ハクセキレイの恋人(作:青柳 ゆうすけ)
皆さんはじめまして、僕はエディ。株式会社SOUSAKUの文芸部に所属している、文芸をこよなく愛する黒狼獣人の少年です。
僕は同じ文芸部に兼部しているやなゆーさんのお手伝いという名目でちょくちょく営業部に顔を出してはやなゆーさんの書類仕事を手伝っているのですが……。
今、凄くピンチです。
「エディくん、ちょっと聞いていい?」
「え、あ、はい!」
左隣りのパーテーション越しにひょこりとメガネを掛けた顔を出すのは、つい先日営業部に配属になった人間の女性、雪島千尋さんだ。
彼女はヴィルヘルムの指示でやなゆーさんの下で仕事を教えてもらうようになったのだ。つまり、やなゆーさんが外回りで不在の今、彼女の質問事項の確認は僕に飛んでくる。
「やなゆーさんに頼まれた資料なんだけれど、この部分はこんな感じで大丈夫かなぁ?」
「えぇと、拝見しますね」
MU画面に映し出された文書作成ソフトを眺める。
作成された資料を見て――僕は胸中でがっくりと項垂れた。
「えぇと、こんな感じでいいと思います。特に言うことは何もないですね……」
「そう? 良かったぁ。過去の資料とか見比べて、ちょっとイレギュラーな項目だからどう作成するか悩んだんだよね」
ありがと! と、語尾にハートマークでも浮かびそうな声で僕の頭を撫でてくる千尋さん。撫でてくれるのは嬉しいけれど、実は胸中穏やかじゃないんです。
言うことはない。即ち完璧。非の打ち所のない資料に着手したのはたった数時間前だ。
電話が鳴れば狼の反射神経をもってしても取れないくらいに早く受話器を取るし、資料作成の集中力は途切れないし、タイピングはべらぼうに早いし、はっきり言ってデスクワークに関して勝てる要素が全く無い。
あまりの有能さに僕は愕然とする。何なんだこの人間。
「あの……千尋さんは休まないんですか? ずーっと働いてますけれど……」
「いや? 別に全然疲れてないよ~。仕事はサクサクやらないと終わらないからね。本来であればもう少し効率よく、早く終わらせられるようにしないといけないんだけれどなぁ……」
千尋さん、そのセリフは僕や周辺の社員全員にグサグサ突き刺さります。やめてください。
「今戻った」
その時、部屋の扉が開いて帰ってきたのはやなゆーである。
おかえりー!と口々に部屋の社員が出迎える。
「よーう、どうだったんだよやなゆー。桃源社さんのイラコンのコンペは」
椅子の背もたれに大きく背中を預けながら問いかけるのは、明るい紺スーツ姿のゴールデンレトリーバーの犬獣人でリックだ。
「あぁ、お陰様で無事契約締結してきたよ。去年に引き続きプレゼンもそこそこ上手く出来たし、言うことなしだ」
「また大型契約の締結かぁ。やるねぇ」
リックは牙を見せて笑ってみせる。彼は喋りがうまく、営業部のムードメーカーでもあった。仕事も持ち前の要領の良さでかなりの売上だが、仕事がやや遅いのが玉に瑕だ。
やなゆーは雪島さんの隣の席にバックを放って、彼女のデスクに手を着いて話しかける。
「雪島さん。サンキューな。作成してくれたスライド資料めっちゃ見やすかったよ」
「あ、お疲れさまです」
雪島さんは今気づいたと言わんばかりにモニターから視線を上げた。やなゆーの表情が真顔になった。
同僚が帰ってきてみんな挨拶してるのに気づかないってどういう集中力で仕事をしたらそうなるんだろう……。
「どういたしまして。上手に出来てたら何よりです」
「タスクの方はどうなってる?」
「今6番まで終わって、もうすぐ7番も終わります」
元々真顔のやなゆーさんの表情が更に真顔になる。
「早いな……確かタスク5番からはまだまだ締切は先のはずだったが」
「ギリギリまで作業してやなゆーさんのOKが出なかったらやり直しなわけですから、余裕をもって早めに終わらせておこうと思いまして」
「……いい心がけだね。資料、見せて」
「じゃぁタスク1番から……」
カタタッ、と隣のパーテーション越しにキーボードとマウスを操作する音が聞こえる。
僕はやれやれ、と左手で頬杖をついて右手の人差指でぽち……ぽち……とキーボードを打つ。
あんな完璧な資料でNGが出るはずないんだよなぁ……。
「OK、大まかに見たところ問題なさそうだ。後でじっくりと見るよ」
ですよねぇ~!
