猫と珈琲とOLの関係性について(16)
通話のコール音が鳴ってる間にエレベーターのボタンをボタンを殴るように押すが、反応はなかった。
「検閲中はエレベーターは使えないんだぞ!」
「だったら走るに決まってるでしょ!」
追いかけてきたやなゆーさんとタマの手をするりとすり抜け、エレベーター・ホールの脇にある階段へと飛び込んだ。
みんな防弾室に向かっているのだろう。階段からは人の気配が全くしなかった。
音楽課は23階。息を切らせながらも階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
――くそ、あのバカ……逃げ足だけは速ぇッ……!
そんな悪態が下の方から聞こえる。
タマもやなゆーさんも私を追って昇ってきているようだが、距離は縮むどころか開いているようだ。
その時――コールが繋がった。
「……ヴィルヘルムだが」
電話の声の主はいささか不快そうであった。検閲とあれば防衛部も兼任している彼なら忙しさの極みだろう。
それでも、私はなんとしても情報を渡す必要があった。
「私は雪島ですっ! 雪島千尋! 昼間あなたが泡吹かせた女の子ですよ!」
「……ッ、雪島さんだと……!?」
声の主は通話相手が私だと気づいた途端に苦虫を噛み潰したような表情がありありとわかる声を出した。
「さ、先程の件は大変申し訳なかったと思っている。だが、今は検閲中で悠長に話している時間など――」
「先程の件はいいですから! ただ情報を伝えたいだけなんです!」
情報、という言葉にヴィルヘルムが反応したように……微かな間が空いた。
「……聞こうか」
「今回の検閲、音楽課が狙いかと思います!」
「その根拠は?」
「音楽課が演奏する予定の『フィンランディア』は世界と時代によっては検閲対象の曲です! やなゆーさんがエスコート予定の客人ふたりは、音楽課に訪れるのが目的だと言っていたそうです! 彼らが今この瞬間に行方不明であることが根拠です!」
ふむ……と微かに思案を巡らせる間。
しかし、それも決断力のあるヴィルヘルムは一瞬のことだった。
「増援の必要性を認めよう。23階の音楽課に防衛部の人員を何人か向かわせるから、千尋さんは防弾室に避難を――」
「すみません、もう着きました!」
「なっ……防弾室から出てるのか!? 俺が行くまで隠れてろ! 絶対に妙な真似するなよ!」
ヴィルヘルムはそう叫ぶが、私は通話を切った。
私は23階のエレベーター・ホールへ飛び出すと、すぐ目の前の小ホールへの扉を強く押し開けた。
*
夏葵は千尋と別れた後小ホールへと戻り、譜面を読み込んだ。
しばらくしてからネフィン・オリード指揮による通し練習が行われる。
――悪くない演奏になったわ。よく譜面を読み込んで、感情を乗せている。本番までその調子を落とさないことね。
ネフィンは演奏後、私の演奏をそう称してくれた。
彼女はとある世界では騎士として活躍していた経験もあるだけあって、人としても指揮者としても厳しい。叱ることはあれど、褒められたことなんてなかった。
だから、彼女からそう評してもらったことがひどく嬉しかった。
今日の練習を終えて皆が楽器を置き、解散した後も私は居残り練習を続けていた。
褒められたその感覚を忘れない内に、音色を指と魂に刻むように練習していたのだ。
だから、その二人組の外国人が部屋のドアを蹴り開けて入ってきた時、小ホールにいたのは私は1人だけだった。
男の握るそれは古めかしさがあり、向けられたそれが何かは一瞬わからなかった。
しかし、その形状は間違いなく――長銃であった。
――諸君が演奏しようとしている曲『フィンランディア』は、我が国ロシア帝国の皇帝が演奏禁止を命ずるところである。
男の発するロシア語をMUは一瞬で翻訳する。
――両手を上げ、手を後頭部へ。弓を離せ。
これが、検閲……。
私は弓を近くの椅子にゆっくりと置いた。片手を後頭部に添える。
その手が意図せずに微かに震えていた。
私にとって検閲は、時折鳴り響くアラームがうるさいということ、そして防弾室にはいらなければならないので「練習の邪魔だなぁ」くらいにしか思っていなかった。
検閲の多くは文芸系の課への襲撃が大半を締めていた。
活字を扱う文芸は検閲用語の有無だけで検閲を行う世界があるので、襲われる可能性が高いのだということは知っていた。
音楽課への襲撃は今まで殆どなかった。防弾室に入っても、下層で繰り広げられる戦闘の音や振動は殆ど伝わってこない。
バイオリンやフルートなどは小さくて持ち運びが容易いので防弾室に持ち込む楽団員も居た。検閲襲撃中だというのに、このフロアの防弾室はちょっとしたコンサートのようになることも多かった。私も小さい楽器なら持ち込んで参加できるのになぁ、と思うこともあった。
だから、直接の検閲襲撃や銃を向けられるのは初めてのことだ。
――楽器を置け。そうすれば、命は助けてやる。
右腕で抱えるように持っていたコントラバスを置こうとした、その時。
「え……」
視界の隅で、もうひとりの侵入者が楽器を仕舞ってある棚に無造作に手を掛け、引いた。
ガシャァッ!と背筋に嫌な汗が流れ、耳に残る音と共に楽器が床にぶちまけられる。
男は腰からぶら下げた鉄製の水筒の蓋を開ける。それを楽器の上で逆さまにすると――飲料水ではない。一見泥水のようにも見えるそれをぶちまける。
一拍遅れて鼻をつく刺激臭に――それが、石油だということに気づく。
――そのコントラバスも寄越しな。
男が全ての石油を吐き終えた水筒を楽器の上に放りながら、言う。
――他の楽器と一緒に燃やしてやる。
「嫌……そんなの、絶対に嫌!」
私は自分の背丈よりも大きなコントラバスを抱きかかえ、庇った。
――いい加減にしな! ぶっ殺されてぇのか!
