ハクセキレイの恋人(8)
* * *
Rainのシフトに入ってから三時間ほどが過ぎた、午後二時過ぎ。人の波が減って、ようやく一息吐ける頃合いになった。
「お疲れ様。営業部の仕事も大変なのに、この時間帯にヘルプで入ってくれるとありがたいよ」
Cafe「Rain」のマスターである狐の獣人であるノーべが自慢のミートソースを千尋の席の前に置くと、自らも席に腰を下ろす。
「いえ、元々は私はRainの従業員としての採用だったのですし。むしろどっちが本職なんだって話ですよ」
「どちらに重きを置くか、それは他ならぬ千尋さんが決めることだ。Rainのことは気にせず、自分のやりたいことを思い切りやるといい。……さぁ、冷めないうちに」
ノーべはミートソースに軽く手を伸ばして、食べるように促した。千尋はその言葉に甘え、掌を合わせてから「いただきます」と囁いてフォークを握る。これが遅いランチなのだ。
データイムのど真ん中、十一時過ぎから軽食も食べることのできるRainは繁忙を極め、まさに戦場のようになる。その間千尋はホールスタッフとして走り回ってオーダーを受け、届ける仕事に従事した。
ホールスタッフの仕事は営業で使う思考とはまた違う部分を使う。この仕事をしている間はまるで機械に組み込まれた歯車の如く、とにかく目の前のオーダーをどう捌くか、それだけに全身全霊を注ぐ。余計なことは一切考えなくていい。例えば、営業部のストレスも考えている余裕などはない。
「Rainの人員が少ないことを改めて人事部に申し立てたよ」
ノーべは愛用している白地にデフォルメの狐が描かれたマグカップに手を伸ばしながら、不意に、まるで独り言のように呟いた。
「え……?」
「近々、カフェの仕事ができる子が配属されるだろう。もちろん、今度は専属で働いてくれるような子を採用するように口添えしておいた」
「いや、でもそれは――」
それは千尋にとって青天の霹靂のような言葉だった。思わず口に運ぎかけのフォークがパスタの上に戻る。
先に述べたように、千尋は元々ホールスタッフとしての採用であって営業部の仕事はあくまで副業だ。それなのに、手が足りないとノーべさんに思わせていた。
心臓を、ぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥る。
マグカップに唇を当てながら、ノーべは黒い瞳を真っ直ぐにこちらに向ける。「勘違いしないでもらいたいんだけれどね」と、前置きから言葉を続ける。
「Rainを利用する社員の増加と、スタッフの現状を伝えただけさ。私自身、最近筆が乗ってきてね。少しばかり店をやるよりも作品の制作に集中したいという側面もあるし、リストは大学の勉強も忙しいみたいだからね。別に千尋さんやタマくんが戦力にならない、というわけではないんだよ」
「っ……でも、ノーべさんは私に優しいばかりで全然叱らないのに――」
「キミは営業の仕事に向いてるよ。ホールスタッフとしても優秀だけれど、それと同じくらいに営業の仕事にも目を輝かせているからね。純粋に私が応援したくなったんだ」
頬杖をついて、微かに笑みを浮かべながらもそう言ってくれる。
「もちろん、余裕がある時はいつでも手伝いに来てくれると嬉しいな。千尋さんのエプロンとロッカーはいつでも使えるようにそのままにしておくから」
「すみません……ありがとうございます」
「何度も言うが、謝ることじゃぁないよ。そうやって目を輝かせている仕事ができているうちは幸せなことなんだよ」
ちょっと泣きそうになって鼻に右手を添えて啜った。
皆が私が居ることを認めて、尊重してくれる。そんなことはいつぞやのブラックな仕事をしている時はなかった。
ここで仕事することが単にお金儲けのためや生活のためではなく、自分の人生の一つの糧になっているように純粋に思えている。
