ヨシフ・スターリン

ページ名:ヨシフ・スターリン

ヨシフ・スターリン

出生名

Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли

生誕

1878年12月21日

死没

1943年3月5日

役職

ソビエト連邦第二代書記長

国家

ソビエト連邦

民族

グルジア人

イデオロギー

マルクス・レーニン主義

政党

全連邦共産党


ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリン(本名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ユガシビリ 1878年12月18日. 12月6日] – 1943年3月5日)は、ロシア帝国下のグルジアのゴリに生まれたソビエト連邦の政治家。ソビエト連邦第二代書記長である。彼は、トロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。また、第一次五か年計画を推し進め、多数の飢餓を出しながらも強制的に集団農場に移行した事から残忍な人物や「鋼鉄の男」として呼ばれている。

しかし、1934年にセルゲイ・キーロフの暗殺に失敗すると暗殺未遂に関する責任を追求され、党内での権威をみるみるうちに縮小していくこととなり、彼は党の中枢から外されることとなる。その後指導者となったキーロフの下で彼はシベリアの収容所へと送られ、1943年の3月5日。ソビエト政府が独ソ戦に注力している際に彼は静かにその一生を終えることとなる。

目次

初期の経歴 (1878–1917)

1878年12月21日(ユリウス暦では12月9日)にグルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)、ロシア語名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Джугашви́ли)として、ロシア帝国下のグルジアのゴリに生まれた。父のヴィッサリオン・ジュガシヴィリはゴリに工房を構える靴職人、母のケテワン・ゲラーゼはレンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった。スターリンは両親の第3子であったが、2人の兄は幼児期に死没していたため、実質的には長男として育てられた。

スターリンの生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった。父のヴィッサリオンは靴職人として成功しており、一時は工房で10人の従業員を雇うほどの経済的余裕があったが、伝統的なグルジア様式の靴への需要が減ったことで事業は行き詰まった。飲酒に逃避したヴィッサリオンはアルコール依存症を患い、しばしば妻や幼い息子に暴力を振るうようになった。1883年までにケテワンはスターリンを連れてヴィッサリオンの家を離れ、母子はその後10年間で9回も転居を繰り返す流浪の生活を始めた。1886年、2人は親交のあったクリストファー・シャルクビアーニ(Christopher Charkviani)司祭の家に居候を始める。ケテワンは掃除婦や洗濯婦として働き生活費を稼ぐ一方で、息子に学校教育を受けさせることを強く望んでいた。

1888年9月、シャルクビアーニ司祭の取り計らいによりゴリの教会付属学校に入学することを許された。入学後のスターリンは他の子供たちと頻繁に喧嘩したが、学業の面では極めて優秀な成績を残した。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車にはねられて大けがを負い、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。母のケテワンはスターリンが学校に入ったことを大いに喜んだが、父のヴィッサリオンは息子に靴職人を継がせることを望んでおり、学業には反対していた。ヴィッサリオンはケテワンに「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と溢しており、息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなどの抵抗を続けていたとされる。スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ。

1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり、カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され熱心なマルクス主義者となった。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈禱の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた。1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった。

・革命家への転身

1899年10月、スターリンはトビリシ気象台の気象局員として働き始める。勤務の傍ら、社会主義理論の宣伝活動を行って多くの支持者を引きつけ、1900年のメーデーには大規模な労働者の秘密会合を組織し、ストライキを呼びかけて実際に決行させた。ロシア帝国の秘密警察であるオフラーナは、トビリシの革命的運動におけるスターリンの暗躍を察知し、1901年3月には逮捕を試みたが、スターリンは逃走に成功し、以降は地下に潜って活動を行った。これ以降、スターリンは友人や支持者からの寄付金に頼って生活し、潜伏期間中スターリンは1901年のメーデーにおけるデモ活動の計画に携わり、メーデー当日には約3000人のデモ参加者が当局と衝突する事態となった。 1901年11月、スターリンは1898年創立のマルクス主義政党ロシア社会民主労働党(RSDLP)のトビリシ委員会委員に選出され同月、スターリンは港湾都市のバトゥミに移動し、そこでは、自身の好戦的な主張によって当地で活動するマルクス主義者らの間に不和が生じたため、一部ではスターリンを帝国政府から送り込まれた煽動者であると疑う向きも現れた。ロスチャイルド家が運営するバトゥミの製油所で雇われたスターリンは、その職場で労働者のストライキを2度にわたって共謀し、実行させた。ストライキを首謀したうちの数人が逮捕された後、スターリンは大規模な抗議デモを組織したが、デモ隊が監獄を襲撃したことで軍隊が参加者に発砲し、13人のデモ参加者が死亡する事態となった。犠牲者たちの葬儀の当日、スターリンは再び大規模な抗議デモを組織したが、1902年4月、ついに当局によって逮捕された。当初、スターリンはバトゥミ監獄に収容されていたが、後にクタイシ監獄に移送され、1903年中頃には東シベリアへの3年間の流刑を宣告された。

