ハクセキレイの恋人(4)
*
やなゆーさんの「変なリアクションをするなよ?」の真相はイラスト課の作業部屋に入ってすぐに理解した。
「オオバさん、おはよう」
「……おはようございます」
やなゆーが声をかけるのは油絵の塗りの段階で手に筆とパレットを持った可愛らしいハクセキレイのオオバさん。おずおずと頭を下げて、小さな声で挨拶する。
その身体には白地に意図せず油絵具でカラフルになってしまった割烹着を着ていた。
変なリアクションをするのはそこではない。
右脚が無かった。丸々一本太腿部分から無いのだ。
私が平常心を保ちながらも――息を呑んだ瞬間、オオバさんがふとこちらに目を向けた。そして、すぐに逸らす。
――気づかれた……?
「今日、担当の引き継ぎするってメールしたけれど、見てくれたかな?」
「……見てないです」
「そっか。なら作業の区切りつくまでちょっと待ってるよ。何分くらい掛かりそう?」
「そういうことなら、今で良いですよ」
「集中してたところ悪いね」
筆を筆洗で洗い、几帳面さが伺えるカラーのエスキースが描かれたスケッチブックが閉じられる。割烹着の裾に手を伸ばすと、一気に脱ぐ。軽く、柔らかな白と黒の羽毛が少しふわふわと数枚漂った。
彼女は立ち上がろうとする。人間であれば絶対に松葉杖が必要なタイミングだ。私は周囲に目を配ったが、松葉杖が無かった。咄嗟に手を出して――その手を叩かれる。
「ッ……!」
「あ、ごめんなさい」
彼女は両手を広げるような格好でふわりと大きな翼を広げた。そして、強く空気を叩いたのだ。いとも簡単に彼女の身体が浮力を得て、立ち上がるだけならず数十センチは空中に飛んだのだ。
鱗と爪が生えた片足でゆっくりと着地し、いとも簡単にバランスをとる。
「急に手を出されたらびっくりするわ」
「すみません、つい……」
「次やらなければいいわよ。気にしないで」
私は深く頭を下げた。……余計な邪魔をしてしまったような気がしたからだ。
オオバさんは特に何かを気にしたような素振りもしなかった。そのままやなゆーとオオバさんは部屋から出ていく。作業部屋は必要最低限の会話を除いて私語厳禁なのだ。
隣接するようにある小部屋のミーティングルームに私は遅れて入った。
「座るかい?」
「いいえ、座ると立ち上がるのが面倒だからこのままでいいわ」
「それじゃ、手短に話をしようか」
やなゆーさんも座る素振りを見せなかったから、私も座らない。スタンディングでのミーティングになりそうだ。
「凍凪杯のパンフ作りに掛かる案件だが、担当は俺から彼女――雪島千尋さんに引き継ぐことになった」
「あ……雪島千尋ですっ」
と、間髪入れずに引き継ぎの話題から入ったやなゆーが私のことを紹介したので、反射的に頭を下げた。本当ならよろしくお願いします、と続けたかったのだが……。
「……っ、ちょっと聞いてないわよそんな話!」
温厚そうなオオバさんが目を剥いた。あまりに突然の事で私もやなゆーも目を丸くした。……一体何が。
「いやいやオオバさん。見ず知らずの人ではあるが千尋さんは営業部の新入社員なんだ。だからだいじょうぶ――」
「見ず知らずの『人』なんかと一緒に仕事したくないに決まってるじゃない!」
話が噛み合ってない――と思った矢先、そうでは無いことをすぐに悟る。
――オオバさんって、人間に嫌悪感を持ってる……?
