ウォルト・ディズニー

ページ名:ウォルト・ディズニー

ウォルト・ディズニー

出生名

Walt Elias Disney

生誕

1901年12月5日 アメリカ合衆国、シカゴ

死没

-

役職

フロリダ共和国大統領兼ウォルト・ディズニー・カンパニー社長

国家

フロリダ共和国

民族

アイルランド系アメリカ人

イデオロギー

権威専制主義 (政治結社独裁)

政党

Plus-Ultra

階級

大統領、社長
ウォルト・イライアス・ディズニー(Walt Elias Disney)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナー。

有名なアニメーションキャラクター「しあわせうさぎのオズワルド」をはじめとするキャラクターの生みの親で、兄のロイ・O・ディズニーと共同でウォルト・ディズニー・カンパニーを設立した。

目次

生涯

生い立ち

ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々カリフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたために結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。

青年期

父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。サラエボ事件を切っ掛けに第一次世界大戦が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、赤十字社の衛生兵としてパリにて負傷した兵士の治療や輸送に従事した。

帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身でカンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。様子を見かね、地元銀行の職員として働いていた兄のロイが知人に頼む形で、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。

アニメーターへの転身

1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。1921年6月28日、独立して個人事務所Laugh-O-Gram Studioを設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルなどの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh-O-Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。

ディズニー・カンパニーの設立

ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を興した。事業の過程でアリス・コメディシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、Laugh-O-Gram Studio時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロサンゼルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。

少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリス・コメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(Lillian Bounds)と結婚し、実娘のダイアン(Diane)を儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、厳格な父親の教育の反動もあり、二人の娘を溺愛しながら育てた。

オズワルドの誕生

しあわせウサギのオズワルド。1927-1928年間は『ユニバーサル時代』と呼ばれ、26作品が公開された。

1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。契約時、ミンツと交わした契約書にキャラクターの所有権に関する記述が曖昧である点を共同経営者である兄のロイが指摘し、明確にディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオに帰属すると記載させた。ミンツは中西部出身の兄弟を出し抜くつもりであったと言われており、もしロイが契約書の内容に気付いていなかったら、後のオズワルドはディズニーの看板キャラクターでは無くなっていたかもしれない。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。ディズニー社は配給元とスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。ミンツの狙いはディズニー社を解体し、完全に自身のスタジオに組み込むことであったが、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。

再出発とトーキー映画

Oswald`s steamboat Willie

『蒸気船ウィリー』(1928年公開)オズワルドが蒸気船内で悪漢ピートと繰り広げる冒険活劇である。劇中では藁の中の七面鳥が挿入歌として使われる事で有名。

同年4月、ウォルトはミンツには伏せる形でアイワークスと共に新たなオズワルドの在り方を模索していた。その際にユニバーサル社が公開した世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』を見るや否や、音声付きの作品が今後の映像作品の主流になると確信し、ウォルトはトーキーアニメーションを制作する事を決意する。こうして作られたのは『蒸気船ウィリー』である。機材の調達や収録の環境、そして何より、この挑戦的な試みに配給してくれる企業探しに苦労したディズニー社は最終的に業界で悪名高いパット・パワーズが取り仕切るセレブリティ・プロダクションと手を結ぶこととなる。

しかし、ここでもまたもやディズニー兄弟を災難が襲う事になる。パワーズはディズニー社に対し、納品した作品の低品質さを理由に相応の賃金を支払わない事を宣言。突然のパワーズの不誠実な対応に憤慨し徹底抗戦に出た兄弟であったが、努力も虚しく企業創設時からの仲間であったアブ・アイワークスを引き抜かれてしまう。ミンツ、パワーズと東海岸出身のビジネスマンに辛酸を舐めさせられ続けた兄弟であったが、コロンビア・ピクチャーズと新たな契約を結び、失ったアニメーターの育成も行いながら30年代を迎える。