1903年10月にスターリンはバトゥミを離れ、11月末にシベリアのノヴァヤ・ウダ(Novaya Uda)という小さな街に到着した。スターリンは2度にわたりノヴァヤ・ウダからの脱走を試みたが、最初の脱走は失敗に終わり、バラガンスクに到達したところで凍傷のため引き返した。1904年1月、スターリンは2度目の脱走を試み、今度はトビリシまで戻ることに成功した。トビリシに戻った後、スターリンはフィリップ・マハラゼと共同でマルクス主義の新聞『プロレタリアティス・ブルゾラ』の執筆を行う。スターリンが流刑になっている間、ロシア社会民主労働党はレーニン派の「ボリシェヴィキ」と、ユーリー・マルトフ派の「メンシェヴィキ」という、対立する2つの派閥に分裂していた。スターリンはグルジアで活動する多くのメンシェビキ党員を忌み嫌い、自らはボリシェヴィキの側についた。その後、スターリンは鉱山の街チアトゥラにボリシェヴィキの拠点を確立したが、グルジアの革命運動においてはメンシェヴィキが圧倒的な多数派であり、ボリシェヴィキは少数派の勢力であり続けた。

・ロシア第一革命

1905年1月22日、首都のサンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生した時、スターリンはロシア帝国領アゼルバイジャンのバクーにいた。事件に端を発する動乱はすぐにロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へとつながった。1905年2月、スターリンが滞在するバクーでもアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で衝突が起こり、最低でも2000人が死亡する民族紛争が勃発した。紛争の最中、スターリンは配下の者を武装させてボリシェヴィキの戦闘部隊を組織し、バクー市内で両民族が衝突するのを防ぐように命じ、その一方で動乱に乗じて街から印刷機材の強奪を行わせた。その後グルジア全域に動乱が拡大するとスターリンはさらに多くの戦闘部隊を組織したが、それはメンシェヴィキも同様だった。スターリン配下の部隊は各地の警察や軍隊を武装解除させ、帝国政府の兵器庫を襲撃し、またコサック軍や黒百人組に対しても戦闘を仕掛け、時にはメンシェヴィキ系の民兵と共闘することもあった。活動資金を調達するため、スターリンの部隊は各地の商店や鉱山からみかじめ料をゆすり取っていた。この年、スターリンはトビリシにて自身と同じくグルジア出身で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼと出会う。

1905年11月、スターリンはグルジア・ボリシェヴィキの代表団の1人に選出され、サンクトペテルブルクで開催されるボリシェヴィキ協議会に出席することになった。サンクトペテルブルクに到着したスターリンは、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤから開催地がフィンランド大公国のタンペレに移動したことを告げられ、この1905年のタンペレ協議会において、スターリンは初めてレーニンと出会ったような気がした。。スターリンはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった。スターリンはドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対し、スターリンはレーニンに認められた。スターリンはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキーや、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。スターリンはレーニン達との協議後、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻り、トビリシにおいてスターリンとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ(Fyodor Griiazanov)の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。スターリンは金品強要、銀行強盗、資金強奪などの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。1906年4月、スターリンはロシア社会民主労働党第4回大会に出席し、この大会で将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決され、この決議は資金集めの手段として銀行襲撃を行っていたスターリンを動揺させた。