「オオバさん、落ち着け。社内規程に『全ての種族に関する差別を絶対にしてはならない』とある」
やなゆーさんは低い声で囁くように言った。
同時に大葉さんはバツが悪そうに視線を逸らす。
「それに、この担当変えはヴィルヘルム部長が決定した。俺にどんなに文句を言っても無駄だ。あの人は梃子でも動かないよ」
「……分かりました」
オオバさんの声はワントーン低く、必要最低限のそれに留まった。無言でエスキースを描いていたスケッチブックの新しいページを開くと、芯を長くした鉛筆を片手に話を聞く体勢となる。
「それじゃ、改めて業務連絡からだが――……」
やなゆーが話し、私が引き継いで改めて業務の内容を説明し、続けて完成品のアイディアを膨らませていく。
しかし、大葉さんは必要最低限の言葉だけで受け答えをする。それが前向きな検討でないのは火を見るより明らかで、前向きではないのは間違いなく私に原因があるように思えた。
なんとか引き継ぎとそれまでやなゆーさんとオオバさんの間で温められたアイディアの概要を説明してもらい、それをノートに書きとどめるのが精一杯であった。
*
「大葉さんは悪い人じゃないんだがなぁ……」
オオバさんとの打ち合わせを一通り終え、打ち合わせを見ていたやなゆーからのフィードバックの時間である。
しかしながら、それも些細な振り返りで終わってしまった。そもそも打ち合わせというよりも単なる引き継ぎと顔合わせだけに近い内容になってしまったからだ。オオバさんは殆ど会話に参加していない。
「あの様子、人を異様に好ましく思ってないようですが……」
「むしろ嫌悪を抱いていると言ってもいいかもしれないな」
ペットボトルの蓋を開けてコーヒーを飲みながらやなゆーは言う。あまり否定的な言葉は言いたくなかったが――
「そう、感じました」
「俺も詳しく彼女のことを知らなくてね。何がきっかけでそうなったのか、全く分からないんだ」
やなゆーさんは社内に人脈を沢山持っていて、その彼が知らないというのだ。自分が知る筈もない。
「各方面にちょいと探り入れるつもりではあるけれどさ、千尋さんも気長に付き合ってやってくれないかな」
「そうですね。気長に、まずはお友達になることから始めてみようかなと思います」
「あぁ。営業部の担当としての初仕事だし、期待してるよ」
戻ろうか。というやなゆーの声に合わせて立ち上がる。
担当は自分に引き継いだのだから、少しずつでも距離感を縮めていく努力をしないと。
*
営業部に戻ると、一通のメールが届いていた。
もうひとりの凍凪杯のパンフ作りの担当者である夜霧さんからだ。
開いてみると何故か本文表示なしで、画像ファイルがダイレクトに添付されていた。
「……なにこれ」
表示されたのは全懐紙に墨を用いられた縦書きの文章である。
……ものすごい達筆な文字だ。力強くも、温かみのある文字――と言えばいいのだろうか。
唯一ケチをつけるとすれば楷書ではなく草書寄りの行書であるということだ。字体をなるべく崩した上で読めるギリギリを狙ってるとしか思えない。
そして、もちろん千尋にはそんな文字を解読するのは不可能だった。
「ネルオット課長」
「ん、なんだい。千尋くん」
「課長、これ読めますか?」
「おぉ、素晴らしい字だね。なるほど、夜霧さんの字か……どれどれ」
暇そうにデスクで本を読んでいたネルオット課長に声を掛け、本文を読んでもらいながら翻訳し(流石のMUでも行書を翻訳する術は持たないらしい)メモ帳に内容を書き出していく。
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雪島千尋様
拝啓 河津桜の花が咲き、春の陽射しを柔らかに感じる今日この頃。雪島千尋様は如何お過ごしでしょうか。
お世話になっております、夜霧と申します。
凍凪杯の広報紙制作担当を変更とのメイルを拝読し、その了解とさせて頂く旨をここに返信させて頂きました。
つきましては、顔合わせを兼ねた打ち合わせを本日午前十時より十四階談話室でお願い致したい。
貴女とお会い出来ることを心よりお待ちしております。
敬具
夜霧
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「手紙の類ですかねぇ!?」
「惚れ惚れするような字だね。素人目にも素晴らしいよ」
ネルオット課長が行書を解読できる事自体、すでに素人とは思えないし意外だったが――。
やなゆーはジト目でこちらを見てくる。
「夜霧さんにメール出すなって言わなかったっけ、俺」
「でもメール出すなってわけわからない指示ですよそれ!」
「夜霧さんはメール出すと返信めちゃくちゃ遅いし、こうなる。だから全部電話で対応しろってことさ」
クククッ、とやなゆーが白い牙を見せて笑う。
くっそぅ……こうなることを知っていたのか。
「ところで、十時ってのは午前10時のことじゃないのかい?」
不意にネルオット課長がそう呟き、時計を見上げる。
「はぁ、多分そうでしょうね……って、もうこんな時間ッ!?いやーっ!!」
時計の針はすでに10時15分を指そうとしていて、雪島は慌てて机の上の書類一式に飛びつくように掴んだ。
「あ、悪いけれど俺この後別の打ち合わせだから、後は任せた」
「引き継ぎなのに―っ!!放置プレイですかーっ!!」
「未婚のうら若い女性が放置プレイなんていうもんじゃないですよ」
「うーっ、行ってきますっ!」
ネルオットの言葉にも唸るような声を発するだけで、千尋は営業部の扉を開けて走り去っていく。
「いやぁ……フットワークが軽くて本当に若いですねぇ」
ネルオットは自分で淹れた茶をずずず……と啜りながらその背中を見送る。
「フットワークの軽さだけで言えば受付のステラといい勝負じゃないですか」
「私もあのくらいフットワークが軽かった頃があるんだよ。ざっと200年は前になるけれどね――」
「今でもそのくらいのフットワークを身に着けて仕事をガンガン進めてもらえませんかねぇ。俺、次の打合わせに使う書類は課長の判子待ちなんですが」
「えっ、そうだったのかい? ちゃんと急かしてくれないと!」
慌てて書類の山を探るネルオットに対し、やれやれ、とやなゆーは息を吐いたのだった。
(5話目に続く)