ハクセキレイの恋人10

ページ名:ハクセキレイの恋人(10)

ハクセキレイの恋人(10)

 

 *   *   *

 

 

 営業部の部屋に戻ってくるや否や、千尋は隣席のエディに抱きついた。

 

「わぁぁぁ、千尋さんっ!?」
「どうしよ~~~~アタシ完全にやっちゃったかも~~~~」

 

 何がなんだかわけがわからない、と言いたげなエディ。その胸元の毛並みに顔を埋めて千尋はぐしぐしと泣いている。涙やファンデーションやらで毛並みがぐちゃぐちゃになるだろうが、千尋の尋常じゃない様子に黙ってぬいぐるみのような扱いをされるがまま。
 そんなエディに、じろり、と午前中の外回りを終えた営業部の男子社員達の目が突き刺さる。
 何やってんだお前……。
 いいとこ取りしやがって、羨ましい。
 何千尋さんを泣かせてんだよ。
 そんな言外の視線にエディは汗を滴らせながら首を横に振るばかりだ。

 

「……何やったんだ、一体」

 

 今の千尋は傍から見れば完全に地雷であるが、それに足を掛けたのは教育係になりつつあるやなゆーである。

 

「どうした。何をしたらそんなに泣くほどに追い詰められる?」
「やなゆーさん……アタシ、オオバさんに完全に嫌われちゃったかもしれないですぅ~~~~~~~~~~!!!!」

 

 オオバ、と聞いてやなゆーの目の色が変わる。

 

「おまっ……自分でアプローチかけたのか!? あの状況で!?」
「うぅ~~~~だって、一緒にちゃんと仕事がしたくてぇ~~~~っ!」
「いいから落ち着けっ! 泣くな! 事情を話せッ!」
「落ち着くのはやなゆー、キミの方だから」

 

 ただならぬ雰囲気に思わず駆け寄ったのはネルオットである。

 

「何があったか、落ち着いて話してごらん。上司の私でも話を聞くくらいはできるからさ」
「うぅ~~~~課長~~~~!!」

 

 ネルオットはよしよし、と腰を落として千尋の頭を撫でる。
 やなゆーが北風だとしたらネルオットは見事に太陽だ。今の千尋は北風の影響もあってか、太陽に縋り付きたくもなるのだろう。
 その時、営業部の扉がまた乱暴に開かれた。

 

「失礼します~! あ、どうも、創作部のエテと申します……」

 

 一斉に向けられた営業部男性陣の視線にひえっ、と身を竦めるエテ。
 日頃よほどの物好きでなければ創作部のメンバーは立ち入らない営業部の雰囲気に困惑している様子を一瞬垣間見せたが、千尋の姿を見て駆け寄った。

 

「千尋さん……もう、すっごく足が速いから追いつくのも大変でしたよ~」
「なにか知ってるのかい?」
「オオバさんとの打ち合わせのときに同席させてもらってたんですよ~」
「そういうことなら事情は早い。一緒に話を聞かせてもらったもいいかね?」

 

 

 *

 

 

 ネルオットに促されて、泣きじゃくったままの千尋とエテが向かうのはすぐ隣のミーティングルームである。対面で4人座れるソファーがあり、千尋はエディを抱えたまま座り込む。向かいにネルオットが座り、千尋の隣にはエテが座った。やなゆーは壁に背中を預けて腕を組んでいる。
 グスグス泣いている千尋を皆で宥めている最中、ノックの音が響いた。

 

「……失礼する」

 

 誰が呼んだのだろうか。おずおず、と言った様子で現れたのは部長であるヴィルヘルムだった。
 お呼びじゃないですよ。空気読んでくださいよ。そういう視線が同時にネルオットとやなゆーから注がれる。
 当のヴィルヘルムはそんな視線に屈するものかとごほん、と咳払いを一つ。右手に持っていた白い箱を無造作にテーブルに置いた。そして、左手のお盆には人数分のホットコーヒーとミルク、砂糖。

 

「あー……これ、皆で食ってくれ」

 