1906年7月、スターリンはエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、グルジアのセナキで教会式を挙げた。1907年3月、スワニーゼは長男のヤーコフを出産した。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、スターリンはこの年までに「グルジアの有力ボリシェヴィキ」として頭角を現していた。スターリンは1907年5月から6月にかけ、ロンドンで開かれた第5回ロシア社会民主労働党大会(英語版)に出席した。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキのヘゲモニー強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。スターリンは当地でレフ・トロツキーと初めて出会い、スターリンはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した。

・チフリス銀行強盗事件

党大会の後、スターリンはトビリシに戻り大規模な強盗計画(1907年チフリス銀行強盗事件)を準備した。1907年6月26日、スターリンの一味は武装した現金輸送隊をエレヴァン広場で待ち伏せし、発砲と手製爆弾による襲撃を行った。警備側の死者はおよそ40人で、一味は25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持って広場からの逃走に成功する。スターリンは計画全般を指揮していたが、実行には参加していない。この銀行強盗の後、スターリンは妻子を連れてバクーに移り住んだ。銀行強盗を禁止していたメンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査させ、事件は以後スターリンに難儀をもたらすが、党からの追放は免れた。国立銀行からの強奪を成功させたことがスターリンがレーニンからの信頼を得る契機となったと評する見方もある。同年8月、スターリンはドイツのシュトゥットガルトで開催された第二インターナショナル第7回大会に参加した。

1907年11月22日、チフスに罹患していた妻のエカテリーナが病死し、エカテリーナの死はスターリンに深い悲しみを与えた。スターリンは友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語っている。妻の死後、息子のヤーコフをトビリシに居る彼女の親族に預け、革命活動を再開したスターリンはより多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人の労働者を重点的に取り扱いイスラム社会民主党と呼ばれるムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。バクーで配下のギャングを再結成し、黒百人組への攻撃を再開した他、資金を集めるために強盗・みかじめ料の要求・通貨の偽造などを行い、時には身代金目当てに富豪の子供の誘拐も行った。1908年初頭、レーニンおよびゲオルギー・プレハーノフに会うためスイスのジェネーヴを訪れたが、当地でプレハーノフはスターリンを憤慨させた。

1908年3月、スターリンは逮捕された後、バクーのバイロフ監獄に収監され、最終的にヴォログダ州ソリヴィチェゴドスク村での2年間の流刑を宣告され、1909年2月に流刑地に到着した。6月、女装して村から逃亡しコトラスを経由してサンクトペテルブルクまで戻った。1910年3月、再び逮捕されソリヴィチェゴドスクに送還された。この流刑中マリア・クザーコヴァという女主人と不倫し、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けた。1911年6月、ヴォログダの街に移動することを許可され当地で2カ月間を過ごした。その後、再びサンクトペテルブルクまで逃亡したが、1911年9月には逮捕され、ヴォログダでの3年間の流刑を宣告された。

・党中央委員の選出

スターリンが流刑中の1912年1月、プラハ協議会にて最初のボリシェヴィキ中央委員会のメンバーが選出された。しかし、党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーの密告により、中央委員に選ばれた党員の多くがロシアへの帰還時に逮捕された。空白状態を埋めるため、レーニンとジノヴィエフはスターリンを新たな中央委員として選び、スターリンは流刑地のヴォログダでこの決定を了解し、その後生涯にわたって党中央委員会のメンバーであり続けた。

1912年2月、スターリンは再度サンクトペテルブルクへ逃亡し、当地で旧来のボリシェヴィキ機関紙である週刊の『ズヴェズダ(英語版)』を、日刊の『プラウダ』として刷新する任務を遂行した。『プラウダ』の創刊号は1912年4月に発刊されたが、スターリンがその編者であることは秘密にされていた。1912年5月、再び逮捕されたスターリンはシベリアでの3年間の流刑を言い渡され、7月には流刑地であるシベリアの村ナルイム(英語版)に到着し、ナルイムでは同じくボリシェヴィキのヤーコフ・スヴェルドロフと相部屋になった。2カ月後、2人はサンクトペテルブルクへと逃亡し、スターリンは『プラウダ』の編集・執筆作業を再開した。

