一日一明菜_20230829

ページ名:一日一明菜_20230829

こちらも一日一明菜さんの労作。
海外の明菜ファンのために、様々なコンテンツを英訳しているそうです。
その過程で、まずは日本語での文字起こしから。
こちらの放送は窪田等_20221104参照です。


日本語

中森明菜デビュー40周年 女神の熱唱! 喝采は今も
放送日:2022年11月4日
番組URL https://bs.tbs.co.jp/music/nakamoriakina/


幼い頃から歌手に憧れていた中森明菜。そのデビューのきっかけはオーディション番組「スター誕生!」であった。だが、二度の不合格。審査員の一人、声楽家の松田トシからこう言われた。

「あなた、歌は上手いけど顔がとっても子供っぽいから、無理ね。おとなの歌を歌うより、童謡でも歌ってたほうがいいんじゃない?」

すると明菜は、

「童謡を歌えと先生はおっしゃいますけど、『スタ誕』では童謡は受けつけてくれないんじゃないですか。」

と言い放った。抗議とも取れる明菜の言葉に会場はざわついた。常に自分に正直であった中森明菜。その姿勢はデビュー前からのものだった明菜は諦めなかった。三度目の挑戦。明菜は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、番組始まって以来の最高得点392点で合格。決勝大会ではレコード会社やプロダクション11社から獲得の意向を示すプラカードが上がる。ついにデビューのチャンスを掴んだのである。この時中森明菜16歳。デビューが決まった明菜に所属事務所が森アスナという芸名を用意した。しかし明菜は本名でデビューすることにこだわった。自らのエッセイの中でその時の思いをこう綴っている。

「中森明菜で、私、やっていきたいんです。この名前、自分では気に入っているんです。自分で納得できないことはしたくないし人が決めた通りにやってそれでうまくいかなくなった時に「あの時私ほんとうはこう思ったんだけどね」なんて、あとからグチグチいったり思ったりするのはもっとイヤだもの。」

自分の意見を主張し、すべての責任を負う。明菜は既に普通のアイドルではなかった。そしてその姿勢を貫き通していく。1982年(昭和57年)5月1日「スローモーション」が発売され、明菜は歌手としてのスタートを切った。これはデビュー直後に TBS の番組に出演した時の映像。以来明菜は数多くの歌をお茶の間に届けた。
(スローモーション)
時代はアイドル全盛期。同期は、松本伊代、早見優、堀ちえみ、小泉今日子など強力なライバルが揃っていた。明菜はライバルたちから数ヶ月遅れてのデビューとなり話題性は高くはなかったがその存在感と歌唱力は際立っていた。中森明菜は第二弾「少女 A」 でイメージチェンジ。大ブレイクを果たす。そこには私たちが知らないドラマがあった。ライバルたちに遅れを取った明菜だが、どうしたら巻き返せるか。スタッフは戦略を練りデビュー作の「スローモーション」の清純路線から大胆にも趣が全く違うツッパリ路線に舵を切った。タイトルは「少女 A」 。作詞はコピーライターでもあった新人作詞家の売野雅勇。後にチェッカーズの「涙のリクエスト」などの多くのヒット曲を手がける売野だが、それまで明菜とは面識がなかった
売野:

ゼロ、ゼロ、インフォメーションゼロ。アイドルを書く。中森明菜さんっていう方でね「スローモーション」でデビューしたって、チラシ1枚です。
だからよく、明菜さんに取材して書いたとか、いろんなことを言われたんですけれども面識は当然ない」
そこでストックしておいたプールサイドで出会った男女の話をベースに、主人公の男から女に置き換えた。

売野:

(男が)16歳ぐらいの女の子を口説いている、プールサイドで、って話を書いたんだけど、それを女の子の目線で、カメラはそっち側から撮ったらどうなるんだろうなっていうことで女の人にして書いたんですね。

上目使いに盗んでみている蒼いあなたの視線がまぶしいわ
いわゆる普通の17歳だわ 女の子のこと知らなすぎるのあなた

売野は多感な少女の心理を明菜に重ね合わせたのだ
売野:

「いわゆる普通の17歳だわ」、これと「早熟なのはしかたないけど」。この辺りはすごくよく書けたなあと思ったんですね自分で。

そして「少女A」は一人歩きを始める。
Q:

売野さんが書いた「少女A」の世界が中森明菜と等身大だったということになるわけですね

A:

等身大というのは失礼かもしれないんですけども僕は偶然かなり共鳴するようなところがあったと思います。それはそういうことをしたとかねそういう話じゃなくて、雰囲気や体質的に出ているような部分とか理解できる部分とか興味する部分とかで。拒否反応が大変だったっていうことは後から聞きました。ロックのビートで書いてますから、曲の感じとかアレンジの感じから言ってもまあ不良にしか感じないよね。そういうことを感じたんじゃないですか、彼女は。

明菜は、売野が自分を不良少女と思い込んで書いたと受け止め。絶対に歌いたくないと言ったのだ。だが、歌の世界であることを理解し主人公になりきり見事に歌い上げた。
さらに明菜は新たな戦略に出る。知名度を上げるため地方の放送局やレコード店、スーパーなどを精力的に回ったのだ。当時のレコード会社の宣伝担当だった富岡信夫さんは
富岡:

大変でしたね。それはもう、先頭を走る松本伊代さんを筆頭にその後小泉今日子さん、堀ちえみさん、早見優さん、最後にはジャニーズのシブがき隊が待ってる、と言うかそういう時代に中森明菜というのは入ってるから。位置的には5番手6番手、ある意味ビリに近い状態ではなかったのかと思います。でも勝てるのはやっぱ歌唱力なんだ。歌唱力ってことは演歌じゃないけどもあのみかん箱の上で歌っても聞かされるだけの世界を彼女は持っていた。それをプロモーションの柱にしようと思いました。それはまあ、演歌パターンなんですが。

今回、「少女A」のキャンペーンでステージに立つ明菜の貴重映像を入手。
「少女A」発売日の前日、明菜は福岡市内のスーパーの屋上にいた。
(1982年7月27日撮影の動画)
こうした地道な活動が実り、「少女A」はヒットチャートを駆け上がった。40万枚のヒット。先行する同期のアイドル達と肩を並べた。そして昭和57年9月16日、中森明菜は悲願だった TBS のザ・ベストテンに初登場を果たす。これはその時の貴重映像。憧れだった生放送の歌番組。デビューから4カ月、テレビカメラの向こうに全国の人がいる。

(「トイレに行きたくなっちゃった」)

17歳の飾らない素顔を見せた明菜は緊張していた。しかしマイクを握ると堂々たるパフォーマンスを披露。
(少女A)
さらにまもなくして明菜はザ・ベストテンで第1位に輝くことになる。中森明菜の3枚目のシングル、「セカンド・ラブ」。明菜はこの曲でザ・ベストテンの1位を初めて獲得。ザ・ベストテンはリクエストハガキ、レコードの売り上げ、ラジオ各局と有線放送のランキングの4つを軸に集計し、はじき出された数字に基づいて順位を付ける忖度なしの画期的な番組。そのザ・ベストテンでついに1位を獲得した明菜。これをきっかけにザ・ベストテンを常に賑わすことになる。「セカンド・ラブ」はデビュー曲「スローモーション」と同じ来生えつこ作詞、来生たかお作曲のバラード
(セカンド・ラブ)
トップアイドルとして走り始めた明菜。その才能をデビュー前から感じ取っていた人がいる。「スローモーション」などのジャケット写真を撮影した野村誠一である。野村は多くの女優や女性歌手を撮っていた売れっ子写真家。
野村:

最初はレコーディングスタジオで会ったのかな。歌い出しを聞いただけでも結構鳥肌が立った。この子、凄いって。声質とか歌が、その年齢でそんなうまいなんてちょっと信じられなかったから。この最初に会った印象とその歌のギャップってのが凄かった。だからもう全然違う。「えっ!この子なに!?」みたいな感じの違いでしたね。

さらに野村が衝撃を受けたのは
野村:

それまでのほとんどのタレントさんだとニコニコしたりしてるんですけど明菜ちゃんに関してはね、ニコニコするとか、言い方変だけど媚を売るみたいなそういうのはもう全くない子でしたね。

明菜に魅了された野村はすぐに自分が担当していた人気漫画雑誌の表紙に推薦した。
存在を知られていない新人を人気雑誌の表紙に起用する。異例のこと。
野村:

ヤングマガジンで当時モデルの選定というのも自分が任されていたので、明菜ちゃんと会った時に「すごい子がいるよ、すごい可愛いし、色っぽいし、若いし、こういう子珍しい。そのうえ歌もめちゃくちゃいいからこの子は良いってことでやったんですよね。

さらに表紙だけではなく野村が撮った写真を中心に特集ページも組まれた。
野村:

そしたら実際に編集部から電話かかってきて「すごいよ」って。ハガキが6,000通も届いたと。6,000通って今までそんなことないよという。普段は来ないと。

予想を超える反響に編集スタッフは驚いたという。明菜がブレイクする素地は十分だったのだ。アイドルとして着実に進化を遂げる明菜の楽曲には二つの路線があった。一つはデビュー曲「スローモーション」のように少女の心情を歌ったバラード路線、もう一つは「少女A」のように主張をする主人公を歌うツッパリ路線。4枚目のシングル「1/2の神話」。この曲も「少女A」から引き継がれたツッパリ路線の一つ。対照的な交互に向かう戦略は明菜の存在感を際立たせている。
(1/2の神話)
これは「8時だヨ!全員集合」の生放送のステージ。CM中は客席からの声に笑顔で答える。本番が迫ると歌の世界に入る。「十戒」は、弱い男を戒める強い女性を描いたツッパリ路線の作品。
(十戒 1984年8月11日)
歌い終わればまた笑顔。これも明菜の魅力。この後は貴重映像ヨーロッパの旅を楽しむ素顔の明菜。そしてヒット曲「禁区」と明菜の表現力。中森明菜はTBSのバラエティ番組にも出演。そこには歌番組とは違う表情を見せる明菜がいた。
(ザ・ヒットステージ 1984年1月29日)
デビュー2年目はミュージックビデオの撮影のためヨーロッパへ。異国のロケに胸を弾ませた。サクレクール寺院はモンマルトルの丘にあるパリを代表する観光名所。ここからパリの街を一望できるのだが。街ではこんな出会いも。ローマではトレビの泉へ。後ろ向きにコインを投げ入れると願いが叶うという言い伝えがある。真実の口は古代ローマのマンホールの蓋。偽りの心を持つ者が手を入れると切られたり抜けなくなってしまうという伝説で知られる。さらにこのロケの間6枚目のシングル「禁区」のレコーディングも行われた。この「禁区」も「少女A」の作詞を手掛けた売野雅勇の作品。売野は明菜の表現力を高く評価していた。
売野:

作詞家が書いた詞を、20倍ぐらいっていうか深いところまで表現する。それは掘り下げようとして掘り下げているんじゃなくて、歌うと全部出てきちゃうっていう。だから彼女が、すごいものを持っている人なんですね。

明菜の詞を書くとき、強いこだわりがあった。
売野:

人が言っていない、人が歌っていない歌を、ということを常に考えていた。それがたとえ、常識に対して非常識であったり反常識であっても構わない。むしろそれを狙っていこうと。

さらにタイトルにもこだわった。
売野:

タイトルがすべてだと思っているところもあって。「1/2の神話」というのはもともとは「不良1/2」という路線だったんで、「不良1/2」というタイトルを出したらなんかレコード会社の人が怒って、というかビビッて、「ここまで出せません」みたいな話になって。「禁区」ですけども、これはぼくが中国に行ったときにね、ぼくがコンサート中に抜け出して体育館を見て回っていた時に、壁にね、ホントに畳1枚に1文字、2枚で2文字、「禁区」って書いてあったんです。白い壁に。すごい恐怖感があるんです。それがインプットしてあって、いつかはどこかで使いたいなというふうに思ったんですね。

中国語で「禁区」は、ここに入ってはいけないという意味。
売野:

そうです。禁止区域、keep out ということですよね。そういう「許されない恋」という話ですから、このタイトルがいいんじゃないかと。

明菜の卓越した表現力。「禁区」は聴く者の心をさらにつかんだ。
(禁区)
中森明菜ザ・ベストテン秘蔵映像!
明菜は「少女A」で TBS のザ・ベストテンに初めてランクイン。以来223回10位以内に入り「ベストテンの女王」と呼ばれた。視聴者は期待感をもって明菜の出演を待ち望んだが、その出演はスリリングでもあった。時には移動の途中でマイクを握った。
· 放送局の玄関に滑り込み!:愛知県でのコンサートを終えた明菜はすぐに東京に戻る必要がありさらに生放送のザ・ベストテンの出演もあった。そこで二つを同時にするためタクシーを利用し途中にある静岡放送に立ち寄った。そして玄関から生出演し歌った。(少女A) 歌い終わるとすぐに待機していた事務所の車に乗り、一路東京へ。滞在時間わずか5分余り。明菜のスケジュールは文字通り分刻みであった。
· 新幹線の車中で歌う!:明菜が新幹線で移動中ザ・ベストテンの放送が始まった。そこで姫路駅に停車したタイミングで中継が結ばれ、何と車中で歌ったのだ 。(十戒)
20歳を目前にした明菜はアイドルからの脱却を図る。目指すは本格的なアーティスト。
次なる曲は多くの話題作を手掛け自ら歌っていた井上陽水が明菜のために書いた「飾りじゃないのよ涙は」。衣装の多くは明菜のアイディア。パンツスタイルなど当時最先端のファッションを積極的に取り入れた。明菜のセンスは多くの女性ファンを魅了。ファッションリーダーとしても高い支持を得て いた。
(飾りじゃないのよ涙は)
さらに明菜はヒット曲を連発。この「サザン・ウインド」もザ・ベストテンで1位に輝いた
(サザン・ウインド)
デビュー3年目の昭和59年、明菜は歌謡界の最高峰日本レコード大賞で輝きを放つ。
(最優秀スター賞発表)
明菜は、実力・人気ともにトップ歌手の仲間入りを果たした。北ウイングは7枚目のシングル。タイトルは明菜自身の提案だった。
(北ウイング)
このあと中森明菜、歌謡界の頂点へ 涙の熱唱!
昭和60年の大晦日中森明菜は最も権威のある歌謡祭、日本レコード大賞の会場にいた。いよいよ大賞の発表。プレゼンターは女優の美保純と、この年プロ野球で三冠王となった落合博満選手。
ついに勝ち取ったレコード大賞。人前ではめったに見せない涙があふれた。
(ミ・アモーレ)
頂点に立った明菜は、さらに表現者としてのこだわりを強くする。「DESIRE」 の作詞は明菜の憧れの山口百恵のヒット曲を数多く手がけた阿木燿子。強く美しい日本女性を描いている。この「DESIRE」はザ・ベストテンで33位から1位という番組始まって以来のジャンプアップを記録、視聴者を驚かせた。しかしそれ以上に注目を浴びたのは和と洋の融合ともいえる独創的な衣装。明菜が自ら作り出す歌の世界は関係者の度肝を抜いた。
明菜:初めにジャケットで着物を着ようと思い、着物が好きなんで、できれば衣装も着物に関したものできたらなと思って。
「DESIRE」。この歌には明菜のすべてが凝縮されていた。
(DESIRE)
「DESIRE」のディレクターだった藤倉克己さんは明菜のプロデュース力に衝撃を受けたと言う。
藤倉:

ぼくがイメージしてたテレビ出演と、歌を含めた表現、全然越えてまして、すごいと思いましたね。ビジュアルに関してすごい感性を持ってる子だったんで全体で表現するって言うんではもちろん一番大事な音も含めて、それを包むジャケットだったり全部ひっくるめてパッケージで一つの表現というふうに考えてたんですかね。そういう面ではだからすごいプロデューサーなんだと思いますよ。

そして昭和61年の日本レコード大賞。明菜は再び頂点に立つ。
(DESIRE)
昭和61年、伝統と権威を誇る日本レコード大賞。明菜は再び頂点に立った。それは、これまで女性では誰もなしえなかったレコード大賞2連覇という偉業でもあった。
(DESIRE)
明菜のジャケット写真を数多く撮った写真家の野村誠一は明菜の変わることのない一貫性に凄さを感じたという。
野村:

「笑って」というところは一切笑顔なんか見せない。逆にそう言った瞬間に怒ったみたいな顔、凛としたところが出てきてその中に醸し出すものが本物だった。たぶんグラビアとか出るのが好きじゃないんだと思う。そのレコードを売らなきゃいけないためのプロモーションだっていうことは分かってるから仕方ないけど、これをやればレコードが売れるんだっていう意識はなかったんじゃないかな。それはね、絶対的に歌に自信がある。「私は何でこんなのやらなきゃいけないの」みたいな顔してるけど、ステージに立つと人間が変わる。

明菜を撮り続けた野村がベストショットという写真がある。
野村:

これはハワイのパイナップル畑で撮ったんだけど、こんな笑顔なんてたぶん俺の写真の中では無いと思うんですよ。どれを見てもみんな怒ってる。でも、この時は上機嫌だから、自分でパイナップルこんなやってる。こっちが要求しないポーズをやるって言うんだから自分の中で何かはまった時ってこうなんだ。歌のステージの時には本人はこんなイメージなんじゃないですか。

多くの人を魅了する明菜の感性はさらに磨きがかかっていた。
(ジプシー・クイーン)
中森明菜の歌は成熟の度合いを増していく。「TANGO NOIR」 では赤いドレスを身にまとい鮮やかに舞った。明菜は幼い頃バレエを習っていたのだ 。
(TANGO NOIR)
進化を続ける中森明菜。ファッションリーダーとして走り続け、常に新しい世界に挑戦した。「TATTOO」ではタイトなボディコンスタイルでセクシーな振り付けも披露
(TATTOO)
このあとは表現者中森明菜の真骨頂!「難破船」秘話
数多くのヒット曲を世に送り出した中森明菜。中には明菜の才能や生き方に魅せられた作家から送られた曲もある。「難破船」はシンガーソングライターとして多くのヒット曲を持つ加藤登紀子が作詞作曲し自ら歌っていた曲。
加藤:

この歌は私の20歳の時の失恋を歌った曲なんです。20歳の時の失恋っていうのは初めての挫折だから、ものすごいショックだった。私はその当時40を越して歌ってましたからね。あ、やっぱりこの歌の主人公は20代がいい、て思って、明菜さんに贈ったらどうかしらというふうに思い至ったんです。
私が決めたのはね、(明菜が)22歳の誕生日という日にテレビに出ていてみんなにおめでとうとか言われるでしょ、「22なんて大嫌いです」と彼女が言ったんですね。それを聞いた時に、主人公に選んだ。みんなにおめでとうとか言われてるのに大嫌いですとか、ちゃんと言ってる明菜さんに凄く親近感を感じて、いいなぁって思ったんですね。

そこで加藤登紀子は「難破船」を歌ってもらおうと本人に直接自ら歌ったカセットテープを手渡した。
加藤:

カセットを渡したんですね。私、あなたにぴったりだと思うんだけども、もしあなたが歌うんだったら今私がステージでも歌ってるんだけどもあのそれをしばらくやめて明菜の歌としてこの歌を世に出してほしいと。
で、その数日後の地方のコンサートで別に何も言ってなかったし今みたいにネットもないんですけどお花が届きましたね。明菜さんから。一度だけです。それが多分「難破船」やりますって言う OK の返事なのかなっていうそんなやりとりがありました。

こうして明菜が歌う「難破船」はシングル盤として発売。歌番組で歌うその姿を見て加藤は鳥肌が立ったという。
加藤:

私以上にね、この歌に歌われている、深い海の底に沈んでいくような無力感とか絶望感みたいなものが伝わってくる音だなって。歌も本当にその一個ずつの音符を歌うことよりもその世界を歌おうとしてる明菜さんの気持ちが伝わってきました。その主人公であり続けたっていう存在としてね、すごい人だなぁと思いました。

