ハクセキレイの恋人9

ページ名:ハクセキレイの恋人(9)

 ハクセキレイの恋人(9)

 

 *   *   *

 

 十四階のイラスト課の作業部屋で、エテと別れたオオバはキャンバスに向かい合っていた。
 描いているのは締切が着々と近づいている凍凪杯のポスターに使われるイラストでなく、とある風景画だ。目前に静かなさざ波をうっている海とそれを覆うように沖に広がる巨大な防波堤。海辺から僅かな岩場を挟んですぐにはじまる人気の少ない針葉樹を中心とした森の光景である。
 オオバの得意とする「超自然的な」油画であった。
 切り取るモチーフの自然に対し、引っかかりのある巨大な灰色と配管を纏った防波堤という人工物がキャンバスの中で一体化し、ミスマッチな不安定さが観るものの心を揺さぶる。
 針葉樹の葉に色を乗せたところで、一度筆を置く。絵の具を重ねた手法で表現する木々は、もう少し描き込みがなくては満足する出来にはならないが、絵の具を乾かさなければ自分の理想通りのタッチで描けないだろう。
 まだ筆を動かしたい気持ちはあったが、一度筆を置いて翼を大きく広げた。高く上げ、肩と水平な位置まで下ろし、最後にストンと重力に任せるがままに力を抜く。首を回すと、絵を描くために張っていた筋肉が弛緩するのと同時に骨が鳴った。
 私も少し年を取ったな、とこういう瞬間に感じる。
 ある程度身体をほぐし終えたところで、長時間放置していたスマートフォンタイプのMUが微かな光を発してなにかの着信を知らせていた。手に取ると、メッセージが一通。

 

 お疲れ様です!千尋です!
 夜霧さんと打ち合わせしたので、その報告も兼ねてもう一度打ち合わせができたらなと思います。
 お時間があるときにお返事頂けると幸いです。

 

 チヒロ、という単語を絵を描いていたせいでうっかりと忘れてしまっていたが、新しい担当だとその後の文脈で思い出す。
 微かな頭痛を感じながらも、返信を打とうとして――別のメッセージがあることに気づいた。

 

 やっほー、エテだよ。
 ネーム書き直ししてたら件のチヒロさんと会えたから今雑談室でお茶してるよ~。
 作業一段落したら、こっち来ない? チヒロ差し入れの美味しいお茶菓子もあるよ♡

 

 千尋のメッセージが3時間前なのに対し、メッセージの着信時間は今から約20分ほど前だ。
 最後のハートマークはエテの口癖のようなものなので、今更気になるようなことはない。

 

 今から行きます。

 

 それだけをメッセージに打ち込んで、翼で空気を叩いた勢いで立ち上がる。そう時間も掛けずに戻ってくる予定だったので、キャンバスと描画道具は放置。スケッチブックと筆箱を片手にオオバは作業部屋を抜けて隣の雑談室へと向かったのだった。

 

 

 *   *   *

 

 

「……、――……」

 

 まだ絵の具が乾ききっていない絵にさっと人影が差した。
 左手には色艶やかな絵の具が盛られた木製パレット、右手には平筆を握ったまま――真っ直ぐ向けられる金色の瞳に漆黒の瞳孔が意識とは関係なく、小さく収縮する。
 彼の左手から、パレットが滑り落ちた。床に絵の具が飛び散り、カラン、と無音の作業部屋に乾いた音が響いたのだった。
 

 

 *   *   *

 

 

「そもそもここは談話室だけれどお茶菓子は禁止だって聞いてないの?」

 

 到着したオオバは開口一番にそんなことを言った。

 

「本来であれば飲み物片手に創作活動をするのが目的なんだから」
「え~。でも、結構いろいろなところでお茶菓子食べてるじゃ~ん」

 

 エテがぶぅ、とくちばしを突き出して反論する。
 確かに見渡せばちらほらお菓子を片手に創作をしている姿も見受けられるが――。

 

「もしも誰かの大事な作品を汚してしまったらどうするつもり? デジタル派ならそれもありでしょうけれど、アナログ派にとっては致命的な欠損にだってなりうるわ」
「あたしデジタル派だも~ん」
「あぁ言えばこう言わないの!」

 

 鳥獣人特有の、金切り声の如き喚声に周囲の目がこちらに一斉に向いた。

 

「オオバさん、談話室とはいえ大声出しすぎ」
「……ごめんなさい、気にしないで」

 

 奇異に対する視線に、オオバはぺこりと頭を下げる。
 途端に興味がなくなったのか、みんなの視線は潮が引くように手元に戻る。
 ほっと一息着いたのも束の間、同じタイミングで私の正面に腰を下ろしたオオバが睨むような剣幕でこちらを見ている。

 

「ともかく、そのお茶菓子をしまいなさい。今すぐに。じゃなきゃ帰るわよ」
「あ、はいっ! すみませんっ!!」

 

 テーブルに置かれた特に開封すらしていないお茶菓子をコンビニ袋に押し戻す。エテはちゃっかりとポテトスティックのパッケージだけを取り上げた。
 オオバはふー……と大きく息を吐いて、頭に登った血を冷やしているような素振りを見せる。