メンシェヴィキとボリシェヴィキから各6人が選出された1912年10月の議会選挙の後、スターリンは両党派の和解を主張する記事を執筆したが、そのことでレーニンからの批判を受けた。1912年後半、スターリンはレーニンに会うためオーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフを2度訪問し、最終的にはメンシェヴィキとの融和に反対するレーニンの立場に同調し、その後レーニンと裕福なボリシェヴィキ支持者の夫婦とともに数週間を過ごした。また、この間に将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。1913年1月、スターリンは首都ウィーンに移動し、当地でボリシェヴィキがロシア帝国内の民族的マイノリティにいかに対処すべきかという「民族問題」についての研究を進めた。スターリンは、レーニンからこの問題に関する論文を執筆するよう激励されていた。

完成した論文は『マルクス主義と民族問題』と題され、ボリシェヴィキの月刊誌Prosveshcheniye(啓蒙)の1913年3月–5月号で初めて発表され、その内容はレーニンを非常に満足させた。ヨシフ・ジュガジヴィリはこの論文を「K.スターリン」という筆名の下で発表した。「スターリン(Stalin)」はロシア語で「鋼鉄」を意味する語「stal」に由来するものであり、「鋼鉄の人(Man of Steel)」とも訳される。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの筆名「レーニン」を模倣した名である可能性も指摘されている。彼はその後「スターリン」の名を生涯使い続けたが、歴史家サイモン・モンテフィオーリは、党内で名声を得るきっかけとなった論文がこの筆名の下で発表されたことがその理由であるとしている。

1913年2月、サンクトペテルブルクに戻っていたスターリンはまたも逮捕され、今回は脱走が極めて困難なシベリアの奥地トゥルハンスク州での4年間の流刑を宣告された。1913年夏に流刑地のコスティノという村落に到着したが、翌1914年3月には脱走を警戒した当局によって北極圏の端にある村落のクレイカへと移送された。クレイカでスターリンは原住民のツングース族やオスチャーク族と親密な関係を築き、多くの時間を釣りをして過ごした。一方で、同地ではリーディア・ペレプルイギナという当時13歳(帝政ロシアの性的同意年齢を1歳下回っていた)の少女と関係を持ち、彼女は1914年12月頃にスターリンの子を出産したが、この子供は生後間もなく死亡した。1917年4月頃、ペレプルイギナは2人目のスターリンの子を産み、「アレクサンドル」と名付けた。

・1917年の革命

スターリンが流刑地にいた間に第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国は戦時下に入った。1916年10月、スターリンは他の流刑中のボリシェヴィキと共にロシア帝国軍に召集され、1917年2月にはクラスノヤルスクに赴いたが、身体検査官によって腕の障害が認められたスターリンは兵役には不適格と判断された。その後はクラスノヤルスクに近いアチンスクにて残り4カ月間の流刑に服すことを許可され、首都ペトログラードで二月革命が勃発して帝政が崩壊した際もアチンスクに滞在していた。スターリンは3月に列車でペトログラードに帰還し、帰還後は当地の『プラウダ』編集局をレフ・カーメネフと共同で引き継いだ。さらには多大な権力を持つペトログラード・ソビエトの執行委員会におけるボリシェヴィキの代表者に任命され、4月に行われた党中央委員会選挙ではレーニン、ジノヴィエフに次ぐ3番目に高い得票数で再選されるなど、スターリンは当時の党内で高い地位を確立していた。

その後、スターリンはボリシェヴィキ支持者による武装デモ(七月蜂起)の計画実行に携わったが、臨時政府はこのデモを鎮圧した後にボリシェヴィキへの弾圧を開始し、『プラウダ』の事務所を急襲した。 襲撃の最中、スターリンはレーニンを事務所から逃し、その後はペトログラード市内の複数の隠れ家を転々とさせてその安全を確保し、最終的にはラズリーフに脱出させた。レーニン不在の間、スターリンは『プラウダ』の編集を続ける一方でレーニンの代理としてボリシェヴィキを指導する役割を果たし、密かに開催された第6回党大会も監督した。この第6回大会で、スターリンは編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された。やがてレーニンがボリシェヴィキがクーデターを起こして臨時政府を転覆し、武力によって権力を奪取することを主張し始めると、スターリンとレフ・トロツキーはレーニンの行動計画を支持したが、カーメネフら一部の党員は反対した。その後レーニンがペトログラードに帰還し、 10月10日に行われた党中央委員会の投票でクーデターの決行が過半数の支持を得て採択された。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人のみだった。