明菜は「難破船」で日本レコード大賞特別大衆賞を受賞。情感豊かに歌い上げた。
(難破船)
中森明菜デビュー40周年。少女A、「禁区」など多くのヒットソングを手掛けた作詞家売野雅勇。いま明菜に対し思うことは。
売野:

彼女の背負った人生とかあるいは運命とかそういうちょっと神秘的なところまで全部がね、あの表面に出てきちゃう、声に出てきちゃう、顔に出てきちゃうっていうような稀に見る芸術家なんじゃないかと思いますね。だから、こういう歌手の方っていうのは本当に、20世紀21世紀になっても他にいない人だと思うんですよね。ご本人も自覚はしてるのかもしれないけれども明菜さんは明菜さんが思っている以上に偉大な歌手で、天才的で、本当に貴重な尊い歌手だという風には思いますね。

常に自分の考えや感性を信じ続けてきた中森明菜。デビュー40周年に際し決意とも思えるメッセージを発表している。
今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません。
ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです。
中森明菜
独自の感性と世界観で多くの人を虜にする表現者中森明菜。新たな歌声を私達は待っている。
(少女A)


for English

中森明菜デビュー40周年 女神の熱唱!喝采は今も / Nakamori Akina Debut 40thAnniversary, DIVA singing enthusiastically! Applause still now.
Duration: 120 minutes
Broadcast date: Nov 4, 2022
TV station: BS-TBS
Program URL: https://bs.tbs.co.jp/music/nakamoriakina/
Translated from; https://www.bilibili.com/video/BV1tg411B782/


Nakamori Akina has longed to be a singer since her childhood. The springboard for her debut was the audition program "Star Tanjou!". However, she failed twice. One of her judges, vocalist Matsuda Toshi, said:

"You're good at singing, but your face is so childish, so it's impossible. Isn't it better to sing nursery rhymes instead of singing adult songs?"

Then Akina retorted.

"You say I should sing nursery rhymes, but I don't think nursery rhymes will be accepted in ‘Sta Tan’.”

Akina's words, which could be taken as a protest, caused a stir in the venue. Nakamori Akina, who was always honest with herself. Akina, who had this attitude even before her debut, did not give up. Her third attempt. Akina sang Yamaguchi Momoe's "Yumesaki-an’nai-nin" and she passed with 392 points, the highest score since the program started. At the final tournament, 11 record companies and production companies put up placards indicating their intention to acquire. She finally got the chance to make her debut. At this time, Nakamori Akina was 16 years old. Akina, whose debut was decided, was given the stage name Mori Asuna by her agency. But she insisted to make the debut under her real name. In her own essay, she described her thoughts at that time as follows.

"I want to act as Nakamori Akina. I like this name. I don't want to do things that I can't convince myself. Moreover, when it doesn't go well, I don't want to complain and think later on, "In reality, I thought another way at that time."”

She was not an ordinary idol. And stick to her attitude. Her "Slow Motion" was released on May 1, 1982, and Akina made her start as a singer. This is a video of when she appeared on a TBS program right after her debut. Since then she has delivered many of her songs to the living rooms.
(Slow Motion)
The days were the heyday of idols. She had strong rivals such as Matsumoto Iyo, Hayami Yu, Hori Chiemi, Koizumi Kyoko who made debut in the same year. Akina debuted several months later than her rivals, and her topicality was not high, but her presence and her singing ability stood out. Nakamori Akina got a makeover with her second release, "Shoujo A" with which she had a big breakthrough. There was a drama there that we didn't know.Akina fell behind her rivals, but how can she catch up? The staff worked out a strategy and changed direction from the innocent girl direction of the debut song "Slow Motion" to a bold direction change with a completely different flavor. The title is "Shoujo A". The lyrics were written by Urino Masao, a rookie lyricist who was also a copywriter. Urino, who later worked on many hit songs such as "Namida no Request" by Checkers, had never met Akina until then.
Urino:

Zero, zero, information zero. I was told to write for an idol named Nakamori Akina who made her debut with "Slow Motion". I just received a sheet of a leaflet. Later I was often told various things,  such as I interviewed Akina-san and wrote on it, but of course I didn't know her.”
So, based on the story on stock, in which a man and a woman who met at a poolside, the main character was replaced from a man to a woman.

Urino:

In the stock work, I wrote a story about (a man) seducing a 16-year-old girl at the poolside, but I wondered what would happen if I shot it from the girl's perspective with changing the camera from her side. I wrote it in that way.”

上目使いに盗んでみている蒼いいあなたの視線がまぶしいわ
いわゆる普通の17歳だわ 女の子のこと知らなすぎるのあなた

Urino superimposed the psychology of a sensitive girl on Akina.
Urino:

"いわゆる普通の17歳だわ / I'm a so-called normal 17-year-old", and "早熟なのはしかたないけど / it is inevitable I'm precocious". I thought I wrote these phrases quite well, at that point.”

