ハクセキレイの恋人7

ページ名:ハクセキレイの恋人(7)

ハクセキレイの恋人(7)

 

 

 *   *   *

 


 夜霧の書斎は和室となっていた。

 

「靴は脱いで――あ、千尋さんは大丈夫でしたか」

 

 土間玄関で当然のようにアタシが靴を脱ごうとした矢先――夜霧が振り返ってそう言うのできょとん、と思わず小首を傾げてしまった。
 え、アタシそこまで世間知らずに見えちゃう?
 そう考えるのとほぼ同時に、夜霧が軽く頭を下げた。

 

「すみません、気分を悪くさせましたよね。この会社の多くの住人にとって、和風住宅は独特の文化なのでここで靴を脱がない方が多くて」
「あぁ、そういうことなんですか」

 

 ふと見れば、玄関には足ふきマットも据えられている。
 獣人は靴をそもそも履かない人も多いので、そこで脚を拭いてから上がってもらうのだろう。

 

「異文化と異文化がマッチングして、何かと大変そうですね」
「えぇ。でも、結局自分の生まれ育った世界の文化がお気に入りなのでね。書斎は快く過ごすためにちょっと設計の段階から口を挟ませてもらいました」
「っていうか……その、書斎とかアトリエって設計からお願いできるんですか……?」
「何種類かのベーシックな家具付きの間取りから選ぶ事もできますが、そこに和室という選択肢がなかったので、一から設計させてもらいました。自分で設計するのは小恥ずかしいものがありましたが、仕上がったらやはり時間をかけてよかったと思いますね。千尋さんは書斎をお持ちでないのですか?」
「アタシは創作部に所属していないので、持てるかはなんとも言えないですね」

 

 書斎やアトリエ、という単語の意味くらいは知っている。絵や小説を始めとする創作家たちが作品を制作する場所だ。今のところカフェ店員と営業部の掛け持ちというおよそ創作には似つかない仕事をしている自分がそんなスペースを頂けるとは思えない。それに、書類仕事は営業部のデスクで十分だ。

 

「あらら……千尋さんは創作部に所属していないのですね。だとしても、なにか適当な理由でっちあげて申請しちゃえばいいんですよ。申請が通ればこっちのものです」
「夜霧さんって、案外悪いひとなんですかね?」

 

 じとっ、と見上げると、夜霧さんは苦笑した。

 

「冗談ですよ。でも、自分専用のスペースがないのは仕事をしていて大変じゃないですか?」
「仕事はカフェ店員と営業部の兼部です。コーヒー淹れたり、MUでの作業が多いですから。それに、まだまだ入社したてで新米なもんで……同僚に仕事の内容を聞いてこなすのがまだまだ精一杯ですから、皆のいるスペースで仕事しないと効率も悪くなっちゃいます」
「……私には到底できない仕事ですね。頑張ってください」
「えぇ、がんばりますよ!」

 

 MUと聞いて尻尾の毛並みがぶわっと広がっている様子を見るに、夜霧さんもMUの作業が苦手なのだろう。
 あの手紙メールの謎が解けた気がした。多分、夜霧さんにはキーボードで文章を打つということは抵抗があるか、覚えきれないのだろう。その点、ヴィルヘルム部長はまだキーボードをがしがし打ってる様子を見ることができるのでまだマシだ。
 大柄の獣人さんは一律にしてMUでの作業が苦手なのかもなぁ……。
 でも、そんな姿もかわいいから夜霧さんなら許す。かわいいから。かわいくなかったらだめ。ヴィルヘルム部長は怖いからだめ。

 

「わぁ……和室ですねぇ」

 

 そんなことを考えているうちに、夜霧さんの書斎に入った。扉は障子でその中は畳の和室だ。あまり嗅ぎなれない墨の、独特で落ち着く匂いが満ちていた。
 正座で作業できるように低い文机(それは体格の豊かな夜霧さんのサイズに合わせられているから、私には普通のデスクのように見える)があり、硯や筆がいくつか机に見て取れる。
 作品を書いたものの、納得がいかなかった紙がいくつも脇によけられていて、そのうちのいくつかは無残に丸められたりしている。出来の良いであろうものは丁寧にもう一つの文机に置かれ、しっかりと乾燥させられていた。
 夜霧さんは散らかっていると言ったが、そこまで散らかっているようには思えない。

