ハクセキレイの恋人(2)
* * *
「営業部って苛烈な部署だって言ってたけれど、それって本当なんです?」
私はスーツの上着を脱いでバックヤードのハンガーに掛けると、ちょうど休憩していた黄色い毛並みの狐獣人さんであるノーべさんに声をかける。
このカフェ「Rain」のマスターを勤めている彼は、読んでいた単行本に栞を挟むと穏やかに笑って顔を上げた。
「苛烈で刺激的だって話はよく聞くね。営業部のメンバーはよくここにサボりにくるのを千尋さんだって見ていただろう?」
「いやぁ……それはそうなんですけれど」
私はシャツの袖をまくりあげながら、ハンカチを咥える。飲食店の店員としてしっかりと手洗いをしなければならないためだ。
「なんだか想像と違ってて」
「それは仕事が楽しいって意味で?」
「まぁ……そんな感じですかね」
私自身はまだ外回りや実際の営業活動をしていないので、判断するのは早計かもしれないが……。それでも思ってしまうのだ。
……意外と営業部ってそこまで忙しくないんじゃないか、と。
私がいいなーと思ったのは営業部のMUのスケジュール管理システムで、部員全員の行動予定がひと目でわかるというものだ。
MUというハイテクなマシンは入力するまでもなく音声認識で自身のしなければならないタスクや行動予定を刻んでくれるので、落ち度が全く無い。
その上で、仕事の合間に皆の仕事を少し覗かせてもらった。
抱えている案件は一人辺り平均2個。やなゆーさんは4個抱えていて、最多だった。
私のかつての営業の経験上、それはどう考えても少ない。寝ないで仕事をしていたブラック企業勤めの頃は私ひとりで案件を7つも8つも捌いていた。
この仕事量は下手をすれば午前中にでも仕事が終わってしまうレベルだ。
肘まで含めた手を良く洗いながらそんなことを考えていると、
「私としては良い間違いで嬉しいよ。この忙しい時間に人手が確保できるんだからね。私自身の執筆進捗も芳しくないからね、これで時間が捻出できそうだよ」
「いやぁ、突然兼部するなんて言ってすみません」
「気にすることはないよ。やりたいことを思い切りできるのがこの会社のいいところだからね。千尋さんもやりたいことを思い切りするといい」
カフェ専属で働くことを前提にした採用だったような気もしているのに、ノーべさんのその表情には嘘や偽りを言っているような様子は微塵にも感じられなかった。
それが社風なのだろうか。だとしたら風通しの良い職場だと思う。
「ありがとうございます」
ハンカチで手を拭いていると――ふと、とある事に気づく。
「あの……ひょっとして、営業部の皆さんって私みたいに兼部していたりしますか?」
「しているという話は聞くね。よく来るやなゆーくんも、ヴィルヘルム部長も文学系の創作部に所属していると聞いたことがある。ゴールデンレトリーバーの……名前はなんて言ったかな」
「リックさんですか?」
「そうそう、リックくんだ。彼も音楽系の創作部に所属していて、ギターやキーボードを嗜むらしい。どこかの世界ではかなりCDも売れているバンドマンだって聴くね」
「えぇ……凄いじゃないですか!」
そうか……私は勘違いしていた。
営業部のメンバーは創作部との兼部もしているんだ。きっと彼らは時間がいくらあっても足りないのだろう。
なんだか、仕事が少ないって浮かれてて悪かったなぁ……
そんなことを考えながら私はエプロンを付けると、店内へと向かっていく。
「あっ、千尋さん。こんばんは」
「リストくんこんばんは~!」
「わ、わわ……千尋さん、近いですよ~……」
出迎えてくれた青と白の毛並みをもつ青年の獣人、リストくんに挨拶代わりのハグ。ふわふわした毛並みと暖かな日差しのような柔らかい匂いがする彼の毛並みに顔を埋める。彼は毎回困惑の表情を浮かべるが、優しいのでなにも言わない。完全に甘えてしまっているが、やめられないのだ。
うん、デスクワークでの疲れは完全に吹き飛んだ。これでカフェの仕事も有意義にできそうな気がする。
リストくんのもふもふを存分に堪能した後、厨房を覗く。
「タマ、今からシフト入るよ……ってうわぁ!?」
思わず突飛な声を上げてしまったのは、タマが包丁で野菜を切る最中、うつらうつらと舟を漕いでいたからである。
慌てて厨房に飛び込み、包丁を持つタマの右手首を掴んで彼の身体を支える。
「うぉっ!? ……なんだ、千尋か。驚かすな」
「何が驚かすなよ! 驚いたのはこっちだわアホっ! なんで包丁持ったまま寝てるのよー!」
「仕方ないだろう……最近ちょっと寝不足なんだ」
言うなりふわぁ……と大きく口を開けてあくびをした。いつもはキリッとしたスキのない姿のタマはいったいどこへと消えたのか謎だ。
「タマくん、交代しよう。そんな状態で厨房に立たれて怪我されても困るし、まるで戦力にならないな。キミは少し休んでいたまえ」
「……恩に着る……」
バックヤードから顔を出したノーべが声を掛けると、タマはふらふらとした足取りでバックヤードへと向かっていった。
「……タマ、最近眠れてないのかなぁ。猫って不眠症になるんです?」
「生憎私は狐なのでわからないよ。でも、最近彼の制作が滞っているとは少し聞いたがね」
「制作って……絵のことですか?」
「なんでも『凍凪杯』に向けての執筆をしているとか聞いたけれど」
「あー……」
どこかで聞いたことのあるワードだなぁと考えて……数秒をかけて思い出した。
「たしかタマがアイリスくんと決着をつけようって言われたんだっけ」
「そんな喧嘩みたいな話になったのかい? 猫ってのはわからないねぇ」
「はぁ……なんでも互いにライバル視をしているみたいで。絶対に負けるわけにはいかないって気負いすぎて夢中になりすぎてるのかなぁ」
「いいことじゃないか。タマくんは社内のイラスト講座にも出席しているようだし、前向きであることが伝わってくるよ」
「え、初耳なんですが!?」
「おや、それは知らなかったのかい。だとしたらタマくんに悪いことをしたなぁ」
あっけらかんとした様子でノーべは頭を掻く。
私が営業部に入った上に社員寮を利用するようになったので、それまで同じアパートの一室から出社していた生活がガラリと変わった。社員寮は男子寮、女子寮、パートナー寮とあるのだが結婚済み、或いは交際していて将来的に同棲することを目的としたふたりはパートナー寮に入寮ができる。しかし、付き合っていない私達に関してはそれぞれ男子寮と女子寮に部屋を充てがわれることになった。
部屋が別々になってから生活もがらりと変わり、タマとは結構すれ違いになっていたような気がする。
あまりタマは私の仕事内容に口を出してこなかったし、私も絵のことを口出しするのはよくないと思っていたからそれ以外のどうでもいいくだらない話ばかりをしていた。
イラスト講座……そんなものがあることも知らなかったし、タマ眠らずに制作に勤しんでいること知らなかった。
「寝ないで絵描くなんてちょっと心配になりますね」
「なぁに、彼も絵描きのひとりならそれ相応の根性も持ち合わせているはずさ。心配することはないよ。少し休めばまた元気になるさ。彼は若いしね?」
ノーべはそう言って笑うが、実際にアイリスとタマが遭遇した時に立ち会っていた私は、ただならぬ雰囲気を感じ取っていただけに心配になる。
あんまり根詰めすぎないといいけれどなぁ……。
(3話目に続く)