「わかりました。営業部サーバーの共通フォルダに入れておきますね」
「タスク8以降は明日でいいよ。もうすぐデータイムも終わるから、カフェの方に行ってあげたら?」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えますね」
デスクワークの時だけ掛けているというメガネを外し、にこ、と笑みを浮かべる千尋さん。
その表情は可愛いなと純粋に思った。リックを始めとする周りの営業部メンバーもきっとそう思っているだろう。
ちなみに、株SOUでは6時~12時をモーニングタイム、12~17時はデータイム、17~22時はナイトタイム、22時~翌午前6時までをミッドナイトタイムと大まかに時間の区切りを付けて呼んでいるのだ。
「で、エディの方はどうなんだ?」
やなゆーさんがパーテーションから顔を覗き込ませるが僕はがっくりと頭を垂れる。
「進捗……ダメです」
「そうか。無理しないで明日以降でもいいからな」
「そうします……」
ノロノロと作りかけの資料を保存し、大きくため息を吐いたと同時にデータイムも終わりを告げるチャイムが鳴った。
*
「じゃぁ、お先に失礼しまーす」
鞄を持ち、パンツスーツ姿の雪島が颯爽と立ち上がり頭を少し下げながら挨拶をする。
デスクに座った社員達は皆銘々に「おつかれ~!」と見送る。
彼女が営業部のドアを開けて外に姿を消し、バタン、と締めたその瞬間――
「やなゆーのタスクを8番まで終わらせただって!?」
「バカな……あの量も膨大でクオリティも求められるヤツの資料をたった1日でそんなに終わらせられるなんて!」
「化け物か!? 美しい人間の皮を被った雪島さんは実は化け物だった!?」
「なぁ頼むやなゆー! 雪島さんを俺にくれ! あんなに可愛くて仕事ができる子が部下なら俺の仕事も捗る!」
「あぁもうアンタらうるさいぞ! 言いたいことがあるならヴィルヘルム部長に言え!」
デスク周りの営業部員が一斉に叫ぶ。
「いやぁ……彼女、よく働くよね。居眠りもしないし、是非私直属の部下にしたいくらいだよ」
「お言葉ですがネルオット課長。あなたはサボり過ぎです。千尋の爪の垢でも煎じて飲みますか」
双頭のオルトロスであるネルオット部長はハッハッハ、と笑う。
「こりゃ一本取られたね! 参った参った!」
暖簾に腕押しとはまさにこのことだろう。やれやれ、と息を吐いてから、
「……部長に今日のコンペの結果を報告してきます」
ネルオットのことはスルーして、やなゆーは部屋の奥に存在する部長室への扉をノックする。
「やなゆー入ります」
三つ首のケルベロス獣人であるヴィルヘルムは巨大なMU画面から顔を上げる。
「おぉ、やなゆーか。どうだった、桃源社でのコンペは」
「無事締結できました」
「そうか、ご苦労。よくやった」
「後ほど締結書類と報告書を纏めます」
「わかった。楽しみにしておこう」
ヴィルヘルム部長はさも当然で、いつものことのように言う。
この人は見た目の筋骨隆々さや黒い毛並みや三つ首という異端さと豪快で暴力的な側面がクローズアップされがちで損な部分があると思うが、きちんと接していれ合理的な判断を行える冷静さや気遣いするだけの優しさも持ち合わせていることがわかる。
俺もその領域に踏み込むまでは結構時間が掛かったものだが。
「失礼します」
「ちょっと待て」
踵を返そうとしたところで呼び止められ、改めて巨体と向き直る。
「……話は変わるんだが。千尋の様子はどうだ?」
そういうところで探りを入れてくるのはだいたいいつもの事だ。
やれやれ、と俺は頭を掻いてみせる。
「最初だから資料の作成から教えていますが、抜群に早いですね。俺よりも早いかもしれないです」
「お前よりも早いとなると、相当だな」
「以前に営業をしていたらしく、彼女のMUだけ彼女が使い慣れたソフトを導入した結果でしょうね。慣れているというものは恐ろしいものだ」
ふむ……とヴィルヘルムは太い腕を組んで考え込む素振りを見せる。
「そろそろ資料制作の段階はいいだろう。やなゆーの担当から数人のクリエイターをピックアップ。社内向け案件から少しずつ引き継いでいけ」
「まだ配属されて5日ですよ!? こんなにハイペースで仕事を教えすぎるのも良くないのでは……」
「とはいえ、もうデスクワークは完璧だろう。だったら営業ガールになってもらうためにも歩かせないとな」
確かに千尋は経験者なだけあってもうデスク周りで教えることは殆どない。
その上で、外部との接触のない社内で完結する案件を任せるのはリスクが少なく彼女の成長のステップにもなる、いい方針ではあると思う。
