野源氏)の棟梁の足利尊氏(高氏)方の城砦が配置されており、戦局は芳しくなかった。そこで、義貞は氏経を将として、船坂峠を軍事占領して、三石城を攻略し、さ
北条得宗家を滅ぼした。その戦功で、義政は後醍醐天皇から兵庫頭に任じられ、武者所に属した。その後の義政は、義貞の命で同族の足利氏(下野源氏)の棟梁の足利尊氏(高氏)に帰順して、周防国守護代となった。1338年に越前国藤島の灯明寺畷で義貞が戦死を遂げると、義政はその訃報に悲嘆しつつ、
。通称は五郎[1]。法名は法義入道(ほうぎにゅうどう)。官職は掃部介。合土氏(額戸氏)の祖で、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の初代棟梁・新田義重の5男。子は義賢(別名は額戸氏経/額戸氏綱、経兼・鶴生田時綱(孫三郎)の父)・長岡氏綱(政氏・経氏の父)ら。異母兄は里見義俊(
王)・劉元の子。太子に定められたが、前56年に父が謁者殺害に連座したため、国を除かれて平干王を継ぐことができなかった[1]。そのために任侠の棟梁と称して、多くの豪傑や悪党を率いて跋扈していた。新~後漢初期に土豪の李育・張参とともに統宗成帝(劉驁)の落胤と偽称した「劉子輿」こと占者
家康方。室賀正武 - 徳川家康方、天正12年(1584年)に真田昌幸により斬殺。出浦盛清 - 森長可撤退後、真田昌幸方。甲州透破(三ツ者)の棟梁とされる。木曾郡[編集]木曾義昌 - 徳川家康に臣従。諏訪郡[編集]諏訪頼忠 - 高島城。徳川家康と戦った後に臣従。伊那郡[編集]保科正
。高家の創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫を臣下に従えることにより、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料される。徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方が強い。その後、江戸へ下向した公
A. 在原 棟梁は平安時代前期の貴族・歌人です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A3%9F%E6%A2%81
のも止む無しだが、一方で義理人情に厚く些末な事柄を気にしない大器の側面もまた持ち合わせていた。10歳での服役した際には、才能を発揮し石切場の棟梁となっている。上記の「遺骨の上でおでんを食う」のも、鍋をつかむ手のやけども気にせず全て平らげた上で供養の酒を置いて別れの言葉を残して去る
些細な問題である。マモルヒカリイツキカエデタクミ前作で死亡した後、格の効果により監獄塔遠征の際殉職した『隊長』『先生』『博士』『お母さん』『棟梁』の融合転生体となった五人。ヒカリ以外はナイトメアと同一の存在として生存しているため、小説版では地下に核が残っているか懸けて残留する希望
ろんジャバと対立しているのだが、こうした振る舞いのために、あるいは縄張りの維持のために、やむなく妥協や折衷を強いられていた。総じて、暗黒街の棟梁にふさわしい脂ぎった強欲・性質と、暗黒街の棟梁らしからぬスマートな頭脳・胆力・忍耐を兼ね備えた、文字通り「犯罪王」としか言えない人物。彼
めェのように生意気な奴をなヒグマとは、漫画『ONE PIECE』に登場するキャラクター。【プロフィール】本名:ヒグマ所属:ヒグマ山賊団肩書:棟梁異名:なし懸賞金額:800万ベリー出身:東の海年齢:46歳(12年前) *1身長:190cm 誕生日:11月18日(熊の日) 星座:蠍座
没で個人的に親分たちに助力することもある。ビビとの仲は悪くはないようだが若干苦手にはされている様子。フランキー『フランキー工房』を営む大工の棟梁。『風車』の依頼でサニー号型の神輿を作る。海パンではなく褌スタイル。ブルック記憶喪失の笛吹。音貝トーンダイアルのかわりに笛状の仕込み刀を
田たけしCV:寺崎裕香タマの飼い主で、タマが迷子のたびに貼られる捜索願のポスターは彼の手書き。木曽トメ吉CV:高塚正也トラの飼い主。工務店の棟梁で、パソコンで作った見積書を時々トラがキーボードを占拠してパーにされる。トラの写真もニャンスタに投稿している様子。花咲エミCV:佐倉綾音
でも他の島へ行けるようになった。非常に実用化・建造が難しい代物だったのだが、新世界編では、アイスバーグ率いるガレーラカンパニーが、パウリーら棟梁達が中心となって新たな海列車を完成させている。映画オリジナルでは、『ONE PIECE FILM Z』『ONE PIECE STAMPE