 

「私の専門は文筆ですから。ま、いわゆる書道ってやつですね。筆と墨で書いた文字そのものが作品です」
「これ、全部作品……というわけですか?」
「もちろんこれも作品の一つではあるんですが、これそのものはほとんど売れないんですよ。むしろ最近ではこの作品を含めた和のインテリアデザインを作品とするほうが良いのです」

 

 インテリアデザイン、という言葉にピンと来る。

 

「和風モダンの設計から関与して、その空間にマッチする作品を提供する……という意味合いでしょうか?」
「そうです。千尋さんは空間デザインやインテリアデザインがどういうものか知っていらっしゃるようで」

 

 どういうものかも何も――

 

「前々職がデザイン系の営業を担っていて……あ」

 

 ――そっか。デザイン系の仕事が本格的にできるようで良かったな。

 

 すれ違い際にタマの言ったことがやっとわかった。
 よくよく考えれば、この仕事は絵画や文筆など多少の差異はあれど――作品の魅力をデザインをする仕事だ。
 作品を求める顧客の視点から、その創作者の強みや魅力をどれだけ引き出すことができるか。それをずっと考え続けるのが仕事なのだ。
 決して作品を売りこむだけではない。クリエイターと二人三脚で頑張る仕事なのだ。
 そして、それは当時ブラック企業だったので記憶から抹消されかけていたが――アタシも触れたことのある仕事だった。
 なぜそんな大切なことを今まで忘れていたのだろう。

 

「いずれにせよ、多少知識のある人が居てくれて嬉しいです。私は世界にもよりますが……文筆家として書くだけじゃほとんど作品としての価値はありません。一つの空間として、空間デザイナーや施工者とも密に連携を取らなければならないので、その辺りもサポート頂けると嬉しいのです」
「まだまだ空間デザインは知識として知っている程度ですが……勉強しておきますね」

 

 あくまで当時の主務は二次元作品のデザインだった。
 空間デザインとなるとまた専門が変わってくるが、デザインという根本的な畑は変わらない。

 

「夜霧さんの個人的な依頼はまた勉強が終わったら引き受けます。今は凍凪杯のパンフ作りですね」
「えぇ、そのときは期待しています」

 

 穏やかな表情で笑ってくれる夜霧さん。
 うっかりコミュニケーションの一環としてもふもふしそうだ。

 

「凍凪杯の字体や感覚は色々考えてはいるんですが、如何せんまだ下絵となる絵が上がってこないのでなんとも言えないのですよね。これとか、これとか、色々試行錯誤しているんですが――千尋さん的にはどうですか?」

 

 夜霧さんは机の上に幾つか干されている、納得したであろう力強く書かれた作品を幾つか指しているが――その違いはさっぱりわからない。

 

「……、……えぇと、その。なんて書いてあるのか、その違いは私にはちょっとわからないので勉強してきますね!」

 

 自分の意見をきっぱりと答える。変に背伸びしても恥ずかしいだけだし、わからないものはわからないと言うしかない。
 すると、夜霧さんはやはり穏やかに笑ってくれる。

 

「あはは、無理することはないのですよ。感覚で『これがいいんじゃないでしょうか?』っていう意見でも十分です」
「いや、でもそれはあんまりじゃないですか……?」
「書道はかつて、墨で書かれた作品には世界の負のエネルギーを調和し、その場の和を整えると言われています。一人ひとりが違うように、書かれる文字もまた一人ひとり違うのです。作品に決まった上手さというものはないんですよ。要は、その書かれた文字が一番作品として調和するものがいいんです」

 

 そういうものなのだろうか。と悩んでいる間に夜霧は更に続ける。

 

「でも、まずは下絵がほしいのは確かですね。調和させるにしても、下絵がないことには話になりませんから」
「わかりました。オオバさんにも話をして、早めに下絵を決めようと思います」
「よろしくおねがいします、千尋さん」