銃口を向ける男による恫喝に私はビクリと身体が震える。
殺される……千尋ちゃんに背中を押してもらって、ネフィンさんに褒めてもらって。本番まで、後少しなのに。
そう思うと、私は無性に腹が立った。銃口を向けるこの男は、私の何を知っているんだ。
「私が……私達が何したって言うの!? 私はただ、楽譜を読んで作曲者の心を読んで、私の感情を表現したいの! お客さんの琴線を震わせる良い演奏がしたいだけなのに!」
私はコントラバスを抱きしめて、肩越しに男を睨みつけていた。
睨んでいるのに、溢れる涙を止めることができなかった。
銃口を向けられた寒心でも、練習を止められた墳懣でもない――涙をとめどなく流させるこの胸襟のにある感情は。
「夏葵ッ!」
男の叫び声と重なるように聞き覚えのある声が飛び込んできた。声の主は男の背中にタックルをぶちかます。
*
「なんだテメェは……!」
「それはこっちの台詞ッ!」
私は押し倒した男の背中に馬乗りになったまま、反射的に転がった銃を蹴り飛ばす。
「夏葵、大丈夫!?」
「千尋……来てくれたの」
コントラバスを抱えたままの夏葵に駆け寄った。どうやら無事なようだ。
「動くんじゃねぇ、殺されてぇのか!」
部屋の中央でマッチを手にしていた男がそう叫び、銃を構えてジャキッ!と銃口をこちらに向けた。
「このアホウ共が!伏せてろッ!」
遅れて部屋に駆け込んできたタマが見事な跳躍と共に叫ぶ。
咄嗟のことで反応しきれなかった男の顔面に勢いよく拳を叩きつけるタマ。まさにリアル猫パンチ。これは痛そう。
「タマ、意外と強いッ!」
「意外とは余計だ!」
着地したタマに、殴られた男は鼻血を垂らしながらも懐から銀色に鈍く光るバタフライナイフを取り出した。
銃よりも身近なだけあって、その刃渡りの大きなナイフを見ると背筋に冷たい汗が流れる。
「た……タマ! 危ない!」
「死ねッ!」
男は叫びながら大きく踏み込んだ。ナイフを、タマの首筋目掛けて振り下ろす。
ゾッとするスピード――男もきっと訓練を受けていて、そこそこに戦えることを予感させる。
しかし、タマは大きく開いた金色の瞳が一閃の筋を残す程の動きで刃を紙一重で躱す。
ヒュンッ!と男が返すナイフを柔らかい身体を大きく反って避け、
「シィッ!」
そのまま地面に手をつき、重心を乗せると脚を振り上げて男の顔面を勢いよく蹴り上げた。
こんなトリッキーな動き、猫ならだ。人間ならよほど運動神経がよくないとついてこれないだろう。
「ハグゥッ……!」
「顎は痛ェだろ、大人しく降参しな!」
蹴り上げた脚の勢いをそのままに飛び上がり、バック宙のように身体を捻って地面に着地するタマ――そのまま低い姿勢で男に突っ込む。
「ぐぅぅぅっ……!!」
堪えた男が口から血を流しながらも無茶苦茶にナイフを振り回す。
「タマッ……!」
「あんま、こういう血なまぐさいのは得意じゃねぇんだけれどなァッ!」
振り回すナイフが接近しているにも関わらず、空を切り続ける。タマの動きがまるでネズミを追う猫のようだ。
地面スレスレ、時には手を着くほどの低さから一気に飛びかかる。
男にタックルするように肉薄。仰向けに倒れそうな男の首筋へと牙を突き立てに行く――。
その圧倒的な肉食獣の気迫が男の戦闘意欲を失わせた――というより、生物としての格の違いを見せつけたか。
「む……泡吹いてるな」
「そりゃ、突然デカイ猫にいきなり首筋まで迫られたらびっくりして泡吹くでしょう……!」
タマは興味を失ったように男を床に放ると――此方を見て、ぎょっと瞳孔を細めた。
「千尋さん!」
「バカ、後ろだ!」
タマと夏葵の声に振り返れば、先程私が押し倒した男が覆いかぶさるほど近くに居た。
その男が振り上げた手の中には、キラリと光る刃。
「キャァァァッッ!!」
――やられる!