カラーアニメーションへの挑戦

1932年、ディズニー社はコロンビア・ピクチャーズとの契約を終え、新たな配給先としてチャーリー・チャップリンが創業したユナイテッド・アーティスツと契約を結ぶ。長年白黒映画ばかりを映画ばかりを製作してきたウォルトは、カラー作品の製作を視野に入れており、同年7月に『花と木』を公開する。当該作品は3色式テクニカラーによる世界初のカラー映画であり、第5回アカデミー賞短編アニメ賞を受賞した。花と木以降、ディズニーはシリー・シンフォニーシリーズを中心にカラー短編アニメーションを数多く世に排出していく。

一方、ウォルトは短編製作だけでは面白みがないと考え、新たに長編カラーアニメーションの構想を打ち立てる。1937年に公開された『白雪姫』は、歴史に残る名作にするべく、莫大な労力と金額が費やされ、4年の歳月と170万ドル(当時の金額)の巨費を投じて制作された大作である。世界初のカラー長編でありながらフルアニメであり、作成されたセル画の枚数は25万枚にも上る。結果として質感すらも感じさせるキャラクターの動きが実現されている。まだアニメーションといえば実写映画の合間に子供向けに上映される短編を指していた時代であり、成功を危ぶむ声も多く、「ディズニーの道楽」と言われていたが、ふたを開けてみれば6,100万ドルの収益を上げる桁外れの大ヒットを記録した。

第二次世界大戦と労働争議

『ピノキオ』『バンビ』とウォルト肝煎りの作品が立て続けに公開されるも、1939年のドイツによるポーランド侵攻により始まった第二次世界大戦の煽りを受けて客足が伸びず、収益としては赤字が続く結果となる。また追い打ちをかけるように1941年には他の映画会社が手を焼いていた労働組合問題がディズニーにも降りかかる事となる。1930年代頃から映画産業においても労働組合が結成されつつあり、1933年には全米映画俳優組合が結成され、1938年には漫画映画家組合が結成されていた。1941年5月19日よりストライキは5週間に亘って続き、最終的にディズニー側が折れる形で組合との和解の場を設けた連邦調停官の仲介の下に、ストライキは終息した。ディズニースタジオは契約書に署名し、それ以降ユニオンショップとなっているが、ディズニースタジオ内の空気と雰囲気は回復不能な損害を蒙ることとなった。

ストライキの影響で精神的に消耗していたウォルトだったが、12月8日の南鳥島沖海戦により太平洋艦隊の主戦力を喪失した米国軍務省は、翌9日に軍用車の修理と対空戦用兵器の管理のために録音用スタジオを占拠し、カリフォルニア州を守るという名目で300万発の弾丸の薬莢が駐車場に置かれることになった。ディズニー・スタジオはハリウッドで占拠を経験した唯一のスタジオであり、ロッキード社の航空機製造工場を敵の攻撃から守るための占拠であるとされているが、真の理由はいまだに明らかにされてはいない。 陸軍は、ウォルトやロイをはじめとしたディズニーの従業員全員の指紋を取り、身分証明のためのバッジを身につけるよう命じた。各ゲートには、常に憲兵が立つことになった。制作途中の劇場向け作品は、ほぼ休止状態になり、スタジオは事実上の軍需工場となった。

スタジオの存続のため、ウォルトはこれまでとは違った毛色の作品製作を手がけるようになる。財務省からの依頼により、国民に納税義務を啓蒙する『新しき精神』をドナルド・ダック主演で公開した。また翌年公開の『7人の賢い小人』では白雪姫に出てくる7人の小人が戦時国債を買うという内容となっており、国債購入を促進させたい政府の意向に沿った作品となっている。以上の様なプロパガンダ作品を43年までに80本前後製作する事になる。

