猫と珈琲とOLの関係性について(3)
「ヴィルヘルム部長、検閲部隊のスパイでも見つけたのかな?」
まったりとした掴みどころのない声が響いた。同時、俺を掴んでいた手がパッと離される。ソファーに腰から落ちてゲホゲホと咽ながら声の主を確認した。
太めのチノパンに汚れた白いパーカー、背中には同色の真っ白な翼が生えていたが、そのどれもが絵の具でカラフルに染まっていた。きょとん、と小首をかしげるボーイッシュで若い印象を与え――数分前に見た顔でもあった。
「しゃ、社長!? その格好は……!?」
「うん? あぁ、絵の具? さっきまで久しぶりに油絵やってたら汚れちゃった。これからちょっと着替えてこようと思ってたんだよね」
あはは、と笑みを浮かべる彼女はしかしすぐに口元を引き締めて真っ直ぐにヴィルヘルムを見上げる。
「で、タマさんは新入社員だよね? 暴力はいけないなぁ」
「あ、いやこれは先に裏拳を叩き込まれて――」
「パワハラは許さないよ、お仕置きッ!」
社長はヴィルヘルムにピッ、と人差し指を向けたかと思うと――その指先から細い閃光が放たれる。それはヴィルヘルムを一瞬で包み込み、バリバリバリバリィ!と凄まじい雷撃が巨体を包み込んだ。
ぎゃぁぁぁぁっっ、と断末魔の叫びを上げたヴィルヘルムはその場に倒れ、ブスブスと毛並みが焦げる匂いを立ち込めていた。彼の高そうなスーツは穴が空き、ボロボロになっている。
凄まじい高威力の雷撃魔法をまざまざと見せつけられ、俺もノーべも目を丸くする。
「いやぁ、悪い獣人じゃないんだけれどねぇ。威圧的だし攻撃的だからすぐに揉め事に発展しちゃうんだよね。今みたいに恐喝されたらまたボクがお仕置きするからさ」
「おぉ……その時は、よろしくたのむよ……」
にこやかな笑顔の社長に、俺はそう言うのが精一杯だった。
「ところで、そっちの雪島千尋さん……大丈夫? 意識飛んでない?」
「えっ……おい、千尋? 千尋!」
社長の指摘に振り返り、俺に凭れた千尋を見ると青い表情のまま意識を失っていた。
*
深く、長く眠っていたようだった。千尋が目覚めると、真っ白な天井が見えた。
喉がからからで、唇も乾いている。ううん、と喉から漏れる声が自分のものでないような感覚に囚われた。
「あぁ、目が覚めましたか?」
ふと声が聞こえ、そちらに辛うじて視線を向けるとベッドサイドに置かれた丸椅子に腰を下ろし文庫本を手にした少年が見えた。
正確に言えば青と白の毛並みの犬科の獣人だ。ノーべさんと同じブラウンのベストに白シャツ。首元には黒のおしゃれな蝶ネクタイが締められている。
柔らかく響きのいい声と柔和な表情から優しそうな雰囲気が漂っている。
「千尋さん、頭とか痛くないですか」
「頭は痛くないけれど、喉が少し乾いて……」
「あ、お水がありますよ。飲めますか?」
青い毛並みの彼は文庫本を小さなベッドサイドテーブルに置き、代わりにペットボトルを手に取ると中身を紙コップに注いだ。
私はゆっくりと身体を起こして紙コップを受け取ると、注がれた水をゆっくりと飲む。
身体に染み渡るようだ。
「ありがとうございます……あなたは?」
「あぁ、自己紹介が遅くなりましたね。ボクはリスト。ノーべさんと一緒にカフェRainで店員をさせてもらっています。今日から貴女の同僚です」
宜しくおねがいします、と頭を下げる彼に私も慌てて頭を下げた。
「雪島千尋ですっ、いきなりお粗末な姿を見せてすみません!」
「あはは、しょうがないですよ。ヴィルヘルム部長ってこの会社でも1、2を争うくらいの強面ですから。彼に睨まれたら卒倒するのも無理はないかと」
ヴィルヘルム、という声にあの三つ首の化け物じみた姿がまた脳裏に浮かび上がる。
そうか、私は彼に睨まれて意識を失ったのか……。
「怖かったです……」
「元の世界では魔王軍を指揮していた優秀な指揮官だったらしいですからね。彼の肩を持つわけじゃないですけれど、根は優しいんですよ。悪気があったわけじゃないと思います」
リストは苦笑をしながら軽く手を組んで肘を膝に置いた。前傾姿勢になって話をじっくりと聞く態勢になる。
「でも、千尋さんは過去に色々あって高圧的な人をあまり好まないってタマさんから聞きました」
「タマから……?」
「えぇ、この医務室に気を失った千尋さんを運びながら色々教えてくれました。元々『ぶらっく企業』に居たから、あの手のタイプが苦手なんだと」
確かに私はトラウマになるレベルで声が大きくて高圧的な人種は苦手だ。あの苦しいブラック企業時代を思い出すと今でも胃がキリキリと痛むような黒々とした思い出である。
その頃の部長も物凄いトラウマだ。ヴィルヘルムの肩書も同じ部長だし、面影を重ねるところはあった。
「そうだね……あの手のタイプは凄く苦手かも」
でも、そんな頃の話がしたくて此処に来たわけじゃない。
タマと喫茶店がまたできる。薄いブルーの毛並みを持つ狼からそういう誘いがあって、二人で色々と相談した結果――一緒にここへ来たのだ。
悪い記憶を吐き出すように、息を深く吸って吐いた。
リストくんはたっぷりと時間をかけて気持ちを整える様子を見ても、何も言わずに辛抱強く黙って私のことを待ってくれた。彼は見た目どおり優しい仔のようだ。
「タマは今どこに居るのかな……」
「此処に千尋さんを運んでから暫くは居たんですが、今はお店に戻ってノーべさんと一緒に新しいメニューを考えていますよ。彼も喫茶店のマスターをしていたみたいですね。少しコーヒーを淹れる姿を見せて頂きましたが、上手でしたよ。すごかったです」
リストはうっとりとした表情を浮かべるが、一方で私は唇を尖らせる。なんで目覚めた時にそばに居ないのよバカ。と心の中で毒づいておく。
「ふーん……そうなんだ」
私は掛布団を払うと、ベッドから身体を起こしてゆっくりと立ち上がる。
「もう大丈夫ですか? 気分が優れないならこのまま帰っても大丈夫だって言われてますけれど……」
「ありがとう、でも大丈夫だよ。ちょっとパニックになって軽い貧血みたいなものになっただけだから」
壁のハンガーにかかったスーツの上着を羽織った。
「やっぱ初日だし、迷惑かけちゃったからね。ちゃんと話にいかないと」
(四話目へ続く)