猫と珈琲とOLの関係性について10

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猫と珈琲とOLの関係性について(10)

 

 

「悪かったよ」

 更に幾つかフロアを降りる階段でタマは平謝りだ。

「別にィ。ずーっとゲームやってれば良かったじゃない」

 私の機嫌が悪いのはもちろんタマがずーっとゲームに興じてたからだ。初めてのゲームだから楽しいのはわかるけれど、ずーっと方っておかれる私の気持ちも考えて欲しかった、というのが正直なところだ。

「あんな子供みたいなハクくんに誘われたら断れないだろ、少し付き合ってあげてたんだよ」
「どっちかと言うとハクくんよりもタマの方が虜になってた気がするけれどね」
「いや、初めて見たが面白いなゲームって。暇つぶしにはもってこいのコンテンツだな、あれは」

 何よ偉そうに解説しちゃって。ただ興味を惹かれただけでしょ。
 ブルーな気持ちのままフロアを降りると、ふと、雄大なクラシックの音色が微かに聞こえてくる。
 私は音色に誘われるがままに廊下を進む。その頃には、もうとっくにタマも音色に耳を傾けているようだった。
 窓から小さな楽団くらいなら簡単に収まりそうな広さのホールステージが見えた。中では50名規模のオーケストラが練習の真っ最中だ。
 ヴァイオリンにフルート、ホルン……様々な楽器の演奏者達は人間も居るし翼の生えた人もいる。その演奏者達の後ろには有翼族コーラス隊までずらりと指揮者を中心に半円に配置されていた。みんな、真剣な表情で指揮者と譜面と手元に集中しており、こちらに気づく者など誰一人として居なかった。

「指揮者、女性だ……」

 指揮台に立つのは真っ赤な翼を持つ凛々しい女性。深紅の瞳が、まるで獲物を狙う鷹のようだ。その鋭い眼差しでオケ全体を見つめ、タクト一本と暗黙で全楽団員を引っ張っていた。
 私はその光景に不思議に思う。女性はどちらかと言うと演奏者側で、男性が指揮をするものだと思っていたから。

「シベリウスだ」

 タマが囁いた。
 重厚な金管の低音が大地に根を張る巨木が連なる、新緑の森を連想させる。
 悪政により高い税が掛けられ、疲弊した村。辛うじて食いつなぐために木々を切り落とし、畑仕事を行う高齢の村人たちと数人の幼い子供たち。
 まだ10歳くらいの少女は学校にも通えずに仕事をするのが己の使命だと思い込んでいた。
 しかし、真実はそうではない。彼女は両親を失った孤児だった。なんとかたどり着いた村で畑仕事を任されながら、辛うじて命をつなぎ止めている。そして、それ以外のことを考えさせられずに育てられたのだと知る。
 降りしきる雨の中、その森に火が放たれた。
 猛り狂うように突撃する武装した兵士たち。雨に濡れた泥水を撥ねさせながら、2つの軍は衝突する。

「交響詩『フィンランディア』」

 銃声が鳴り響き、剣と剣が弾き合う。武力を持たない彼女は目の前で繰り広げられる惨劇を呆然と見ていた。
 涙は出なかった。ただ、自分の作業を毎日偉そうに指示してくる傲慢な男が死んだのを見て、彼女は微かな幸福感を覚えた。
 もう、畑仕事をしなくてもいいんだ。
 雨と血が混じり、赤く染まる大地を踏み、やせ細った少女は一発の凶悪な弾丸で弾けた。
 曲はどこまでも雄々しく盛り上がりを見せていく。悪政に苦しめられていた我国の勝利。
 たったひとり、その少女の幸福感を踏み躙るように、10分弱の曲が終わっていく。

 それまで音楽プレイヤーで聴いていた私の中の音楽の概念が、一気に崩されていく。
 私は脳裏に広がったそんな「光景」を目の当たりにしたのだ。本当の、本物の音楽は感情を揺さぶるだけじゃない、聴き手にそんな光景まで描写させるような力があるのだと。
 しかし、指揮棒を握った真っ赤な彼女の表情はみるみる陰っていく。

「……あのねぇ、人が黙ってりゃいい気になってんじゃぁないわよ」

 その地の底から這い出てくるモンスターのような威圧感を纏った声は私の耳まではっきりと届く。
 発したのは、燃えるような赤い瞳の指揮者だ。
 え、ここ防音室だよね?

「ホルン! 12小節目からずーっと先走ってんじゃないわよ!ここは少し溜める程度が丁度いいって言ってるでしょうが!」

 譜面台に叩きつけた指揮棒がバギィ!と凄まじい音を立ててへし折れる。

「す、すみません……」

 指示棒で直接指摘を受けたアルパカの青年はビクッ、と肩を震わせると分かりやすく顔面が蒼白になっていく。

 チューバ! 第2バイオリン!チェロ!ティンパニー!コーラス!……

 その後も彼女は烈火のごとく吠え続け、指揮棒を譜面台に叩きつける。その度に細い指揮棒はひしゃけ、バキッ!とへし折れるがそんなものを気にしないと言わんばかりに腰のホルスターから新しい指揮棒を取り出しては叩きつけてへし折っていく。

「うわ……キョーレツだねぇ。あれがブチ切れって奴かぁ……」
「タクト何本へし折るつもりだ……」

 呆れたように呟くタマ。

「あれって、結構高そうじゃない?」
「2000円くらいじゃないか。高いものは高いらしいが……というか、お前すぐにモノをお金に換算するのやめたらどうなんだ」
「うわ、2000円かぁ。結構するねぇ。それを腰のホルスターに何本もぶち込んでへし折るんだ……お金がいくらあっても足りないね」