And "Shoujo A" started walking alone.
Q:

So the world of "Shoujo A" written by Urino-san was life-sized with Nakamori Akina, wasn’t it?

A:

It may be rude to say life-size, but I think there was something that coincidentally resonated with her. It's not about doing something like that, it's about the atmosphere, the parts that come out of your constitution, the parts that you can understand, and the parts that you're interested in. I heard later that she at first rejected to sing very hard. It's written with a rock beat, so the feeling of the song and the feeling of the arrangement just feels delinquent. She should feel that way, didn't she?

Akina thought that Urino wrote it thinking she was a delinquent girl and said she never wanted to sing. But she understood that she was it was in the world of a song, and she became the main character and sang wonderfully.
Furthermore, Akina came up with her new strategy. In order to raise her profile, she energetically toured local broadcasting stations, record stores, and supermarkets. Tomioka Nobuo, who was in advertising for the record company at the time,
Tomioka:

It was tough. Matsumoto Iyo was already leading the way, followed by Koizumi Kyoko, Hori Chiemi, Hayami Yu, and finally Johnny's Shibugaki-tai. In terms of position, she was 5th and 6th. But it's the singing ability that wins. Her singing ability is not enka, but she had a world where she could be heard even if she sang standing on a miserable looking paper box. We wanted it to be the main point of the promotion. Well, it's the pattern for enka.”

This time, we got a rare video of Akina standing on the stage in the "Shoujo A" campaign. The day before the release of "Shoujo A", Akina was on the roof of a supermarket in Fukuoka City.
(Jul 27, 1982)(Akina said she invited sunny weather, hence she felt sorry to let audience come here on such a hot day.
These steady efforts bore fruit, and "Shoujo A" ran up the hit charts. A hit with 400k copies sold. She stood in the same level with the idols of her contemporaries who preceded her. And on September 16, 1982, Nakamori Akina made her first appearance on TBS's The Best Ten, which was her long-cherished wish. This is a precious video of that time. A live singing program that she longed for. Four months after her debut, there were people all over the country behind her TV camera.

“I became so nervous that I wanted to go to the bathroom.”

Akina, who showed her unadorned 17-year-old face, was nervous. But when she grabbed the mic, she gave a magnificent performance.
(Shoujo A)
Then, Akina would soon be number one on The Best Ten. "Second Love" was Nakamori Akina's third single. Akina won first place in The Best Ten for the first time with this song. The Best Ten was an epoch-making program that ranked songs based on the numbers that were drawn out from four types of request letters, record sales, radio station and cable broadcasting, without caring non-fact. Akina finally won first place in that The Best Ten. With this as a trigger, she almost always appeared at The Best Ten. "Second Love" was a ballad whose lyrics were written by Kisugi Etsuko and songby Kisugi Takao, the same as her debut song "Slow Motion".
(Second Love)
Akina started running as a top idol. There was a person who sensed her talent even before her debut. It is Nomura Seiichi, who took the jacket photo for "Slow Motion". Nomura was a popular photographer who has photographed many actresses and female singers.
Nomura:

I think we first met at the recording studio. Just hearing the beginning of the song gave me goosebumps. This girl was amazing. I couldn't believe her voice and singing were so good at her age. The gap between this first impression by meeting and the song was huge. It's completely different. It was a difference of feeling like "Eh! Who is this girl!?"

Furthermore, Nomura was shocked by
Nomura:

Until then, most talents were smiling, but Akina-chan was a girl who didn't smile or, although it's a strange way of saying it, sell flattery.”

Nomura, fascinated by Akina, immediately recommended her for the cover of a popular comic magazine he was in charge of. An unknown newcomer was put on the cover of popular magazines. It was unusual.
Nomura:

At that time, I was in charge of selecting the model for “Young Magazine”, so when I met Akina-chan, I thought, "There's an amazing girl. She's really cute, sexy, young. It is rarely to meet such girl. Moreover, the singing is very very good. This girl is good.”, and I put it on the cover.”

In addition to the cover, special section was also organized with the photos taken by Nomura.
Nomura:

Then I actually got a call from the editorial office who said, "That's amazing." 6k letters have arrived. It is said that 6000 passes have never happened so far. Such amount don't usually come.”