戦争が激化する中、43年には航空理論家のアレクサンダー・セバスキーと共同で『空軍力の勝利』を公開。セバスキーの唱えた長距離大型機による大量破壊戦術を解説する実写とアニメーションとの合成映画である本作は、ディズニーの狂気とも称され連合国内で絶大な評価を受けた。しかし、戦況は覆る事なく、スタジオのあるカリフォルニア全域が攻撃の被害を受けるようになる。43年末のサンフランシスコ空襲を受け、ハリウッドではセレブや資産家たちが資産家たちが軒並み東海岸へ疎開する事態が多発した。44年の3月にスタジオの経理を担当していたウォルトの兄であるロイは、連邦政府に直訴する形でスタジオ移転の援助を引き出し、当時地価が比較的安くカリフォルニアと似た気候で映画フィルムの保存に適したフロリダ州オーランドへの大規模疎開を実行する。同年6月に行われたロサンゼルス攻撃により、陸軍基地と化していたディズニーのスタジオのあったバーバンクは徹底的に破壊され、ロイの決断がなければウォルトと彼の作り上げた作品たちは焼失していたと考えられている。

オーランド時代の幕開けとスタジオの復興

政府からの援助があったとはいえ、ディズニースタジオの再建にはかなりの時間を要した。1945年の終戦の後、バンク・オブ・アメリカの融資の元、戦時中の負債を解消すべく再び娯楽作品の製作に戻った。46年に『メイク・マイン・ミュージック』、48年に『ファン・アンド・ファンシーフリー』とオムニバス形式の低予算ながら満足度の高い作品を打ち出しつつ、ウォルトは戦時中の教育的プロパガンダを制作したノウハウを活かして実写ドキュメンターの製作に取り組む。50年にミシシッピ河の湿地リンの生態系にスポットを当てた『ミシシッピーの家族』、53年には『砂漠は生きている』、翌年54年には『滅びゆく大草原』、56年には『南極のおどけ者たち』を公開。数多くのドキュメンタリー作品を送り出したウォルトは60年までの10年間にアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を4回獲得している。

50年代は一転してドキュメンタリー製作に入れ込むディズニーだが、この方針転換に関してはスタジオ再建に向けた資金回収というよりも当時南部で絶大な支持を獲得していたヒューイ・ロングの影響が強いとされる。48年のフロリダにおける地域遊説の際、ロングは演説の中に「私はウサギ一匹逃さない。それがチンケなギャグで人々をたぶらかすウサギならなおさらである。」といった一説を入れ、フロリダにおいて一定の力を有していたディズニーを強く非難していた。根っからの共和党支持者であったウォルト側も意趣返しとして短編アニメーション『ドナルドの靴磨き (1951公開)』において露骨にロングを模したキャラクターを出し、当時の政情風刺を行っている。

執政政府との対立

ウォルト・ディズニー・アドバタイズメント社のコーラボトルの広告。当時オズワルドを抜いて人気だったドナルドダックをメインに起用していることが伺える。

1952年の動乱はディズニー社にも容赦なく降り掛かった。52年大統領選挙の結果を受け、愛国党代表のヒューイ・ロングが南部諸州での署名を集め、ニューオリンズにおいてアメリカ執政政府の分離独立を宣言した。ウォルトはロングの言動にままならずフロリダからシカゴへのスタジオ移転を画策したが、資金難により計画は実行できずに終わる。翌年53年にはディズニー社はロングから反トラスト法の摘発を受け、抵抗虚しく会社を3分割した上で自社配給会社であったブエナ・ビスタを解散させられる事となる。それでもウォルトはあらゆる策を講じて企業存続の道を模索し、ウォルト・ディズニー・アドバタイズメント社を設立した。ウォルトにとっては40年弱ぶりの広告業となったが、同社は多くの企業との契約を果たし、傾きかけたスタジオを支える柱となった。