 声と共に目を赤く腫らした千尋がおしゃれなフォントで店名の書かれた白い箱を見る。

 

「『シュガー』のパン……」

 

 千尋の出身世界にあるパン屋だ。過去に成り行きで店員さんと仲良くなって以来、ちょくちょく通っている。
 そこの甘いパンが特に好みだ。

 

「たまには部下に労いをと思っただけだ。残りのメンバーの分は別にあるから、全部食べていいぞ」

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、やなゆーは咳払いするヴィルヘルムを見遣る。
 彼は視線に気づくと微かに眉間にシワを寄せてから、すぐに踵を返した。

 

「……何かあったら呼んでくれ。俺は仕事に戻る」

 

 ヴィルヘルムが去ってから、そっと一同が箱の中を見る。
 甘いパンがぎっちりと詰まっていた。どう考えても4人では食べ切れない量だ。

 

「これはあのヴィルヘルム部長が……?」
「私が知っている限り、こんな差し入れは今まで一度もなかった」
「なんかの嵐の前触れじゃないですか。あるいは検閲が来るかのどっちか」

 

 口々に好き勝手なことを言いつつ、まずは千尋が砂糖がたっぷりと乗ったお気に入りのパンを取り、他のメンバーが続けて思い思いにパンを取ったのだった。

 

 

 *   *   *

 

 

 一悶着を終え、作業室に戻ってきたオオバ。自分の絵が置いてあるブースに戻ると――

 

「……これ、アンタの絵か?」

 

 真っ直ぐに自身の描きかけの絵を見ていた、白と黒のツートン・カラー。ハチワレ柄の毛並みに包まれた猫獣人に声を掛けられる。
 最近作業部屋でよく絵を描いている姿を見る。確か、名前は。

 

「タマさん……でしたっけ」
「まだ未完成なのにジロジロ見て悪い。俺、アンタの絵、好きなんだ」
「……それは、どうもありがとうございます」

 

 千尋と喧嘩をしてすぐだというのに、心はまだざわついているというのに――戻ってきてまだ名前しかしらない猫獣人からそんなことを言われても素直には喜べない。
 だというのに彼は、そんなことは一切気にしていない様子だった。

 

「今回のはいつにもまして傑作になりそうだな」
「どうかしら。私のありのままを描いているだけだから」

 

 絵の具、ちゃんと掃除してくださいよ。オオバはタマの足元に落ちているパレットを見遣ってそう言う。
 しかし全く絵の具を掃除する素振りなんて見せなかった。猫は自由気ままで奔放だということは聞いていたが、彼も例に漏れずそういう部類なのだろうか。

 

「ありのまま?」

 

 タマが訝しげなトーンでそう返す。

 

「そうよ。ありのまま……私が見たことがある景色を、そのまま描いているだけ」
「そんなことないだろう。アンタの作品、いくつか見たけどどれも俺の好みだった。シュルレアリスムだろう?」

 

 シュルレアリスム――口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的、道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り。あるいは、現実離れした奇抜で幻想的な芸術を示す。
 私は首を横に振った。

 

「そんなことないわよ。私、そこまでイメージを落とし込むことはできないもの。本当に昔見た風景を描いてるだけよ」
「こんな場所が実在するとは思えないが」

 

 タマは描きかけのオオバのキャンバスを見て、唸る。

 

「アナタがどんなところで、どんな風景を見て育ったかはわからない。けれど、少なくとも私はそうだった。これが私にとっての現実だった。火山があり、森があり、海があり、帆船がある世界が私にとっての日常」

 

 背の高いタマが、初めて絵から視線を逸した。
 オオバの黒い瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「……提案がある」
「何かしら。作品の制作で忙しいけれど、今なら聞いてあげてもいいわ。……絵の具もまだ乾ききっていないみたいだしね」

 

 私の心も、まだ収まりがついていない。今筆を握ったとしても、この絵のクオリティが上げられるとは到底思えない。

 

「俺と合作しないか」

 

 タマの提案に、オオバは目を向ける。
 今の張り裂けそうな気持ちを押さえつけるには、悪くはない提案だ。

 

