ハクセキレイの恋人(12)
*
それを見た瞬間、千尋は駆け出していた。
「おい、千尋!?」
「千尋さん!」
その背中を追いかけるのは、やなゆーとエテである。呼び止める声は千尋には届かない。
「MU、オオバさんのプロフィール見せて」
千尋はエレベーター脇の階段を14階の創作室へ向けて駆け出しながら、MUが表示したオオバさんのプロフィールを横手でちらりと見た。
「オオバさん、やっぱり……」
ある項目を見た千尋は囁き、創作室へ向かう足をさらに早めた。
* * *
最後の一筆の絵の具を盛って、数歩下がってキャンバス全体を見る。全てを出し切った。これ以上絵の具を盛るところは無い。
それを確認したオオバは、ふぅ、と息を吐いた。呼吸すら忘れていたような気がする。
久々に誰に指示されるがでもなく、自分の赴くがままに絵を描いた気がする。思い返せば、最近は依頼されて絵を描くことが多く、自分のために絵を描くなんてことはしなかったな。
ふと見れば、タマも下がってキャンバスの全体を見て、同じように息を吐いた。彼も呼吸すら忘れていたのだろうか。
「完成?」
そう訊くと、彼は小さく頷いた。
「あぁ。完成だ」
同時、わっと拍手が背後から湧き上がった。
振り返ると人や獣人たちの壁ができていて、ぞぞぞっ、と羽毛が逆立つ。
――こんなことになってるなんてまるで知らなかった。
キャンバス以外は何も見えていなかったのは、タマも同じだったのだろう。
二人揃って苦笑いして、顔を見合わせて笑った。
創作室のギャラリー達はひとしきり写真を撮ったり、ふたりに軽い挨拶をしたらまばらに散っていく。
「……オオバさんって、人間も描けるんだな」
タマが不意に言った。
「え?」
「アンタの公開している作品は全部見てる。ほとんど人間が居ないものばかりだった。シュルレアリスムの風景画が表現方法なのかと思っていたが、案外違うんだな。あの描き方は明らかに描き慣れてるって感じだった」
あの描き方というのがライブペインティングで用いた手法だということは理解出来る。
確かに私は人間をある程度描けるだけの技術を持っているという自覚はある。でも――
「なんで人間描かねぇの?」
「私が描きたくないからよ」
「なんで?」
――そんなこと、アンタに言うわけないじゃない。
ひとの心の奥にズカズカと踏み入るような軽率な質問に、苛立ちを覚える。
これじゃ、まるで新しい担当のあの子みたい。折角いい気分で描いてたのに全てが台無しになった気すらする。
しかし、そう言おうとした矢先。
「俺、オオバさんが描く人間も好きだな。むしろシュルレアリスムの風景画よりもこっちのほうが好きだ」
「……っ」
キャンバスに向き合ったタマがそう言う。その視線は私の描かれた絵に注がれており、一見判別しにくいが微かに口の端がつり上がって笑みを浮かべているようにも見える。
「だから描かないってのはもったいないような気が――」
「オオバさん!」
名前を呼ばれ、創作室の入り口に振り向けば息を切らせた千尋が居た。
「なっ……またアナタ? いい加減にしてよ!」
「取り込み中のところすみません! でも、やっぱり――どうしても納得いかなくて。人間が嫌いなんて、本当は嘘なんでしょう?」
息を切らせながらも捲し立てるように彼女は私に詰め寄ってくる。
「な、なんでそんなことっ……」
「エテさんに概ね聞きました。本当は鳥だった頃からずっと人間が好きだったんじゃないんですか?」
じろり、と千尋の背後に視線を向けるオオバ。
創作室の入り口にはエテが遅れてやってきて、雰囲気に両方の翼を合わせて謝るような仕草をしている。
それを見たオオバは深い溜め息を吐いた。観念した、というような表情だ。
「えぇ、そうよ……本当は、私は人間が好きだった。いや、もっと正確に言えば――好きだったヒトが居たの」
過去形の言い草に、千尋ははっと気づく。
「鳥だった頃にね、私はヒトに一方的に恋をした。でも、私は鳥としての生を終えてしまったの。だから、そのヒトにはもう会えない。ヒトを見るとその頃の記憶が蘇って、辛くなる」
――だから私はヒトを嫌いになったの。
視線を落として囁くように、独り言をしゃべるような囁かな声。それはあまりにも辛い死別の告白だった。
(13話目に続く)