The editorial staff was surprised by the unexpected response. Akina already had solid basis that was enough to break through. Akina, who has steadily evolved as an idol, had two directions in her songs. One is a ballad track that sang the feelings of a young girl like her debut song ``Slow Motion, and the other is a tsuppari track like “Shoujo A that sings the main character who claims her point. Her 4th single “1/2 no Shinhwa”. This song was also one of the tsuppari direction inherited from “Shoujo A". The contrasting alternating strategies highlighted Akina's presence.
(1/2 no Shin-wa)
This is a ‘8ji dayo Zen’in Shugo’ live broadcast stage. During the commercial, she answered the voices from the audience with a smile. When the performance approached, she entersed the world of singing. The Jukkai was a song of a tsuppari direction depicting a strong woman admonishing a weak man.
(Jukkai, Aug 11, 1984)
Smile again when she finished singing. This was also a charm of Akina. Next is, Akina enjoyed a trip to Europe with rare footage. And the hit song "Kinku" and Akina's expressiveness. Nakamori Akina also appeared on a variety show on TBS. There was Akina who showed a different expression from her singing program.
(The Hit Stage, Jan 29, 1984,)
In the second year of her debut, she went to Europe to shoot a music video. She made her heart beat on location in a foreign country. The Sacre-Coeur Basilica is a tourist attraction representing Paris on the Montmartre hill. You can see the city of Paris from here. Such an encounter in the city. At the Trevi Fountain in Rome. Legend is that if you throw a coin in backwards, your wish will come true. The Mouth of Truth is an ancient Roman manhole cover. Legend has it that if a person with a deceitful heart touches it, it will be cut off or will not come off. In addition, the recording of the 6th single "Kinku" was also done during this location. This "Kinku" was also written by Urino Masao, who wrote the lyrics for "Shoujo A". Urino highly appreciated Akina's power of expression.
Urino:

She expressed the lyrics written by the lyricist about 20 times deeper. It's not that She’s delving into it trying to delve into it, but when she sang it, it all came out naturally. That's because she had the most amazing things.”

When writing Akina's lyrics, he had a strong commitment.
Urino:

I was always thinking about songs that people didn't say and people didn't sing. It doesn't matter if it's insane or anti-common sense against common sense. I would rather aim for it.”

He also paid close attention to the title.
Urino:

Partly I think the title is all. ‘1/2 no Shin-wa’ was originally intended to be ‘Deliquent 1/2’, so when I put out the title ‘Deliquent 1/2’, the people at the record company got angry, or rather, freaked out. They said they can't get this far. As for ‘Kinku’, when I went to China, I slipped out during a concert and looked around the gymnasium. I saw on a white wall, one letter on one board, two letters on two boards that were 禁区. I had a lot of fear. I input it in my heart and I thought that someday I would like to use it somewhere.”

"禁区" in Chinese means "Do not enter here".
Urino:

That's right. Forbidden area, keep out. Since the song was a story of such "unforgivable love", I thought this title was good.”

Akina's outstanding power of expression. "Kinku" captured the hearts of listeners even more.
(Kinku)
Akina Nakamori The Best Ten Treasured Video!
Akina was ranked by "Shoujo A" in TBS's The Best Ten for the first time. She since made the Top 10 for 223 times and was called the "Queen of The Best Ten". Her audience eagerly awaited Akina's appearance, but her appearance was also thrilling. She sometimes held the mic while she was on the move.

  1. Slip into the entrance of the station! : After the concert in Aichi Prefecture, Akina had to return to Tokyo immediately, and there was also a live broadcast of The Best Ten. She then took a taxi and stopped at Shizuoka Broadcasting Station on the way to do both at the same time. And she sang live from the front door. (Shoujo A) As soon as she finished singing, she got into the office car that was waiting for her and headed straight to Tokyo. Stay time was just over 5 minutes. Akina's schedule was literally minute by minute.
  2. Sing on the Shinkansen! : While Akina was moving on the Shinkansen, the broadcast of The Best Ten started. So when she stopped at Himeji station, the relay was connected, and she sang in the car. (Jukkai)

Akina, who was about to be 20, tried to break away from being an idol. She aspired to be a full-fledged artist.
The next song was "Kazarija Nainoyo Namidawa" written for Akina by Inoue Yousui, who has worked on many topical works and sang by himself. Many of her outfits were Akina's ideas. She actively adopted the cutting edge fashion of her time, such as pants style. Akina’s taste attracted many female fans. She was also highly admired as a fashion leader.
(Kazarija Nainoyo Namidawa)
Akina continued to release hit songs. This "Southern Wind" also won first place in The Best Ten.
(Southern Wind)
In 1984, the third year of her debut, Akina shined at the Japan Record Award, that was the highest peak in the music world.
(Announcement of the Most Excellent Star Award)
Akina has joined the ranks of top singers in terms of both ability and popularity. Kita Wing was the 7th single. The title was Akina's own suggestion.
(Kita Wing)
Next is, Nakamori Akina would sing with tears to the top of the music world!
On New Year's Eve in 1985, Nakamori Akina was at the venue of Japan Record Award, the most prestigious song festival. It's time to announce the grand prize. The presenters were actress Miho Jun and Ochiai Hiromitsu, who won the triple crown in professional baseball that year.
Finally won the GP. The tears that she seldom showed in public filled her eyes.
(Meu Amor e…)
Akina, who stood at the top, further strengthened her commitment as an artist. The lyrics of "DESIRE" were written by Agi Yoko, who wrote many hit songs for Yamaguchi Momoe, who Akina admired. It depicted a strong and beautiful Japanese woman. This "DESIRE" surprised the viewers by jumping up from 33rd to 1st place in The Best Ten, for the first time since the program started. However, what attracted even more attention was the original costume, which can be said to be a fusion of Japanese and Western styles. The world of her songs, which Akina created herself, astounded those involved with her.
Akina: At first, I thought about wearing a kimono in the cover picture of the single record as I like kimono. Then I thought, I would like to make costumes and kimono-related things, if possible.”
"DESIRE". Everything about Akina was condensed into this song.
(DESIRE)
Fujikura Katsumi, the director of DESIRE, said he was shocked by Akina's production ability.
Fujikura:

I thought it was amazing because it surpassed my image of TV appearances and expressions including singing. She had a great visual sensibility, so when she said that she wanted to express, it was as one package, including, of course, the sound that was the most important, the record cover and so on. In that sense, I think she's a great producer.”