「いいわよ。MU、ブース14にキャンバス出して」

 

 ――F150号。
 彼女がそう言った瞬間、プラスチックのような素材で作られたパーテーションが勝手に動き、3つ分のブースを潰す。広々としたそこに忽然と巨大なキャンバスが現れた。
 高さは2メートル弱、横は2メートルを超えるそれは市販されているキャンバスの中でも最大サイズだ。

 

「……はは、F150号のキャンバスでっけーな」

 

 獣人の平均よりも高いタマの上背を超える高さのキャンバスを見上げ、微かに口元を歪める。

 
「あら、合作でしょう? ちまちまっとA4用紙にでも二人で描きたかったかしら?」
「初めて見たからちょっと圧倒されただけだ。小さい筆でちまちまっと描くような代物じゃねーな、こいつは」

 

 タマの口角は上がっていて、まるで新しいおもちゃを与えられたような子供のような目でキャンバスに顔を近づけては爪の先で傷つけないように撫でる。

 

「言っておくけれど、筆なんて使うつもりはないわよ。MU、ありったけの絵の具」

 

 MUの魔法の力で瞬間的に現れるのは200色以上の絵の具チューブだ。その一本一本がタマの掌になんとか収まるサイズの大きなそれ。
 ずらりとキャンバスの前に弧を描くように現れたそれらのうちから、オオバは一本を引き抜いた。徐にキャップを開け、自らの手にこれでもかと搾り取る。
 力強くキャンバスに叩きつけた。跳ねたオレンジの絵の具がオオバの白と黒の羽毛を汚しても、彼女は一向に動揺した様子は見せなかった。

 

「私はこの広いキャンバスにありったけの全部を叩きつけるつもりよ」

 

 アナタにそれができるかしらね?
 心が乱れたまま発されるオオバの煽りとも取れる台詞に、タマは肉食獣を彷彿とさせる牙をむき出しの笑みを浮かべた。

 

「……面白いじゃねぇか。受けて立つぜ、おばさん」
「おばさんは余計よ」

 

 タマも絵の具の一つを取り、己の肉球付きの掌に力いっぱい蒼い絵の具を搾り取る。

 

 

 *

 

 

 ――おいすげーぞ! 今、作業部屋でライブペインティングやってるぜ!
 ――しかも合作だってよ! ふたりとも鬼気迫る勢いで描いてるらしい!
 ――まじかよ、ちょっと面白そうだな……見に行こうぜ!

 

 突如始まった作業部屋でのライブペインティングはそうでなくとも絵に興味のある者たちが集まる14階ですぐに話題になる。
 部屋はもう集中して作業するための空間ではなく、オオバとタマのライブペインティングの会場になってしまっていた。イラスト系の創作部員が詰めかけ、部屋は溢れんばかりの人だかりとなる。やがて誰が始めたか、その様子がMUを通じて社内ネットワーク経由で生中継されるまでとなった。
 それをきっかけに社内中へとその出来事が拡散していく。

 

 タマもオオバも、身につけるエプロンや割烹着が無造作に拭かれる絵の具によって白から艶やかな色に変色し――元々の毛並みや羽毛がもう何色だったかわからないほどに絵の具で汚れている。ギャラリーの視線など知ったことではない、と言わんばかりに目の前のキャンバスに集中し、絵の具のチューブを直接キャンバスに押し付け絞る。巨大な筆でそれを散らしていく。掌に絵の具を盛って、それを直接塗りたくる。指で丁寧に整えていく。
 絵の具の跳ね返りがギャラリーの最前列に掛かるのは必然で、絵の具が空になったチューブを投げ捨てた時にぶつかることもある。
 それでも距離を取ろうという観客は居なかった。
 リアルタイムに描かれていく巨大な絵が、どのように完成していくのか。その完成形が見えているのは今、描いているふたりしか知らない。絵の具を体中に纏わせ、一心不乱にキャンバスに色を置いていくふたりの動向を、固唾を飲んで見守ることしかできないのだった。

 

11話目に続く

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