1917年10月24日、警察が『プラウダ』の事務所を襲撃し、印刷機材を破壊した。スターリンは破壊された機材の一部を修復して編集業務を再開した。10月25日の早朝、スターリンはボリシェヴィキによるクーデター(十月革命)の司令部であったスモーリヌイ学院に向かい、レーニンと共に党中央委員会の会合に出席した。その後ボリシェヴィキの軍勢がペトログラード市内の発電所、郵便局、国営銀行、電話交換局、数カ所の橋を占拠し、ボリシェヴィキ支配下の巡洋艦「アヴローラ」が冬宮殿を砲撃すると、宮殿内の臨時政府議員は降伏し、ボリシェヴィキによって逮捕された。クーデター中、スターリンに課せられた任務は第二回全ロシアソビエト大会に出席中のボリシェヴィキ代表団に事態の状況説明を行うことであり、その役割は表立ったものではなかった。それを根拠として、トロツキーら敵対するボリシェヴィキは十月革命におけるスターリンの役割は些細なものであったとのちに主張したが、その見解は複数の歴史学者によって否定されている。

レーニン政権下の活動

・ロシア内戦

1917年10月26日、レーニンは新ロシア政府として組織された「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長への就任を宣言した。スターリンは民族問題人民委員に任命された。新しい任務に専念できるようにと、スターリンは『プラウダ』の編集者としての地位を解任された。新政府においてスターリンは、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフと共に非公式な「4人組」として首脳部を形成した。ボリシェヴィキの本部が置かれたスモーリヌイ学院では、スターリンの執務室はレーニンの執務室の近くに設けられており、約束なしでレーニンの書斎を訪れることが許されていたのはスターリンとトロツキーの2人だけだった。当時のスターリンはレーニンやトロツキーのように一般的に有名ではなかったものの、ボリシェヴィキ内部では重要人物として台頭していた。スターリンはレーニンによる秘密警察機関「チェーカー」の設立を強力に支持し、チェーカーによって始められた赤色テロも擁護した。カーメネフやブハーリンとは異なり、スターリンがチェーカーとそれによるテロの急激な成長拡大について懸念を示すことはなかった。

ボリシェヴィキが権力を掌握した後、右派・左派を問わずその支配に抵抗する勢力が蜂起し、ロシア内戦が勃発した。内戦により減少を続ける食糧の供給を確保するため、人民委員会議は1918年5月、スターリンをロシア南部における食糧徴発の責任者としてツァリーツィンに派遣した。軍司令官としての価値を示すため、スターリンはツァリーツィンに到着するとすぐに現地の軍の指揮権を自らに移行させた。ツァリーツィンで、スターリンは将来的に自らの軍事的・政治的支持基盤の中核となる、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの2人との親交を深めた。数的優位によって勝利を得るため、スターリンは大量の赤軍兵士を動員して反ボリシェヴィキの白軍を攻撃したが、この戦略は赤軍側に多大な犠牲を強いることとなり、レーニンにも懸念を抱かせた。

白軍との戦闘の一方で、スターリンはツァリーツィンのチェーカーに命令を出して反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑した。また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の「専門家」を政府からの命令に反して粛清し、さらに一部を処刑した。スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、ほとんどのボリシェヴィキ首脳が許容する範囲を超えていた。例として、農民が食糧徴発の実施に従うことを確実にするため、スターリンはいくつかの農村を燃やすように命令した。

1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚した。同じく3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑した。

・ポーランド・ソビエト戦争

ボリシェヴィキは1919年末までにロシア内戦での勝利を確定させた。それに伴い、人民委員会議はその関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、この目的達成のため、1919年3月には「コミンテルン」を結成していた(コミンテルンの創立式典にはスターリンも出席した)。スターリンは、欧州中のプロレタリアートが革命の寸前にあるというレーニンの考えには同意していなかったものの、単独で存在する限り、ソビエト・ロシアは無防備なままであるとは認識していた。1920年2月、スターリンは労農監査人民委員部(英語版)の部長に任命された。同月にはまた、カフカース戦線に異動となった。