とするヤクザの親分。解放後は、ヤクザ統率班を指揮。◆国民◆花の都港友みなとも(CV:菅原淳一)鬼ヶ島にあるカイドウの屋敷を建てた伝説の大工の棟梁。屋敷図を目当てに弟子入りしたフランキーを数週間働かせていたが、10年程前に屋敷図を質に入れていたことを思い出し、フランキーに話した結果
のモチーフが宗茂さんらしい。嫁が柳川城だし。 -- 名無しさん (2020-12-21 20:39:00) 子供ができないというのは武家棟梁として落第だろうが、兵法面でも内政でも文句なしだった。誰かが言っていたが、本多忠勝より人として上だろう。 -- 名無しさん (202
り着いた。ヘルメットはゲダツ&ゴローの手でコックピットに改造済み。ツルハシを持ってはいるが穴掘りは自分の爪で行う。●森番長マンドリルの大工の棟梁。彼も空番長に敗けたが、空番長不在の間に群れのマンドリルたちと共に立派な温泉施設を完成させた。●法の番犬部隊エニエス・ロビーの一級衛兵を
ュラ童子どうじは漫画『ONE PIECE』の登場人物。●目次【プロフィール】本名:アシュラ童子異名:酒天丸所属:ワノ国光月家家臣→頭山盗賊団棟梁肩書:赤鞘九人男年齢:享年56歳身長:544cm誕生日:4月10日星座:牡羊座血液型:X型(現実だとA型)悪魔の実:なし覇気:武装色(流
で出てきた仮面全てをフルで活用すると言ったギミックに富んだダンジョンとなっている。中ボスも曲者揃いで、テレポートと素早い動きで翻弄するガロの棟梁、「ボス・ガロ」細い道に鎮座し、パンチやビームで攻撃する「アイゴール」溶岩の降る中で戦わなければならないウィズローブ(4回目)死神のよう
「八宝水軍」でブーの兄である、サイに狙いを定め攻撃を仕掛けるが……、八衝拳の門下に入った瞬間から兄弟の情なんか捨てちまったよだが「八宝水軍」棟梁として部下の敵は討たせてもらう!!!弟の仇討ちに燃えるサイに一撃でKOされ、脱落となった。その後、他の選手と共にオモチャにされてしまう。
イムスリップした組である。侍ナメんなよ…!!◆アシュラ童子どうじ身長:544cm好物:きんちゃくもち(おでんの具)CV:飛田展男頭山盗賊団の棟梁を務める大男。でっぷりとした腹と桃色のアフロヘアー、頭頂が木の形をしているのが特徴。現在は酒天丸という名前で通っている。詳細はアシュラ童
機の「パッフィング・トム」と、1号機完成以前の失敗作「ロケットマン」の2台が登場したが、新世界編までの2年間でガレーラカンパニーのパウリーら棟梁達が中心となって新たに2号機「パッフィング・アイス」を建造している。また映画オリジナルではあるが、『ONE PIECE FILM Z』『
液型:X型(現実だとA型)初登場・単行本3巻・第23話・『キャプテン・ウソップ登場』好物:バナナCV:橋本晃一 (ドレスローザ編では八宝水軍棟梁サイを担当)ドラマ版:アレクサンダー・マニアティス【本性】上記の経歴や性格も全てはカヤを抹殺し財産を奪い取る為の演技。実際の彼は長年一緒
登録日:2017/01/18 (曜日) 20:17:00更新日:2024/02/16 Fri 13:21:17NEW!所要時間:約 ? 分で読めます▽タグ一覧私自身がプリズンへ直々に向かわねばならん。ウミノが抱えるのは、それほどまでに重大な秘密だ重大な秘密なのだ……わかるね?へえ
国の至上絶対支配者。その正体は謎のノーレンに包まれており、故意・過失問わず少しでも触れてしまった者は自我さえも抹消される。グランドマスター(棟梁)ザイバツの最高幹部階級であり、実質的なザイバツのトップ。皆一様に凄まじいカラテの持ち主で占められているだけでなく、知的教養も完璧な文武
目立つ(まぁむしろあの状況で生き残っただけでもすごいのだが)。その後は直接戦場に立つことはなく、貴種の血統と貴族とのコネをフル活用し「武士の棟梁」としての立場を高めることに終始し、結果的に鎌倉幕府の雛形を作り上げたことで有名。ただし、親族や部下を粛清しすぎた結果、妻の実家(および
WARSシリーズ(映画)]]のネタバレはいつ解禁するのか」にて、作中作の「ズダー・ウォーズ」に久々の登場。宇宙にアンコ主義を広める暗黒帝国の棟梁として登場するが、久々の登場にテンションが上がり前線に突撃したため、ラスボスの座は四国めたんと中国うさぎに譲ることとなった。なお、アンコ
しらの弱体化がかかってるようだ。武器は大剣。千鶴(ちづる)CV:立花日菜キャラクターデザイン:ササギコウシかつて相麿の国で泰党と呼ばれた賊の棟梁、万守山右衛門の娘の戦神子(魔法少女)。イベント『ピュエラ・ヒストリア 神浜の戦神子編』で実装。期間限定☆4。名前は水名露と同じく以前か