猫と珈琲とOLの関係性について(8)
エレベーターに乗り込むと、まるでテレビで貨物を運搬するそれを彷彿とさせた。違うのは内装が人向けのように綺麗なことだ。
つまり、このくらい大きなエレベーターでないと乗り込めないくらい大きなモンスターみたいな社員も居るってこと……? こわ……。
「意外とあっさりとOKが出るものだな」
上昇する感覚を感じながら、囁くタマ。彼が私と社内見学に行くので少し店を離れたいと申し出た時、意外すぎる程あっさりとOKが出た。
私達が居なくなったら店はノーべさんとリストくんの二人っきりになってしまうし、ノーべさんは執筆の時間に入っていたので実質リストくん一人だ。
「私達が来る前はこれが普通だったからじゃない?」
「客が少ない時間だからってのもあるかもしれないな」
お昼を越すと、途端に客足は落ちる。皆作業に集中しているのか、それとも何か別の要因があるのかは定かではない。いずれにせよ、凪の時間があるのは間違いないようだ。
そんなおしゃべりをしていると、エレベーターの表示階が14を示し扉が開いた。
「わぁ……広ッ」
エレベーターホールから真っ直ぐに伸びる廊下。左は日が落ちつつある広大な草原の光景が広がり、右には幾つか扉がある。それ以外は意外と無機質なデザインで、通っていた短大を彷彿とさせる。床はいつのまにかリノリウムになっていた。
「ここが創作部イラスト課のフロアだ。俺はこの階にアトリエを貰った」
「アトリエって?」
「簡単に言えば、絵画作業にまつわる仕事場だ」
歩き出すタマの横について私も歩く。右に幾つか窓が見え、ひょいと覗いてみればカラフルでおしゃれなデザインの机が並ぶ大部屋だった。奥の方には机と一体化したパソコン型のMUも置かれている。どうやらアナログでもデジタルでも絵を描くことができるように対応しているようだ。
「談話室だな。作業をしながらお喋りをしても良い部屋だ。飲み物や食べ物はNGだけどな」
「すごーい! 見てみて、超かっこいいイケメンの猫さんが居るよ!」
銘々に数人ずつで集まって談笑しながらスケッチブックに筆を走らせていく光景が広がる中、イーゼルとキャンパスに向かい合う三毛のイケメンの猫が私の視界に飛び込んできた。ベレー帽にツナギとなかなか凝ったスタイルだ。
そのキャンパスには女性を描いていた。ただし、緑色だ。
「……凄い宇宙人みたいな女性を描いてるんですけれど」
「油絵で緑色の下絵に肌色を乗せるのは一つの技術だ、アホゥ」
私の頭にゴツン、とタマの大きなげんこつが落ちた。
畜生、嫌味の仕返しか。
「んで、こっちは作業場。こっちは会話もNGだ」
少し歩いて覗くと、今度はパーティションで区切られた燦然とした光景が広がる。デスクトップ型のMUが置かれた机もあるが、イーゼルしかない場所も多い。
ちらほらと集中して作業を進める社員の姿があった。大きな黄色のヘッドホンをして一心不乱にペンタブにペンを走らせる私と同い年くらいの女性が居て、時折手元のノートを見返してはまたペンタブに向き直る。
「すご……ここなら作業も捗りそうだね」
「俺もさっきの部屋よりはこっちのほうが好みだ。一番はアトリエだが……千尋がイラスト課に入るなら話は別になるな」
え、それ入課をさり気なく後押ししてる?
勘弁してよ、と私は手を振ってみせた。
「私は全然絵が上手くないから」
ふるふると首を振る。描けるか描けないか、と言われれば描ける方ではあると思う。
デザインの会社で営業をしていた時、仕事のイメージやラフスケッチくらいなら幾つか打ち合わせの間で描いたことがある。けれど、その程度だ。それを「作品」として仕上げる工程は全くやったことがない。
それに、タマは私でも凄く上手いと断言できる程の腕前だ。どうしても一緒に絵を描くのは気が引ける。
「無理強いはしないけれどな」
そう言うと、タマはズボンのポケットに手を突っ込んで歩き出す。その声のニュアンスが少しだけ不機嫌そうに感じた。
私は小走りで彼の横につく。
「ねぇねぇ、タマの絵は凄く上手でしょ。あのメンバーの中に入っても頭ひとつ抜きん出るんじゃない?」
何気なく訊ねた私の声に、タマの返事は素っ気なかった。
「どうだろうな。自分でもよくわからなってきてるよ」
「えー……? でも、私はタマの絵が好きだよ。あの透明感のある感じが好き」
「そう言ってくれると嬉しいな」
彼の尻尾がゆらり、と無意識に揺れた気がした。
……なんだろう、私にはわからないし上手く言えないけれど。何か元気が無いみたい。
暫く無言で歩くと、特にタマの説明はなかったが恐らくは休憩室であろう自販機や喫煙コーナーがある空間を挟んで、今度は窓がない扉ばかりのエリアに入った。