1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化し、ポーランドはウクライナに軍を展開し、一度は赤軍が抑えたキーウを、ウクライナのディレクトーリヤ軍と合同して、1920年5月7日に占領していた(キーウ攻勢)。5月26日には、スターリンもウクライナの南西戦線に派遣された。赤軍は6月10日にキーウを奪還し、速やかにポーランド軍をウクライナから駆逐してポーランドに押し返した。1920年7月16日、ボリシェヴィキはこのまま戦争を継続し、ポーランド領内に侵攻することを決定した。レーニンは、赤軍の侵攻によってポーランド国内のプロレタリアートが立ち上がり、赤軍と共同でユゼフ・ピウスツキの政権に反抗すると信じていた。一方、スターリンはポーランドの労働者階級はナショナリズムから自国の政権を支持すると予想しており、レーニンの考えに対し警告を発した。スターリンはまた、赤軍はポーランドに侵攻するには準備不足の状態であり、侵攻を強行した場合クリミアの白軍に再起のチャンスを与え、内戦が再燃する事態になりかねないと考えていた。最終的にスターリンは議論に負け、レーニンの決定を受け入れた。

その後、ミハイル・トゥハチェフスキーが率いる赤軍がポーランドの首都ワルシャワに向けて進撃する一方で、スターリンは南西戦線でリヴィウの攻略を指揮した。8月初旬、スターリンは配下の部隊を移動してトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略を支援するよう再三にわたり命令されたが、リヴィウ攻略を優先するため、命令の実行を拒否した。8月中旬、ポーランド軍は反攻に転じて赤軍を撃退し(ヴィスワ川の奇跡)、スターリンは政治局会議に参加するためモスクワに帰還した。モスクワに戻った後レーニンとトロツキーから戦争指導について批判され、自尊心を傷つけられたスターリンは、8月17日に自らを軍事的役職から解任することを要求し、9月1日に受理された。

1920年9月22日から開かれた第9回共産党協議会で、トロツキーはスターリンがポーランドとの戦争で「戦略的ミス」を犯したとの告発を行った。トロツキーは、部隊の移動命令を拒否することでスターリンは戦争をサボタージュしたと主張し、レーニンもそれに同調したほか、大会期間中、スターリンの行動を擁護する者は皆無だった。スターリンは屈辱を与えられたと考え、トロツキーへの敵愾心を強めた。ポーランド・ソビエト戦争は、1921年3月18日、ボリシェヴィキがポーランドと講和条約(リガ平和条約)を結んだことにより正式に終戦を迎えた。

・党書記長への就任

1921年2月、近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府は、メンシェヴィキの支配地域であるグルジア民主共和国に侵攻した。同年4月、スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた。民族問題人民委員として、スターリンは各々の国民と民族集団が自己表現の権利を有するべきであると考えており、そのためにはロシア国家内に地域的問題の管轄を許可された「自治共和国」を設けることが助けになると信じていた。スターリンの生まれ故郷であるカフカースは、多民族が混在する事情から特有の問題をはらんでいた。スターリンは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに各々の3つの自治共和国を設けるという構想に反対しており(それぞれの自治共和国内の民族的マイノリティが虐げられる可能性が高いと考えていた)、代わりに「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」という連邦国家の樹立を要求した。しかし、グルジア共産党は連邦国家の構想に反抗し、「グルジア問題」が引き起こされた。

1921年の半ば、スターリンは南カフカースを訪問し、グルジア内の民族的マイノリティ(アブハジア人、オセチア人、アジャリア人)を排除するような排外的グルジア愛国主義を避けるよう、グルジア共産党員に要求した。この訪問の際、スターリンは長男ヤーコフに会い、彼をモスクワに連れて帰った。それに先立つ1921年3月には、妻ナジェージダがスターリンにとっての次男ワシーリーを出産していた。