And the 1986 Japan Record Awards. Akina was at the top again.
(DESIRE)
In 1986, at the Japan Record Award, with tradition and authority, Akina was on top again. It was also her feat of winning the GP for the second time in a row, which no woman had ever achieved.
(DESIRE)
Nomura Seiichi, the photographer who took many of Akina's cover photos, said that he was impressed by Akina's unchanging consistency.
Nomura:

When I said "smile," she would not show a smile at all. On the contrary, the moment I said that, her angry face and dignified side came out, and it was the real thing. I don't think she liked appearing in gravure. She knew it's a promotion to sell the record, so she can't stop it, but I don't think she thought that doing this would sell the record. That's right, She had absolute confidence in her singing. She had a face like "Why do I have to do this?", but when she stood on stage, she was a different person.”

There is a picture in which Nomura, who kept taking pictures of Akina, thinks the best shot.
Nomura:

This was taken in a pineapple field in Hawaii. I don't think I had seen a smile like this in my photos. In all other pics, she looked angry. But she was in a good mood at this time, so she was doing with pineapple like this. She held a pose that I didn't ask for, so when something fits comfortably in her, it should be like this. At the time of the singing stage, she is like this image, isn't she?”

Akina's sensibility, which fascinated many people, further refined.
(Gypsy Queen)
Nakamori Akina's songs were growing in maturity. In "TANGO NOIR", she wore a red dress and danced brilliantly. She learned ballet in her childhood.
(TANGO NOIR)
Nakamori Akina continued to evolve. She continued to run as a fashion leader, always challenging new worlds. In "TATTOO", she showed sexy choreography in a tight body-conscious style.
(TATTOO)
Next is, the true value of the expressive Nakamori Akina! "Nanpasen" Untold Story.
Nakamori Akina released many hit songs to the world. Some of her songs were presented by writers who were fascinated by Akina's talent and way of life. "Nanpasen" was a song written and sung by Kato Tokiko, who had many hit songs as a singer-songwriter.
Kato: This song was about my heartbreak when I was 20. A heartbreak at the age of 20 was my first setback, so it was a tremendous shock. I was singing over 40 at that time. Ah, I thought that the main character of this song should be in her 20s, so I thought about giving it to Akina-san.
I decided it when I saw Akina appeared on TV on her 22nd birthday and everyone would congratulated her, but she said, "I hate being 22." When I heard it, I chose her to be the main character. I felt a strong sense of closeness to Akina-san and I thought she was great, who properly said things like, "I hate it” while everyone congratulated her.
Therefore, Kato Tokiko directly handed over a cassette tape that she sang ‘Nanpasen’ herself.
Kato:

So I handed over the cassette. “I think this will suit you well. If you're going to sing it, though I'm singing it on stage now, I will stop doing for a while. Please release this song to the world as Akina's song.” Then, a few days later, at a local concert, I didn't say anything, and there was no internet like now, but flowers arrived from Akina, only once. There was such an exchange that maybe was her OK reply that she would sing "Nanpasen"”.

In this way, Akina's "Nanpasen" was released as a single. Kato said that she got goosebumps when she saw her singing on a singing program.
Kato:

More than me, hers had the sound of this song that conveyed the helplessness and despair of sinking to the bottom of the deep sea. I could feel Akina-san's feelings of trying to sing about that world rather than singing each note one by one. I thought she was an amazing person as she continued to be the main character.”

Akina won the Japan Record Awards Special Popularity Award by "Nanpasen". She sang it expressively.
(Nanpasen)
Nakamori Akina debut 40th anniversary. Urino Masao, the lyricist who worked on many hit songs such as Shoujo A and Kinku. He thinks about Akina now;
Urino:

The life she carried on her shoulders, or even her destiny that is a little mysterious, all of those things come out on the surface, come out in her voice, come out in her face. A rare artist. I think singers like this are truly unique even in the 20th and 21st centuries. She may be aware of it herself, but I think that Akina-san is a great singer, a genius, and a truly precious and venerable singer, more than she thinks”.

Nakamori Akina has always believed in her own thoughts and sensibilities. On the 40th anniversary of her debut, she has announced a message that seems to be her determination.
“This year, 2022, marks 40 years since I made my debut. As the 40th anniversary of my debut, toward some kind of activity, I've been facing my physical condition every day, but I can't say that I'm in perfect physical condition yet.
I think it's going to be slow, but I want to start walking, so I'd be happy if you could watch over me.
Nakamori Akina”
Nakamori Akina is an artist who captivates many people with her unique sensibility and worldview. We are waiting for new singing voices.
(Shoujo A)


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