「……わかりました。音楽祭のパンフレット作成を彼女に任せようと思います」
「いいんじゃないか。音楽祭は過去にやなゆーが担当していたからバックアップも上手く出来るだろうし、上手くフォローしてやってくれ」
「承知しました。では、早速段取り整えます」
軽く一礼して踵を返そうとしたところで、
「ちょっと待て、まだ本題が終わってない」
「は……本題、とは?」
何かやらかしたかな、俺――
そう思う間もなく、ヴィルヘルムは真面目な表情を変えずに言う。
「千尋の好きなものはなんだろうか?」
「……ちょっとなに言ってるかさっぱりわからないんですが」
突然なにを言い出すんだこのおっさんは。
「彼女とはきちんと上司として見守っていかねばならないのでね。細やかではあるがプレゼントをと考えているのだが、人間の女性の好みってものがよくわからなくてな。お前なら少しはいい情報を持っているかなと思ってだな」
「……、……まだ初見で怒らせたことを気にしてるんですか」
「ッ……!」
ヴィルヘルムの3つの眉間に皺がよる。露骨にダメージを受けているようだ。
俺が見ていたわけではないのだが、ヴィルヘルムは俺が喫茶店の店員としてスカウトした千尋さんに対して営業経験があるというだけで営業部にスカウトに向かったらしい。その時のファーストコンタクトは結果的にその獰猛な外見で千尋を存分に怖がらせたというオチで終わってしまったのだという。
その後のヴィルヘルムは見たことがないくらいに凹んでいたらしく、日頃はあまりヴィルヘルムと飲みに行きたがらないネルオットが営業部のメンバー全員に声を掛けて理由でっちあげの飲み会を急遽開催する程度には滅入っていたらしい。
「別に千尋はもう気にしてないと思いますよ。強いて言うなら、営業部の全員に差し入れをする体でさり気なくお菓子を配るとかその程度でいいんです」
「そういう……ものなのだろうか?」
「上司部下の信頼関係を築きたいのであれば、部下を区切らず全員に気を遣うことで彼女も気兼ねせず上司に甘えることができるでしょう。そこが男と女じゃ違うところです。頭が3つあるのに思考がマイナス寄りなのは良くないっすよ。寧ろ、自分からアプローチするより営業部初の部員である彼女の話を真摯に聞いてあげることのほうがずっと大切です。彼女の言うことは全て改善できるように動くべきですね」
「千尋、何かもう不満なことを言っているのだろうか?」
「明晰な頭脳も人間の女の子相手にはなかなか回らないようですね」
俺はジャケットの内ポケットからメモ帳を取り出すと、ページを開く。
「例えば……『デスクの上に各種栄養ドリンクの壁が出来ているから営業部社員の健康状態が心配になる』
『ネルオット課長が可愛いのでつい甘えていまう』
『ヴィルヘルム部長は奥の部屋に閉じこもりっきりで何をしているのかわからない』
『営業部の給湯室の水回りが汚いのが不満。当番が決まっていないので私ばかりが掃除している』……などなど。もっと読み上げますか?」
「……いや、いい……」
閉じこもりっきりで何しているのかわからない、という単語は流石に効いたのだろう。机にぐったりと巨体を伏せてしまった。
「そのメモ、後で内容を全て俺にメールしてくれ。それと、千尋の愚痴は全て俺に内密に報告。改善案を考える」
「わかりました」
俺は頭を下げる。
何度目かわからないくらいの踵を返そうとして……今度は俺が自分の意思でそれを止める。
「……、……ヴィルヘルム部長って、かつては魔王の下で軍の一員として働いていたんでしたっけ」
「そうだが、何か?」
「つまり、あんまり牝の指揮を採ったことがないとか」
「いや、牝の指揮は採ったことだってあるさ。だが、人間と対立していた立場で指揮していたのは魔物ばかりだ。人間の掌握術は残念ながら俺にはない」
「ゆっくり慣れていけばいいでしょう。間違っても、無理やり飲みに誘ったりしないことです」
「その程度のことは言われんでもわかってる」
ふてくされたような声と共に少し頬を膨らませるヴィルヘルム。子供か。
「……彼女、世界座標8332.9987の出身なんです。そこの都心にあるパン屋『シュガー』の甘いパンが好きだって言ってましたよ」
――では失礼します。
俺は踵を返すと、部長の部屋を出た。
「随分と長かったな。お叱りでも食らってたか?」
自分のデスクに戻ると、隣のリックが笑みを浮かべながら俺を見上げてくる。
いや、とお叱りに感じてはキッチリと否定する。
デスクに座ってMUを起動させてから、囁くように言った。
「千尋ってすげぇなって関心してたところだよ」
(2話目に続く)