内戦の終結後、ロシア全土で政府による食糧徴収への反発を主な動機とする労働者のストライキや農民の一揆が勃発し、その対策としてレーニンは市場経済を容認した改革である「新経済政策(ネップ)」を施行した。この当時、共産党内部でも内紛が生じ、労働組合の廃止を求めるトロツキーの党派にレーニンが反対したことを受け、スターリンが反トロツキーの党派を組織した。1922年の第11回党大会において、レーニンはスターリンを党書記長に任命した。この任命にあたり、すでに他の役職に就いているスターリンの作業負荷を過度に増加させ、また権力を必要以上に拡大させるとの懸念が示されたが、それでも彼が書記長に指名された。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、主な同盟者の1人であるスターリンを重要な地位に就けることは、レーニンにとって好都合であった。

・レーニンの死

1922年5月、レーニンは脳卒中の発作を起こし、半身不随となった。その後レーニンはゴールキの別荘(ダーチャ)で静養生活に入り、人民委員会議とのつながりは頻繁に面会に訪れるスターリンを通してのものとなった。スターリンは、レーニンから2度にわたって自殺用の毒薬を入手するよう要求されたが、その願いを聞き入れることはなかった。この時期のレーニンは、スターリンの態度を「アジア的」であるとして嫌悪しており、妹のマリヤ・イリイチナ・ウリヤノヴァに対しては、スターリンが「知的ではない」と漏らしていた。さらに、レーニンとスターリンは国際貿易の問題をめぐって意見を対立させたほか、グルジア問題をめぐっても、レーニンはグルジア単体での共和国を望むグルジア共産党中央委員会を支持しており、スターリンが推進する南カフカースの連邦国家に反対した。

両者の意見の不一致は国家の形態にも及んだ。レーニンは、「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」という名の連邦国家の創設を要求し、ロシア国家は他のソビエト共和国と同列・同条件でこの新連邦に加盟するべきであると主張した。スターリンは、レーニンの案では非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に彼らの「自治共和国」を設けることで満足させられると主張した。レーニンがスターリンを「大ロシア排外主義」として批判した一方で、スターリンはレーニンを「民族自由主義」として批判した。両者の妥協の結果として、新連邦国家は「ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)」と命名されることとなった。1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に承認された。

同じ1922年12月にはレーニンの政治活動への参加をめぐり、スターリンが電話でレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責するという事件が起きた。レーニンはこのことでスターリンに激怒し、翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』返事をしたためた。

1923年3月6日、スターリンの返信を受け取る前に、レーニンは3度目の脳卒中発作を起こして廃人同然の状態となり、大きく回復することのないまま翌年の1月21日に死去した。1924年5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書が公開された。遺書の内容は、「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた。

権力の掌握(1924–1934)

スターリンは党書記長としての人事権を利用し、自らに忠実な部下を党と政府の要職に配置したほか、大学教育を受けた者が多い古参党員よりも労働者・農民出身の新規党員を重用することで、自らの支持者が国家全域に遍在することを確実にした。同時に、秘密警察(チェーカーおよび後身の国家政治保安部)の重鎮であるフェリックス・ジェルジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーの3人と親交を深めた。

・レーニンの後継者を巡る争い

1924年1月にレーニンが死去すると、スターリンは葬儀の取り仕切りを任され、葬儀当日にはレーニンの棺を担いだ。未亡人となったクルプスカヤの意向に反し、共産党政治局はレーニンの遺体に防腐処理を施した上で、モスクワ・赤の広場内の霊廟に設置した。霊廟は死後増大したレーニンに対する個人崇拝の一部であり、同年にはペトログラードがレーニンを称え「レニングラード」と改名された。レーニン亡き後の後継者候補にはスターリンの他、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーなどが浮上したが、スターリンが権力独占への主な障害とみなしたのはトロツキーであり、レーニンの存命時からジノヴィエフ、カーメネフと組んで反トロツキーの同盟を結成していた。

1924年5月の第13回党大会において、「レーニンの遺書」が地方代表団の団長に対してのみ読み上げられた。スターリンは(自分を批判する)遺書の内容を恥じ、党書記長を辞任すると自ら申し出た。この遜った行動により、スターリンは解任の危機を脱し、書記長に留まることを許された。ジノヴィエフは増加するスターリンの権力に懸念を抱いていたが、第13回党大会では「左翼反対派」を率いるトロツキーに対抗するため、スターリンの味方に付いた。