 

 夜霧さんはぺこり、と頭を下げた。
 あ、これはもうだめだ。

 

「あの……ちょっともふもふさせてもらってもいいですか?」
「……私は一向に構いませんけれど、いいんですか?」
「あ、全然良いです。胸元辺りに失礼しますね」

 

 しゃがんでくれた夜霧さんの胸元に、ぽふっ、と顔を埋める。
 彼の柔らかく、暖かな毛並みに包まれて意識が朦朧とする。もちろん、至福でいい方向にだ。
 快楽と癒やしの空間の中で、私は気持ちを弛緩させて心の平穏を保つようにしばらくじっとしていたのだった。

 

 *

 

 千尋が営業部に戻ってくると、ほとんどのデスクが空になっている。日中は営業部員にとって打ち合わせの時間。取引先に赴き不在となる。自分のデスクで悠長に仕事をしている人など居ないのだ。
 しかしそれもペーペーの社員だけの話であり、怪訝な表情で顔を上げたのは課長という肩書を持つ一応中間管理職のネルオットだった。

 

「ご苦労さま。随分と楽しい打ち合わせだったようだね」
「えっと、それはどういう?」

 

 キョトンと小首を傾げて何を言ってるのかわからないとアピールしつつ、持ってきたノートとお茶のペットボトルは自席に置いた。
 MUを立ち上げてメッセージソフトを早速開き、オオバさん宛に文章を一つ組み立て始める。
 と、その時。

 

「クライアントである夜霧さんに抱きついてきたでしょ。匂いでわかるよ」

 

 思わず画面から顔をネルオットに向けてしまう。

 

「えっ、うそ本当に!?」
「こう見えて私も犬科の獣人だからねぇ。匂いには敏感なんだ」

 

 にぱぁ、と間抜けのようにも見える笑みを浮かべては自分の鼻を指さしてどこか満足げなネルオット。自らの服や襟に鼻先を押し付けても、人間である自分ではほとんど匂いがついているとはわからない。

 

「犬科の獣人怖いですね……変なこと出来ないじゃないですか」
「獣人の離婚率が少ないのはね、相手の気持ちが言葉以上に匂いでわかっちゃうからなんだよ。不埒なことは――」
「別に不埒なことを考えたわけじゃありませんから」

 

 ぴしゃっと言い返す。人間は飼い猫や犬のお腹に顔をうずめて匂いをかぐなんて、よくあることだもん。
 それは獣人をペットと同列に考えているとも取れるが、だって可愛いんだから仕方がない。もふもふしているし、許可もちゃんと取っている。必要最低限の礼儀を守った上でのもふもふだ。

 

「ま、あんまり無粋なことは聞きすぎるもんじゃないね。ところで、千尋さんはこの後Rainの勤務に向かうんだよね?」
「はい。もうすぐお昼どきなのでちょっと応援に。でも、その後はもう一度打ち合わせをしようかなと思っています」

 

 時計を見ればぼちぼち11時を回ろうとしていた。
 朝が早い人はそろそろお昼ごはんが食べたくなる頃で、Rainは合わせるように混雑する戦場となる。

 

「まだ打ち合わせするんだ? 頑張ってね。ちゃんと休憩は取るんだよ。休憩は少しくらい多めにとるくらいが丁度いいんだからね」

 

 ブラックな前々企業は営業の外回りの移動時間が実質の休憩時間だった。自分で運転する車ならまだ百歩譲って理解できるが、そんなものは当然ない。移動は全て電車と徒歩。そのロスタイムが休憩時間。運がよければ昼にファミレスでランチが食べられる。
 そんな経験をしていたから、ネルオットの心遣いは嬉しかった。

 

「ありがとうございます。働きすぎないように気をつけますね!」

 

 やなゆーさんなら「課長はもっと働いてください」とか言うんだろうなぁ――なんて考えつつ、メッセージを作り終えてENTERキーを強く打った。送信したことを確認してからデスクから立ち上がり、スーツ姿のままCafe「Rain」に向かうのだった。

 

8話目に続く

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。