叫んで思わず目を閉じて顔を手で覆う。
……あれ、痛くない……!?
恐る恐る目を開けると、目の前に真っ黒なもふもふの何かがあった。
「温いな、ニンゲン」
「ッ……!?」
ず……と動いた真っ黒なもふもふ。それが退けると、3メートルを超え、壁のような巨体が男の後ろに仁王立ちしている。
防衛部に在籍する三つ首のケルベロス獣人、ヴィルヘルムであった。
「俺の筋肉を切断したかったら、お前はもう少し刃渡りのでかいナイフを持って来るべきだった」
「……!」
ゴシャァッ!とトラック事故のような豪快な音が響く。ヴィルヘルムの肘打ちなのだが、その破壊力は直視できるようなものではなかった。
寧ろ男の安否を心配するほどの一撃だ。
私は床に腰を落としたままヴィルヘルムを見上げていると、胸元の無線マイクを手に取って「23階は工作員2名。共に無力化し状況終了した。そっちはどうだ」と、どこかへと報告をしていた。
「……た、助かりました……ありがとうございます」
私は床に尻もちをついたまま、ヴィルヘルムを見上げ――目を剥く。
その右の二の腕にナイフが刺さったままだったのだ。
「ヴィルヘルムさん! 腕……ナイフナイフ!」
「あぁ……この程度怪我の範疇に入らんよ」
真ん中の頭で報告を続けつつ、右の頭でさも「ちょっと包丁で切っちゃって」と言わんばかりの軽さでそう言う。
実際、ナイフの柄を左指でつまむように掴むと引き抜き、床に放った。腕からの出血がないのは規格違いの肉厚な腕のせいだろうか。それとももふもふの毛並みのせいか。
何れにせよ、互いに気まずい状況であっても(気まずくさせたのはヴィルヘルムだが)身を挺して護ってくれたことには感謝の気持ちしか無い。
鋭い6つの目には未だに慣れず、視線を少し逸して軽く頭を下げる。と、ヴィルヘルムの大きな尻尾がわっさわっさと揺れる。
……こんなに大きくても本質は犬なのか。と――。
「千尋ちゃん! 来てくれて良かった~!」
「おふっ!?」
後ろから抱きついてきたのは夏葵である。
彼女の柔い胸が押し付けられるが……黙ってそのハグを受け入れた。
それは泣きそうな声だったからだ。
「夏葵ちゃん、無事でよかったよ本当に……」
私は後ろから回された彼女の手と、肩にのっかる頬をそれぞれ撫でる。
頬を撫でる手が、彼女の頬を伝う温かい涙で濡れる。
「ひとりで練習してたらいきなりふたりの男がやってきて。いきなり銃を突きつけられて、びっくりして……折角千尋ちゃんに背中押してもらって、ネフィンに褒めてもらえるようになったのにこんな風に死ぬなんて、」
――きっと私、未練があったんだ……演奏せずに死ぬことに対して。
「……無理だよ、私だって。今すぐ死ぬ危機に直面したら、きっとこの世界に未練を残すに決まってる」
こんなやり取りをするなんて思ってもみないことだったから、有り体な事しか言えない。こんな時、どんな言葉を掛けてあげたら良かったんだろう。
自分の中で勝手に不正解を決めつける私の背中で、夏葵がふるふると首を横に振った。
「私、実はスランプで……本当は、演奏することだって嫌だったんだ。毎日練習してるのにネフィンからは駄目出しの連続でっ……。もしも、その状態のまま今日を迎えてたら、きっと死んでもいいと思った。このまま演奏もせず、惨めに詰られっぱなしでも構わないって。楽になれるならなんでもいいって、きっと逃げ出す方向に私は進んでたと思う」
――今、凄く演奏がしたい。もっともっと、新しい曲に挑戦したい。
「私の力なんて微々たるもので、きっとネフィンさんから褒められたのは、夏葵ちゃんの努力が身を結んだ結果だと思うけれど……でも、夏葵が前を向いてくれたなら、私にとってもこれ程嬉しいことはないよ」
ありがと、千尋。
そんな一言と共に強く抱きしめられる。
それと同時に、今までふわっとした「私のやりたかったこと」がわかった気がする。
誰かのために生きるような……困っている誰かを助けるのが好きなんだ。