「これからも、たくさん励みたまえ」
ノーべに優しく背中を押され、千尋は頷いた。
小一時間の食事も兼ねた休憩を終えた千尋はエプロンを脱ぎ、ロッカーに仕舞う。
ロッカーに貼り付けた「千尋」と書かれたマグネットを少し撫で、スーツスタイルの営業部モードに戻った千尋は踵を返して営業部へと歩き出す。
数日後、新しいカフェの店員が雇われるのだが――千尋が店員達と出会うのは、もう少し先の話である。
* * *
ランチタイムのヘルプを終えた千尋は途中でコンビニに寄る。差し入れがてら手の汚れないお菓子をいくつか選んで購入し、14階に向かった。
オオバさんへ打ち合わせがしたいというメッセージを打っておいたのだが、エレベーター内で確認しても既読はまだついていなかった。意図的に無視されてるのかも、と一瞬胸中に不安がこみ上げるが首をブンブン振ってその気持をはねのける。
きっと作品の制作に集中してるだけ。きっとそう。
エレベーターが到着し、廊下を歩く。休憩室には数人のクリエイターがソファーに腰を下ろしたり、電話をしていたり、たばこを吸っていたりとしていた。そこにオオバさんの姿はない。
もう少し進むと、今度は雑談部屋だ。ここは朝イチに来たときと比べると混雑具合が増している。クリエイターたちは膝を突き合わせてスケッチブックやタブレットタイプのMUに直接イラストを描いては楽しんでいるようだ。もちろん、その談笑をBGMに作業に集中しているクリエイターだっている。
広い室内をぐるりと廊下から窓越しに観察していると――
「ねぇ。あなたチヒロさん?」
声を掛けられ反射的に振り返る。
見たことのない燕の獣人が音もなく背後に立っており、
「ひゃっ!? あたしになにかっ!?」
「ホンモノの人だぁ~! 営業部に新しく入社したヒトがいるって風のうわさで聞いてたんですよ~! わたしはエテって言います! ねぇねぇ、握手してくれません~?」
驚いた千尋の手を返答も待たずに握るエテ。わー、つるつるでやわらかーい。と歓声にも似た声を上げており、こちらの話を聞く様子がない。エテは楽しげに鱗の生え揃い、鋭利な爪の生えた手で肌を傷つけないように優しく、それでも手を止めずになでまくる。
その間、動揺で身が縮む思いだった。
敵意こそないし、ただ観察の対象として触れられていることはわかる。それでも、まだ見ず知らずの相手に触られるのはやはり緊張する。
思い返せば自分も逆の立場でもふもふしたが――考えはこれから改めることにしよう。
「あの、そろそろ……」
「あ、ごめんなさいね~! でも、すごく参考になったよ~! ねぇねえ、今暇なら少しお話しません? お友達からはじめたいんですよ~!」
「え、あ、でもアタシ仕事がっ……!」
「オオバさんと打ち合わせなら、もうちょっとしないとオオバさん動かないと思いますよ~? 多分、いまごろ着色作業ですしね~」
「打ち合わせすること、なんでご存知なんですかっ?」
本来の仕事があるにも関わらず、強引に手首を掴んで引っ張るエテに気を取られた。気づいたときにはされるがままに雑談部屋だ。
入口近くの空いていた4人掛けテーブル席に半ば強制的に座らされると、エテは早速持っていたクロッキーブックを開く。筆箱を開いて、中から鉛筆を取り出した。その表情はにぱにぱと効果音が出そうな笑みを浮かべている。
「打ち合わせはちょっとカマかけただけだよ~。オオバさんの担当が変わったことは知ってるけれどね~」
……むぅ、一筋縄ではいかなそうな相手だ。
「随分と耳が早いですねぇ……まだ担当変わって初日だって言うのに」
「オオバさんはわたしの親友ですよ~。チヒロさんのお話聞いたのも、オオバさんからですしね~」
オオバさん、アタシと打ち合わせの後にエテさんと話したんだ……。
「あの、オオバさんって」
「動かないで」