トロツキーの左翼反対派はネップ(新経済政策)が資本主義への行き過ぎた譲歩であると考えており、ネップ支持派のスターリンを「右翼」とみなした。スターリンは党中央委員会を自らの支持者で固める一方で、左翼反対派の党員を徐々に要職から排除していった、これらの動きは(スターリンと同じく)左翼反対派の提案がソビエト連邦を不安定にすると考えていたニコライ・ブハーリンによって支持されていた。ブハーリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進し、スターリンと同盟関係を結んだ。

スターリンは1924年終盤からカーメネフとジノヴィエフへの攻撃を開始し、彼ら2人の支持者を重要な地位から外していった。1925年に入ると2人はスターリンとブハーリンに対して公然と敵対するようになり、同年12月の第14回党大会では政治局の多数派であるスターリンの党派に攻撃を仕掛けたが、その試みは失敗に終わった。スターリンは逆に、カーメネフとジノヴィエフによる分派主義的な行動が党の安定性を危険に晒していると批判した。1926年の半ば、カーメネフとジノヴィエフはトロツキー支持派と組んで「合同反対派」を結成し、スターリンに対抗した。この時期、スターリンは革命を世界に広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフをも引き込んだ。

スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6カ月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。

スターリンはより迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ個人的な旅に出掛けた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンとアレクセイ・ルイコフ首相は憤慨した。ブハーリンは富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。

スターリンは「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒薬となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、絶対的な権力を掌握することはできなかった。

・第一次五か年計画

スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%(パーセント)、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた が、達成されることはなかった。

ソ連時代のロシアはアメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義が何如に優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみに出た。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をさせるのを止めさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。

スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と主張し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」と党大会で糾弾した(しかしながら、実際に「富農」と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4 %であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そして後に「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか強制収容所「グラーグ」に収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農」撲滅政策によって、富農の追放が起こった年である1930年の間に2万0201人の人々が処刑されたことを記録データが示している。農業集団化の第2段階 - スターリンによる高名な論説「成功による幻惑(Dizzy with success)」、「集団農場の同志たちに答える」 によって1年間中断となった - は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。

「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにも関わらず食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで「ホロドモール」と呼ばれる飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。

権力の終焉

・セルゲイ・キーロフ暗殺未遂事件

セルゲイ・キーロフは政治局員・党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。実際、一部の党員はスターリンの後継者としてキーロフに対して秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。

1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいて暗殺をされかけるも彼は生き延び、ボリシェヴィキの中でも大きな動揺を呼んだこの暗殺未遂事件では、暗殺未遂事件の真相を究明するためにキーロフらは動き出すこととなる。

調査の段階で暗殺を実行したレオニード・ニコラエフが当時のNKVD長官であったゲンリフ・ヤゴーダによる指示であったことを自白すると、彼と親睦のあったスターリンの下にも疑惑の目が向けられることとなる。ブハーリン、ルイコフ、トムスキーら右派がヤゴーダとスターリンの結び付きを指摘するも、スターリンは結びつきを否定しNKVDも沈黙を繰り返した。しかし、NKVD内のラヴレンチー・ベリヤによりスターリンとヤゴーダの陰謀が公開されるとセルゲイ・キーロフの暗殺未遂に関する責任を追求され、党内での権威をみるみるうちに縮小していくこととなり、彼は党の中枢から外されることとなる。

・モスクワ裁判

暗殺未遂後にスターリン・ヤゴーダ以外にも彼と親睦のあったマレンコフらが裁判にかけられることとなった。全員が無罪を主張したものの、最終的にはスターリンを除き処刑されることとなり、スターリンはシベリアのグラーグへと送られることとなった。

その後も彼は幾度となく脱走を試みるものの全て失敗することとなり、1943年3月5日。モスクワやレニングラードでは迫りくるドイツ軍との戦争に手を焼いている間にスターリンは静かに生涯を終えることとなる。スターリンの死にはキーロフによる陰謀説などが挙げられているものの、対独戦に目を向けているキーロフにはそのような暇が無かった事や、そもそもスターリンには既に脅威となるような権力も財産も持ち合わせていなかったことからシベリアのグラーグが劣悪な環境であった事による病死だと推測されている。



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