陳腐な言い方だけれど、誰かに「ありがとう」と言われるのがきっと、何よりも大切なことなんだ。
* * *
「いやぁ……惜しい人材を無くしたねぇ、タマくん?」
すっかり日も落ち、夜行性の生物がちらほらと目立つようになってきたCafe「Rain」。
入り口前の看板をくるりとひっくり返し、Closeにしながらノーべはけろりと言ってみせる。
俺は空いたテーブルを布巾で拭きながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「千尋なら手の空いた時間に手伝いにきてくれるって言ってたじゃないか」
「そうじゃないよ。あんなに可愛い人間の女の子がカフェの店員をやっていたんだ。それだけで社内の噂だったんだよ。キミは見たのかい? 少し顔を見てやろうって好奇心に狩られた、あの獣人どもの当惑した顔を」
ノーべはポケットから布巾を取り出し、まだ拭ききれていないテーブル拭きを手伝う。
「生憎俺は厨房に居たからわからないねぇ」
「あんなに絵に描いたような可愛らしい子が来て、どれだけ売り上げが伸びたか――」
「別にこのカフェはどれだけ売上を出したところで会社の中で金が回るだけだろう。別に気にすることでもなんでも無い」
「そういうことじゃないんだよ、タマくん」
テーブルを拭いたノーべが俺の前にやってきて、折角拭いたテーブルに手をついた。
「これは単純に私の興味本位で婉曲にタマくんを茶化しているのだがね」
「その辺りは理解してるっつの。小説家ってのはそんなに婉曲に喋るのが好きなのか。もっとシンプルに喋れ」
「うむ、では単刀直入に聞こうか。千尋さんが同じエプロンをしていなくて、悲しいと思わないのかい? この会社は男もオスも多いからね、あんなに可愛い子を放っておいたらあっという間に見向きもされなくなると思うが」
「アイツはそういうヤツなんだよ。だから何をどう言ったって一度決めたことは意固地に守り続けるバカなヤツなんだ。変なオスに誑かされるようなヤツじゃねぇよ」
カフェで珈琲作るのも似合ってるが、誰かのために突っ走る仕事が一番お似合いなのさ。
タマはそう、囁いたのだった。
* * *
日が沈み、会社全体に社員の魔力が減ったのを感じながら社長は自分のデスクで書類仕事をしていた。
優秀な部下達に作らせた書類の山。あとは社長本人の承認の判子をバンバン押していくだけの簡単な仕事である。
「承認、承認、これも承認!」
タイトルだけを念の為、という意味合いも込めてナナメ読みしながらバン!バン!バン!と判子を押していく。
傍から見れば実に楽しそうに仕事をしているが、この判子を押す仕事は退屈だ。単調な作業の繰り返し。こんなことをしているなら絵を描きたいなぁ。
そう考えながらも――ふと、視界に飛び込んできた紙面のタイトルに目を丸くする。
――兼課申請書。
書類を社長はじっくりと読んでから、ふふっ、と軽く笑った。
「そっかぁ、雪島さんはこういう風にこの会社と付き合っていくことに決めたんだ。……いやはや、面白いね」
判子を手に取ると、社長はバンッ!と承認の判子を紙面に押し付けた。
「ますます彼女の絵が見たくなっちゃったなぁ」
そんなひとりごとを囁くと、社長は判子を押す仕事に戻ったのだった。
* * *
「えー……本日の朝礼を始める」
ヴィルヘルム部長がにっこにこの笑顔を浮かべている。
ケルベロス獣人の笑顔はもはやネタというか一周回って気持ち悪い。
「まず、皆に新しい仲間が加わったので紹介しよう」
彼が視線を落とすその足元には、まだうら若いパンツスーツの女性が居た。
こういう挨拶に慣れていないのか、内気なのか。その頬は真っ赤に染まっている。
「えぇと、雪島 千尋です。その……私、特段クリエイティブなお仕事ができるってわけじゃないんですけれど……でも、クリエイターの皆さんをサポートする仕事がしたくて志望しました。一生懸命仕事しますので、仲良くしてください。よろしくお願い致します!」
千尋は大きく腰から頭を下げて一礼したのだった。