扉には数字と小さなプレートが掛かっている。木製の素朴なものもあれば、ド派手なプラスチック製のもの、扉の脇に看板を作ったり、ドアに直接絵を描いてしまってる人まで様々だ。
「この辺りがアトリエのスペースだ。俺の部屋は手前から数えて36番目の部屋だ」
「すご……これ一つひとつが専用のアトリエ?」
「希望者にはくれるみたいだな。完全に自室みたいに使ってる奴も居るみたいだが……」
36の部屋にたどり着く。プレートはタマそっくりの白黒ハチワレ猫がデフォルメされていたものが掛けられている。
「タマの特徴がよく現れてるね」
「掛けるのが決まりだが、思いつかなかったから適当に作っただけだ。どうぞ」
タマが扉を開けると、
「……、……え?」
声を上げたのはタマであった。
そこはまるで異世界の小部屋のようだった。フローリングに木製の壁、茶色で統一されたデザインは前の喫茶店を彷彿とさせる。広めのスペースに大きな木のテーブルと椅子、そしてイーゼルと描きかけの絵が描かれたキャンパスが鎮座している。
そして、その前には先程ちらりと見たイケメンの三毛猫の姿があった。
彼はゆっくりと振り返ると、ベレー帽を取った。
「久しぶりだね、タマ。元気にしてたかい?」
「アイリス……」
柔和そうな笑みを浮かべてみせるアイリスと呼ばれたイケメンの三毛猫獣人に対し相変わらず口を半開きにしたまま呆然としているタマ。その姿はまるでフレーメン反応が起きているかのような表情だ。
「相変わらず上手い絵だね、下書きだけでもその力量が伺えるよ」
「アイリスこそ、そこそこ上手くなったんだな。グレーズ技法なんてなかなかできるもんじゃない」
「褒めていただいて光栄だね」
二人は顔見知りのような雰囲気だ。でも、それにしては一触即発の空気。
いずれにせよ、間違いなく言えることは……私は完全に蚊帳の外ということだ。もはや二人の眼中にもない。
アイリスはベレー帽を深く被り直し、目元が影に消える。
「オレはもうホットミルクを舐めてた頃のアイリスじゃない。二ヶ月後の『凍凪杯』で決着をつけよう」
「決着をつけるほどの仲ではないのだがな」
立ち去るアイリスに対しやれやれ、とため息を吐くタマ。
頭をカリカリ、と描いて尻尾をゆらりと揺らす彼は何かを考えている様子だ。その金色の瞳はアイリスがじっくりと見ていた自身の作品に注がれている。
「あのさ……タマ。さっきのアイリスさんって、何者?」
「一言で簡単に言えば俺の腹違いの弟」
「いややいや、一言で簡単に済ませすぎでしょ?」
そういう重大な出来事は先に話しておいて欲しいなぁって前から何度も言ってると思うんですけれど、一回この猫ぶん殴っていいかしら。
胸中のキモチとは裏腹に疑問も湧き上がってくる。
「前にタマ言ってなかったっけ、猫は親の顔を知らないって……」
「そんなこと言ったっけな。でも、猫は転生する間のロスタイムに出会う猫に関しては、血縁関係の猫だけ本能的に嗅ぎ分けることができるみたいだ」
「それで、前に一回あったことがあるんだ」
「レクイエムで、な。あの頃から生意気なクソガキだったんだが……よりクソっぷりが上乗せされている」
レクイエム、というのは私の世界で猫が死んだ時、魂だけが次の転生を迎えるまでの時間を過ごす喫茶店の名前だ。
猫は9つの魂を持っていて、魂は次の肉体に宿って記憶をリセットされて生まれ変わるという。
にわかに信じがたい話だが、私は人間でありながらその喫茶店に迷い込み、そこでタマと出会った。会話を交わし、二足歩行で立ち上がり、美味しい珈琲を淹れる彼は間違いなく現実と虚構の間に確かに存在する猫だった。
私は彼の言葉に翻弄されながらも辛い状況から抜け出して平穏な日々を過ごせるようになった。色々あって、今の私はタマの飼い主ということになっている。
「ふぅん……こんなところで出会うなんて、何かの縁なのかもね」
「俺が営業部のヤツに声を掛けられたんだ。営業部の営業能力が確かなら、アイリスにだって声を掛けるのは間違いないことさ」
そろそろ次に行こうぜ。タマはその言葉とともに歩き出した。
タマにしてはそういう言葉は珍しいような気がして、私は少しだけ彼の背中を見上げる位置で考える。
それってつまり、アイリスはタマよりも絵が上手ってこと?
そんなことは聞くまでもなく彼にとっての地雷な気がしてならなかった。
しかも、創作というものに関わらない私にとっては脚を掛けるどころか近づくことすら許されない、禁断の地雷。
タマのそういう側面がはじめて見えたのに、触れることができない部分。
そういうものが存在するのではないかと、いま、確かに理解してしまうのだった。
(九話目につづく)