 

「……それで、打ち合わせだっけ? 今朝したばかりだと思っているけれど」
「すみません、あの時は引き継ぎもロクにできてなかったので……。改めて夜霧さんとも打ち合わせをしましたし、オオバさんともしっかりと打ち合わせをしたいなと思いまして」

 

 オオバが怒るのと打ち合わせがしたいのは別の話だ。
 そこはきっぱりと言い切っていき、押していく。
 反応は先程のように怒ったようなそれでもなく、嫌悪を抱き無視するようなそれでもない。
 

「……とはいえ、なかなかいいアイディアが出ないのよ。あなた達が泣いて喚いたって、お金を積んだって着想がなきゃ作品は出せないものよ」

 

 確かに先程やなゆーと打ち合わせをした時も、やなゆーが着想したアイディアをまとめたノートを開いて一つ一つ説明しながら趣旨を話すものの、オオバが首を振るというものだった。
 あの時は嫌悪感で頭が真っ白で議事録を取るのが精一杯だったが、冷静な今の頭でならわかる。
 オオバさんが完全にスランプに陥っていて、締切が迫っているというのにアイディアも出せない状態をやなゆーが少しでもカバーしているのは目に見える打ち合わせだったのだ。

 

「あ、アイディアとかそういうのよりも……まずはオオバさんの作品を見せてもらいたいんです」
「……私の?」
「えぇ。まずはオオバさんがどんなイラストを描いているのかを知りたいので」
「それならMUで見れるじゃない。プロフィールに公開されている作品なら勝手に見れるものだってあるんだし」

 

 MUには作家の作品を、デジタルアナログ問わず自身のプロフィール欄にアップされる自動投稿機能が搭載されている(もちろん、自身で共有されないように設定することも可能だが)。
 作品データはすぐに閲覧できる環境にあることは確かだろう。それでも――

 

「でも、本人の許可がないのに勝手に見るのは気がひけるんです。それに、アナログ作家であるオオバさんの作品は、やはりホログラム越しに確認するよりも実物を自分の目で直接見たいんです」

 

 一人ひとりが違うように、書かれる文字もまた一人ひとり違うのです。作品に決まった上手さというものはないんですよ。
 要は、その書かれた文字が一番作品として調和するものがいいんです。

 

 夜霧さんの言葉の意味が、ようやく理解できたような気がする。
 一番良いものを共に創り出すと決めた今だからこそ、彼女の胸中の思いの丈が詰まった作品を、余計なフィルターを通さずに観たいのだ。
 オオバさんの創るものが、夜霧さんの創るものと最も調和するように。

 

「アタシが担当するのですから、オオバさんの作品を――鳥獣人であるというオオバさんの存在ごと全てをしっかりと理解したいんです。アタシも及ばないところはありますが、力を合わせて一緒に頑張りませんか?」

 

 千尋は握手を求めるようにオオバさんに右手を差し出し――

 

 その手が、パンッ、と乾いた音と共にオオバの翼によって払われた。

 

「……ふざけないで」

 

 オオバは嘴の付け根にシワを寄せ、憤怒の表情で真っ直ぐに千尋を見据えていた。

 

「全てを理解したい、ですって? 担当とはいえ、言って良いことと悪いことがあるにも程があるわ。二足で大地を歩くあなた達人間に、翼を以て空を翔ける私達鳥の気持ちなんて――どうあったって、理解できっこない!」
「そ、そんなこと――」
「ない、なんて言えるのは力を持った種族が上から目線で見るおこがましい視点だってことにいい加減気づきなさいよ!」

 

 オオバは千尋を払った翼で机を叩き、一気に立ち上がるどころか――飛んだ。巧みに翼で空を斬り、空中で身体を反転させて入り口に一気に舞い降りる。

 

「――貴女がMUで私の作品を見るのは勝手。数日で下書きのラフを送るわ。それでいいでしょう?」

 

 営業の仕事としては、それでいい。ポスターを制作できるのであれば、最低限の仕事だ。
 ――でも、それは千尋の望んだ仕事の仕方ではなかった。

 

「オオバさん」

 

 引き止める声はエテである。彼女も思わず椅子を蹴って立ち上がっていた。

 

「あなたはいつもそうやって人間と向き合わない! 逃げてばかりで、今回もまた逃げるのッ!?」

 

 オオバはエテの声にはっきりと――鋭いナイフで胸を突かれたように、憤怒のそれではない表情を一瞬浮かべる。
 それでも、彼女は談話室のドアを開けて踵を返した。

 

「……失礼するわ」
「オオバさんッ!」

 

 エテの引き止める声も虚しく、オオバは外へと姿を消したのだった。

 

「千尋さん……」
「エテさん、ありがとう……でも、アタシもちょっと……」

 

 はっきりと傷つけてしまったのがわかる態度に、千尋も席を立った。
 あふれる涙を堪え切れずに談話室を飛び出そうとして――

 

「千尋さん、ちょっと待って……! 貴女は悪くないって!」

 

 エテの声が追って届くが、千尋は立ち止まらなかった。
 

10話目に続く

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