エテは腕を真っ直ぐにこちらに伸ばす。その手に握られているのは鉛筆で、じっと彼女の双眸がこちらを射抜く。
「今ちょっと大事なところ。じっくりと観察させて」
どうやらアタシはエテのモデルにされてしまったらしい。
鉛筆を傾げ、角度を確認するように少しだけ動かしてはアイボリーのクロッキーブックに線を引いていく。
それが数分続いただろうか。10分はしない程度の時間を、周囲の笑い声と鉛筆が紙の上を走る音の中で過ごした。
「これでよし。オッケー、ありがとう~!」
ようやくモデルが終わり、ふぅ、と息を吐いた。
その短い間にエテはアタシの顔のクロッキーを3つ完成させていた。正面、横向き。そして斜め。
「すごい! 見ただけでこんなに短い時間でさらさらっと……!」
「クロッキーは上手なんだ~」
見せるクロッキーブックは、アタシの特徴をよく掴んでいた。モデルになるなんてことは初めてなので、こそばゆい気持ちだ。
「やっぱり2次元よりも実物を見た方がイメージどおりに描けるね~。参考になったよ〜」
ありがとう、とぴょこんと頭を下げるエテにアタシは何もしていないと恐縮めいて、手を面前の窓を吹くように動かした。
それよりも、一段落したら聞きたい話があった。
食べ物で釣る、という訳じゃないが持ってきたお菓子の入ったレジ袋を差し出してみせる。
「よかったらちょっとお菓子もあるからどうですか?」
「えっ、いいの? ちょうど小腹が減ったところだから嬉しいな〜。あたしこれ好きなんだよね~! いただきま〜す」
エテがお気に入りだと言うそれは、じゃがいもをすり潰して棒状に形成し直してカラリと揚げたものだ。ひとつ摘んで嘴に咥える。
喜んでもらえたなら何よりだ。
「ところでオオバさんについてなんどけれど」
「あぁ、オオバさん? あたしのお友達だよ〜」
「オオバさんって、人のこと……嫌いなのかな」
エテはきょとん、とした顔でアタシを見る。
コリコリ、と咥えたポテトスティックを器用に少しずつ噛み砕きながら、何かを一瞬考えた。
「お友達のあたしがそんなことを言うわけにはいかないかな~」
「あ、ごめん。不躾だったかな」
「ううん。担当になったって言うし、その辺の探りを入れるのは……まぁ、仕方ないのかもしれないよね。そういうのはあんまり気分いいものじゃないけれど」
そりゃそうだと微かに項垂れる。
自分が逆の立場なら返答しないしまるでスパイに仕立てられているようで気分は良くない。
せっかくオオバさんの気持ちがわかるチャンスだと思ったのに空振りになりそうだ。そう思った矢先、
「でも、オオバさんも意外とコドモなんだよ?」
頬杖をついたままのエテさんが、ポテトスティックをつまみながら言った。
「……えっと、コドモっていうのは幼いってこと?」
「そ。我が強くて、世間知らずで、自分の気持ちのいいように過ごしちゃうの。ま、頭が良くなったらそういう風に過ごすのが一番楽だって分かっちゃうんだけれどね」
そこまで話して、エテは自分のポケットからスマホ型のMUを引き抜いた。
画面を指先の爪で何度も触れてポチポチ、とメッセージを組み立てている気配。
「多分もうすぐ作業に区切りつけて休憩に入る頃合いだと思うし、あたしが居る方が何となく話しやすいんじゃないかな~」
「はぁ……」
エテはまるで他人事のように言う。もちろん他人事なので荷が重いのはアタシひとりだけなのだろうけれど。
「なんか揉め事になりそうなら仲裁に入ってあげるから」
できればそこまで発展したくはないなぁ……。
親友のエテから見たら、そういう展開に発展しそうなのだろうか。そこまで根っこが深い問題だったらどうしよう。
そんな一抹の不安を抱えるこちらをよそに、エテは「チヒロさんも食べたら? これ美味しいよ~」などとポテトスティックを薦めてくるのだった。
(9話目に続く)