泉谷しげる_19950812

ページ名:泉谷しげる_19950812

【重要】1995年8月12日



希望の家(浜風の家)


長尺版


+ 閲覧注意。重い内容です-

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。
その復興のため泉谷しげるが発起人となった1995年8月12日のチャリティコンサート。
この約2ヶ月前の6月10日に最愛の母が他界している。
泉谷しげるの「頑張れ明菜」はそれを知ってのことだろう。
人の死すら平然と金儲けの出汁に使うマスコミが騒ぎ立てたことによって。


これから書くことは、「ゴシップ情報が本当なら」という話なので、あまりしたくないが…、あえて。
「中森家の籍を抜いた」というゴシップが事実であるとすれば、
同じくこれもゴシップだが、母が生前「中森家の墓に入りたくない」と言ったことが理由だろう。
『中森明菜心の履歴書』によると、両親は喧嘩ばかりで、

いつでも出られるようにってお母ちゃん、荷物をまとめてて、そのバッグに私の服も入れてね。
私それを見ながら『うん、アータン(私)、ついていくよ、ついていくよ』って言ってた

この幼き日の約束を守るため、
「中森家の墓に入りたくない」と言った母についていくように、母の他界後に籍を抜いたということだろう。
繰り返しになるが、ゴシップ情報が本当だとすればの話だが。
明菜の筋は通っていると思う。


それともう1つ。
5.本人達が事件について語っている事
ここの「家族へ愛想が尽きたこと」。

ここから、自ら家族に振り込んでいたことが分かる。
それとは別に家族を味方に付けるために事務所がお金を渡してたということだろうが、その話は置いておく。
家族にお金を振り込んだり、ビルを建て、お店を出してあげた結果、頑張って働かない家族になってしまった。
笑福亭鶴瓶_19910629」の11:28あたりからも「飽きっぽくて何も続かなくてダメですね」といった話が聞ける。
ただでさえ情深い性格。身内から無心されたら断れない。
上述した幼き日の約束を守ると同時に、
形式的にでも身内でなくなれば思い切って音信不通の状態にできると考えたのだろう。
それが家族をまっとうな人間に戻す方法だという考えもあって。
どこまでも真面目な彼女らしい究極の選択のように思える。

こんなことを公にするつもりなど当然無いだろう。
デビューされてから自分の欲しい物を買わず、家族の口座を作って給料を分けて振り込まれるんです」の話で落涙したのは、
「それは89年までの話。その後も無心されたら断り切れなかったけど、それもお母ちゃんが亡くなるまでの話。苦渋の決断だったのよ」
と言うこともできず、誤魔化すように泣き笑いするしか無かったということだろう。


ついでに書くと、「明菜は一度も見舞いに来なかった」というゴシップは酷すぎる。
この発言をしたのは父親とのことだが、この発言の2年前には、
「あの子は『お母ちゃん命』でしたからね・・・病院にも何回も見舞いに行っていた」と取材に答えている。
他の記事でも兄が「明菜は仕事が忙しかったこともあり、お見舞いに来たのは数回だけでした」と答えている。
全てゴシップだが明らかに矛盾している。
最愛の母の見舞いに一度も行かない筈がない。


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