 ひそひそと囁きあう私たちを他所に、ひとしきり指摘を終えたようだ。はぁ、はぁ、と息を切らせている。
 その上で、

「……コントラバス」

 彼女の声のトーンがひとつ下がった。指揮棒で刺されたコントラバスは……ん、あれ?あの顔見覚えがある。
 コントラバスを片手に視線を落とす彼女。確かCafe『Rain』で真剣に楽譜を読んでいた子だ。

「譜読みからやり直せ。曲想を感じれない」

 厳しい一言だった。彼女はショックを受けたように蒼白の表情をしていた。

「1時間休憩し、その後また合わせるからな。各自きちんと練習するように。今夜は私が良いと言うまでは帰さないからそのつもりでやれよ!」

 指揮者の女性は颯爽と指揮台を降りる。ザワつく楽団員たち。

「それじゃぁ、各パート事に分かれて個別に練習だ」

 その後の指示を出すのは、指揮者から向かって1番左手前に居たバイオリン奏者だ。灰色のスーツに青い髪。すらりとした細身の身体。整った表情。その背中には、指揮者と同じように青い翼が生えている。
 と――コントラバスの少女は走り出した。楽器を置いたまま、部屋の入口へ。

「ちょっと!」

 すぐ側のドアを押し開け、飛び出していく少女。私はその背中に声を掛けるが、止まらなかった。

「おいこら、千尋!」

 タマが声を上げるが、私は走り出して止まらない。
 今のあの子には慰めが必要だ。
 そう判断した私はあの子の背中を追ってダッシュする。

 

 *

 

 彼女が向かったのはどんなビルにでもありそうな非常階段だった。23階のそこはかなり高く、脚元から強い風が吹き上げる。彼方には幻想的な風景が広がっていた。抜けるような青空と雲、そして幾つもそびえ立つ岩でできた塔。

「何しに来たの」

 階段に座り込むコントラバス演奏者の少女。前髪に金髪のメッシュを入れていて、よく見れば私よりも若そうだ。高校生くらいかもしれない。

「アンタ、さっき演奏を見てた人だよね。何?失敗したアタシを笑いに来たわけ?」

 全くこちらに気づいていないと思っていたのでドキッとした。私は慌てて首を振り、口を開く。

「そんなわけじゃない」

 随分とカリカリとした様子だ。頭に血が昇っていて、何を話しても聞き入れてくれそうにない。
 私は彼女に向かい合い、微かに息を吐く。

「あの曲……シベリウスの交響詩『フィンランディア』だよね」
「そう。シベリウスの発表作で一番有名な曲」
「私、あの演奏を聴いてさ、頭にぱぁって情景が浮かんだよ。酷い戦火の中に少女が一人いたの」

 彼女はじろり、と視線をこちらに向けていた。
 そのアメジストのような輝きを持つ瞳は微かに涙が浮かんでいた。

「最終的には彼女が所属する国が勝つけれど、彼女は死んでしまう。そんな光景が見えたの。雄大で、力強い曲だけれどその裏側は本当は悲しい曲なんじゃないかって……。私は、そう思った。
 変な話だけれど、私はオーケストラを聴くなんて初めてだったから、曲や音色の良し悪しなんて語れる程知識があるわけじゃない。それに私は楽器が弾けないから、貴女がどれだけ努力してあの場所でコントラバスを演奏するに至ったかの経緯も知らない。だから、安易に同情することもできない。だけど、これだけは言わせて欲しい。私には貴女の弾くシベリウスの中に確かに少女の姿を見たわ」

 コントラバス奏者の彼女は、一度瞳を伏せてから目元を拭う。

「……ばっかじゃない。そんなに早口で適当なこと言って」
「ううぅ……そう捉われるとは思わなかったな」
「別に……ただ、アンタもかなりの世話焼きね。なんか、変な感じだわ」

 彼女は立ち上がる。そして、持っていた楽譜を開いた。

「私は確かにこの譜面の中に少女の面影を見たよ。彼女のイメージを壊さないように、そうやって奏でてた」

 アンタが思う通りにね。
 そう囁くように言う彼女は歯を見せて笑ってくれた。

「オリードは譜読みからやり直せって言ってたけれど、私はこうやってこの曲を演奏するよ」
「うん、間違ってないと思う! 私、シベリウスは聴いたことないけれどね!」
「譜読みに口出すならせめてシベリウスだけじゃなくてクラシックの全般を理解していて欲しいな」
「そうだよね、ごめん」

 呆れたように、彼女は肩を竦めて首を振る。
 そして、懐からスマートフォンタイプのMUを取り出した。

「今度アタシがクラシックのコンサートに連れてってあげるよ。だから連絡先交換しよ?」

 その誘いは断る理由がなかった。だから、ポケットに手を突っ込んでスマホを握る。

「……いやいや、ちょっと待って。自分のMU持ってないの?」
「えっと、MUっていうのは……?」
「こういう色々便利な社内で使える端末のことよ。入社した時貰ってない?」
「え、あの……私つい最近入社したばっかりで、しかもカフェの店員だから個別には貰ってなくて……」

 えーマジ? 融通効かないなぁもう……。
 髪を掻き、少し考えた彼女は小さく息を吐く。

「それじゃ、何かあったら2階のカフェに行くね。アタシは夏葵。武蔵野 夏葵(むさしの なつき)っていうの」
「あ、私は雪島千尋。出来れば、千尋って呼んでくれると嬉しいな」
「千尋ね、アタシも夏葵って呼んでいいよ」

 やったー!初めての友達だ!
 胸中で飛び跳ねるようなキモチになりながら、私は戻る夏葵と一緒にホールへと戻ったのだった。

 

十一話へつづく

 

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