57年には、執政政府内の自治拡大と称してロングの右腕であったジョージ・ウォレスがフロリダを含むアメリカ南東部を管理するようになり、同地域はサザン・イースト・テリトリー(通称S .E.T)と呼ばれるようになる。ウォレスの人種隔離政策はS .E.T内の人種対立を煽るようになり、55年のモンゴメリー・バス・ボイコットから続く人種対立に更なる油を注ぐ結果となった。ウォルトは当時のS .E.Tの状況を「非アメリカ的でナチスのようだ。」と非難し、ウォレスからのスタジオにおける人種隔離指示に対しても強く反発し、58年に古き良き南部を描いた実写とアニメーションの複合作品である『南部の唄』の公開に踏み切った。同作品では白人と黒人の和解を描写しており、ウォルトの現状に対する理想が如実に表れているといえる。アトランタで行われた封切りイベントでは主役のリーマス役を務めた黒人俳優のジェームズ・バスケットを他の白人俳優と共に強行気味に登壇させ、物議を醸した。

S .E.Tの崩壊とプルス・ウルトラの結成

1958年 タラハシーにおいて、ジョージ・ウォレスが銃撃され暗殺される事件が発生した。(ジョージ・ウォレス暗殺事件)事態を受け、アトランタでは公民権運動を指揮していたマーティン・L・キング・Jrが政府首班となり、対するオーガスタではストロム・サーモンドがS .E.T後継政府を独断で立ち上げる。一方、フロリダおいては現地に残存していた共和党議員らの尽力によって、中立的政府が誕生した。ウォルトは当初この民主的政府を歓迎し、穏健派でディズニーとも理解が深かったリロイ・コリンズを政府首班に推していたが、民主党員からの支持は元州兵大将のサムター・ロウリーが優勢であった。反共主義者且つ人種隔離推進者であるロウリーを退けるべく、コリンズはフロリダにおける知名度と支持が厚いウォルトに対抗馬としての出馬を要請する。当初ウォルトは政治への無関心さからコリンズの頼みを断ったものの、ディズニー社へ「リーディ・クリーク・インプルーブメント・アクト」と後に呼ばれる特別自治権の付与と一部税金の免除、53年の反トラスト法の撤回などを条件に受諾した。

政治家としての肩書を得たウォルトは自身の理想を目指せる政党の結成を計画した。コリンズの支えの元で12通の手紙を書き、合衆国内から理想主義的政治結社"Plus Ultra"の会員を募った。人種平等や性差別の撤廃、科学の平和利用、そして何より夢と希望に溢れた明日への絶え間無い前進といったウォルトの理想は手紙を受け取った者たちに支持され、1959年4月にPlus Ultraは選挙戦に躍り出た。当初、政治経験の無いウォルトらは支持を集められないとされていたが、コリンズやブライアントといった穏健派民主党員の協力もあって選挙ではメディアの予想を裏切る形で善戦した。結果としてPlus Ultraはロウリー率いる民主党に210票差で勝利した。

人物

理想主義者で目指した物の為なら死に物狂いで突っ走る人物。一方で興味を持てないものに対してはとことん消極的な人物でもある。兄のロイをはじめとした多くの人間の支えがあるからこそ、今日のウォルトの成功があるといえる。

共産主義を嫌悪しており、根っからの共和党支持者である。しかし労働組合への理解は深く、従業員への対応には比較的真摯に取り組んでいる。また、コリンズといった民主党員との交流などもあり、ウォルトのイデオロギーを一言で現すのは難しい。一貫して言えることは彼が目指すものは理想的な世界(または輝かしい明日)である。ウォルトは科学の進歩こそが社会をより良くする方法であると考えており、その為に資金を惜しむべきではないと断言している。

主な作品

  • トロリー・トラブルズ -1927
  • 蒸気船ウィリー -1928
  • 花と木 -1931
  • 三匹のこぶた -1933
  • 白雪姫 -1937
  • ピノキオ -1940
  • ファンタジア -1940
  • ダンボ -1941
  • バンビ -1942
  • メイク・マイン・ミュージック -1946
  • ファン・アンド・ファンシーフリー -1948
  • 砂漠は生きている -1953
  • 滅びゆく大草原 -1956

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